64話
刻は少し遡る。
交差点の北側に広がる森の中で、リデルの部隊はまさに地獄のただ中にあった。
偽りの幻影に対する斉射が終わった、まさにその瞬間──本物の騎士団が襲いかかってきたのだ。
「──着剣!」
リデルが叫んだ。
しかし間に合わなかった。
最初の一撃だけで、早くも三十名の兵が命を落とした。
正確には──凄惨に屠られたのだった。
騎士の馬上槍が一振りされるたびに、大柄な兵が容易く吹き飛ぶ。フリンテを盾代わりに構えた者もいたが、銃身ごと真っ二つに両断された。頑丈な金属と肉体が、ただ一撃で切り裂かれたのだ。
戦闘スキルを宿す騎士と、何の力も持たない常人との絶望的な能力差が、目の前で残酷に実演されていた。
兵士たちの絶叫が暗闇に響き渡る。恐怖と死の叫びだ。それでも彼らが逃げ出さなかったのは、背を見せれば即座に後方から斬り捨てられると分かっていたからに他ならない。
リデルは冷徹に戦況を注視していた。
二騎の騎士が、彼を目がけて突進してくる。
その瞬間、何かがリデルの横を疾風のごとく駆け抜けた。
リーフィアであった。
弾丸のごとき速度で、二騎の間に突入する。
一人目の騎士が上段から剣を振り下ろす。リーフィアは体をわずかに傾けてそれをかわすと、すれ違いざまに相手の首元へ鋭剣を深々と突き立てた。
一撃必殺であった。
騎士は声もなく馬上から崩れ落ちた。
二人目の騎士がリーフィアを睨みつけた。
その瞳の色が変わる。目の前の愛らしい少女を、油断ならぬ脅威として再評価する目であった。
両者は激しく剣を交えた。一撃、二撃、三撃──双方ともに決め手を欠いたまま、ギリギリの拮抗状態が続く。
その乱戦の隙を縫うように、第三の騎士が肉薄してきた。
目標はリデルであった。
リデルは腰の鋭剣を素早く抜き放った。
迫り来る騎士の斬撃を正面から受け止める。
両腕が激しく痺れた。
スキルによって強化された絶大な一撃。刃で防ぎ切ることはできたものの、凶悪な衝撃波が全身を突き抜けた。
リデルの身体が大きく後方へと吹き飛ばされた。
背中が容赦なく地面に打ちつけられ、木の幹に腰を強く打ちつける。肺から一気に空気が吐き出された。
一瞬、視界と世界が静止する。
騎士が馬首を返し、こちらへ向き直った。とどめの一撃を刺すためだ。
だが、リデルは即座に動いた。
逃げるのではなく、泥まみれになりながら横へ転がった。
頭上を馬が駆け抜ける。かろうじて直撃を免れた。頭上を鋭い風が空を切る。
次の瞬間、リデルは鋭剣を素早く逆手に持ち替えていた。
通り過ぎる馬の柔らかい腹部へと、躊躇なく刃を深々と突き立てた。
馬が激痛に狂乱し、激しく高く跳ね上がる。
それに乗る騎士が体勢を崩して振り落とされた。
地面に強く叩きつけられ、その衝撃で兜が跳ね飛ぶ。
リデルは、その騎士の素顔を目にした。
まだ若い少年であった。
下手をすれば、自分よりも若いかもしれなかった。幼さの残る顔立ちで、その瞳は激しく揺れていた。恐怖と戦慄、そして興奮が入り交じった、初陣の兵特有の目であった。
しかしリデルの脳内で、その情報は感情を交えず機械的に無視された。
前世を含めて九十年近くを生きてきた、彼の冷徹な殺戮回路が起動する。
リデルは逆手の鋭剣を高く振りかぶった。
全身の力を込め、少年の無防備な顔面へと叩きつける。
騎士の防御スキルが働き、刃はへし折れた。しかし強烈な打撃の衝撃が少年の顔面を打ち砕き、彼の視界を一時的に奪い去った。
少年が苦悶に悶えて崩れ落ちる。
リデルはその上に容赦なく馬乗りになった。
そして、拳を振り下ろした。
一度。
