63話
野戦陣地を急ぎ出発してから、およそ半日以上経過していた。
西の空が赤く染まり、太陽が傾き始めた頃、リデル率いる二百の部隊はついに目的地へと到着した。
そこは帝都へ通じる主道と、渡河ポイントから伸びる支道とが急角度で交差する要衝であった。小さな交差点の周囲には、日光を遮る鬱蒼とした原生林がどこまでも広がっていた。
リデルは立ち止まり、鋭い眼差しで周囲の地形を検分した。
「ここだ」
直ちに二百の兵を二つの隊に分割した。
一隊はリデル自身が直率し、交差点の北側に位置する森の深緑の中に息を潜めさせた。そしてもう一隊はキリルへと託し、南側の森へと同じように配置した。
街道を挟んで左右から挟撃する形である。
敵の騎兵隊がこの交差点を通った瞬間、左右の森林から至近距離で一斉にフリンテを叩き込む──ただそれだけのシンプルな伏撃であった。
あとは、敵が罠にかかるのを待つだけであった。
太陽が完全に落ち、深い夜の闇が森全体を包み込んでいく。
昼間の鳥たちの囀りは途絶え、代わりに不気味な夜虫の鳴き声が森の静寂を支配し始めた。
リデルは大木の太い幹に背を預け、全神経を研ぎ澄ませて眼下の街道を見つめていた。
(そろそろ来るか……)
それは理屈を超えた、戦場での直感であった。
そして──その直感通りに、奴らは現れた。
どたどたと、地鳴りのような蹄音が夜の静寂を破って近づいてくる。
一頭や二頭ではない。極めて密度の高い、多重の蹄音であった。
森の入口の闇の中から、月光に照らされた洗練された騎馬の影群が突如として姿を現した。
リデルはそれを一眼見た瞬間、すべてを把握した。
暗闇に揺らめく旗標──リガニア大公家が誇る最高峰の、一度は壊滅に追いやった「リガニア騎士団」の軍旗であった。
(……先の戦闘の生き残り。全員が戦闘『スキル』の所持者か!)
脳内の情勢計算が、一瞬で最悪の数値へと書き換えられた。
古くから伝わる戦場の諺がある。
「ただの常人兵士と、戦闘スキルを宿す者との間には、実に二十倍の戦力差が存在する」と──。
眼前を進むのは、百騎の精鋭騎士団。
それを常人の兵力に換算するならば、実に「二千」の大軍勢に匹敵する猛威であった。
対するこちらは、わずか二百の兵。
戦力差は、絶望的なまでの「十倍」であった。
伏撃の利はこちらにある。フリンテの絶大な火力の優位もある。……しかし、それを考慮に入れてもなお、あまりにも絶望的な数字であった。
しかも