二度。
三度。
四度──。
完全に無言であった。
声も怒号も発せず、ただ機械的に拳を落とし続ける。
敵の防御スキルが肉体を保護しているため、物理的な大打撃には至らない。
しかし、少年の本能は得体の知れない存在と、死の恐怖に呑み込まれ始めていた。ただ生き延びることだけを、全身の細胞が悲鳴を上げて訴えていた。
何度目かの殴打の後、リデルの手がピタリと止まった。
ふと何かを思い出したかのように、腰の短銃へと手を伸ばす。
素早く引き抜くと、少年の半開きの口内へと容赦なく銃口を押し込んだ。
少年が喉の奥から声にならない悲鳴を絞り出した。
もはや言葉の形すらなしておらず、意味のある文章を発せられる状態ではなかった。しかし、その必死な絶叫が何を請い願っているのかは、誰の目にも明白であった。
黒い銃口が、歯を鳴らして奥深くへとねじ込まれていく。
少年は金縛りに遭ったように動けなかった。強力なスキルを持っていようと、少年の精神は目の前のスキル無しに圧倒されていた。
わずかに回復した視界の奥で、見下ろす一つの「存在」を捉えた。
少年はその形相を目にし、口内にねじ込まれた金属越しに籠もった声でぽつりと呟いた。
「あ……あくま……」
それが彼のこの世で発した最後の言葉となった。リデルは躊躇なく引き金を引き、少年の生涯に永遠の終止符を打った。
リデルは少年の腰から、真新しい鋭剣を抜くと、ゆっくりと立ち上がった。
硝煙を吐く銃口を口内から抜き去り、物言わぬ骸を一瞥すると、すぐに周囲へと視線を巡らせた。
騎士団の姿が、目の前から消えていた。
いや──いなくなったわけではない。
彼らは一旦距離を取っていたのだ。交差点から身を突き放し、森の入口付近に再集結していた。
逃走したわけではない。
二度目の再突撃を繰り出すため、隊形を再構築していたのだ。スキル持ちとはいえ、戦い方基本的に一般的な騎兵とは変わらない。騎兵という兵科の絶大な突撃力は、十分な「助走速度」と「密集度」から生み出される。一度距離を置き、加速しながら再び力任せに体当たりをかける──それこそが彼らの定石であった。
次の一撃が来れば、今度こそ完全に終わりかもしれなかった。
先ほど吹き飛ばされた際に傷めた肺が、息を吸い込むたびに激しく疼いた。
「……リデル様!」
リーフィアが駆け寄ってきた。
強敵との接戦を制した直後とあって息は激しく上がっていたが、その足取りに乱れはなかった。
「リデル様だけでもお逃げください! 私めが敵を引きつけますので──」
言いかけたリーフィアの言葉が、途中でピタリと止まった。
リデルの顔を正面から見つめ、喉まで出かかった言葉を引っ込めたのだ。
リデルの表情は、先ほど少年を凄惨に殴りつけていた時のそれとは、また異なる異様なものに変わっていた。怒りでもなければ冷静さでもない。既存のどんな言葉を用いても形容しがたい「何か」であった。
「……あそこだ」
リデルは、殺害した少年から奪った鋭剣の切っ先を前に向けた。
再集結を図る騎士団の、さらに「その奥」を指し示していたのだ。
「あそこにこそ、俺たちが生き残るための道がある」
リーフィアはその突拍子もない狂言を耳にし、即座に反論しようとした。
──しかし、できなかった。
言葉や論理を超えた凄まじい「覇気」のようなものが、リデルの全身から放出されていた。理屈ではなく身体が直感的に理解したのだ──この男の背中を追えば、必ず死線の向こう側へ生きて辿り着ける、という強烈な予感であった。
もはや理屈などではなかった。
リーフィアの足は、気が付けば力強く前へと向けられた。
指先の震えは止まり、その劇的な変化は、周囲にいた兵士たちへも瞬く間に波及していった。
深傷を負った者がいた。目の前で友を失った者がいた。恐怖で膝を震わせる者がいた。
……それでも、彼らは前を向いた。
傷だらけのリデルの背中を見つめ、全員が敵陣に向かって踏み出したのだ。
───
南側の森の縁において、キリルはその異常な光景を目撃していた。
驚愕のあまり、瞳を大きく剥いていた。
傷だらけの敗残兵同然の味方が、戦闘スキルを宿す最強の騎士団に向かって自ら突撃を試みようとしている。
客観的に見れば正気の沙汰ではなく、完全な自殺行為であった。周囲の兵士たちもまた、信じられないものを見る目で唖然と立ち尽くしていた。
しかしキリルだけは、その狂気の光景が持つ真の意味を、全く別の角度から捉えていた。
彼の持つ固有能力『観察眼』のスキルが、リデルの内面に渦巻く感情を克明に読み解いていたのだ。
高揚感。そして純粋な興奮。
しかもそこには、悲観も、諦めも、死への恐怖も何一つ存在していなかった。
キリルは、その精神状態を確認した瞬間にすべてを理解した。
これまで何度か、リデルの判断に不可解な疑問を抱くことがあった。あれほどまでに完璧で精密な計算をこなす男が、なぜ時折、自らの命を完全に計算の枠外へ弾き出してしまうのか。
今、その理由が鮮明に理解できた。
リデル・バートンという男は──「自分が死ぬ」という可能性を、最初から本気で考慮に入れていないのだ。
それは明確な「弱点」であった。自身の命や価値を軽視しすぎる致命的な悪癖である。今回の包囲網に関する読み漏らしもまた、その延長線上に存在するものであった。自分が真っ先に標的とされる可能性を、あまりにも軽く扱いすぎた結果に過ぎない。
しかし──。
それは同時に、この男における「最大の強み」でもあった。
リデルが度々捨て鉢に見える暴挙に出るのは、己が死ぬことなど微塵も信じておらず、死を一切恐れていないからだ。だからこそ決して迷わないし、どれほど傷つこうとも平然と先頭を走り続けることができるのだ。
そして、その揺るぎない覚悟が周囲の人間へと伝播する。
論理でもなければ、明確な根拠などもない。しかし、あの背中を目にした者は、そこにこそ絶対的な生存の可能性があると信じ込んでしまうのだ。
だからこそ、人々は彼についていく。
キリルは、その精神構造を分析し尽くした。
そして──だからこそ、リデルの今の行動を決して許容することができなかった。
なぜなら今この瞬間、キリルはリデル・バートンの本質をグランツやリーフィアより、誰よりも深く理解した。理解したということは、それだけリデルを破る確率が高まったということだ。そしてキリルは、この手でリデルの引導を渡すことを、誰よりも望んでいたからだ。
「勝手に死なせてたまるか、リデル!!」
獲物を横取りされた猛獣の如く、普段の冷静な彼からは想像もつかないほど、激しい感情が剥き出しになった。
キリルは速やかに配下へと振り返った。
「総員、我に続け!! 突撃ぃっ!!」
鋭い号令が飛ぶ。
南側に待機していたキリルの部隊が一斉に雪崩れ込んだ。
交差点は一瞬にして混沌の渦へと叩き落とされる。
再整列を終えた騎士団が突撃直前に、正面からリデルの部隊が肉薄、さらにキリルの部隊が側面から急襲をかける。
二つの軍勢が、深い夜の森の中で激しく衝突した。
もはや誰が生き残り、誰が討ち死にするのか──そんなものはあらゆる計算の枠外へと吹き飛び、ただリデル・バートンが放った底知れぬ狂気の渦の中に、すべての者が呑み込まれていった。




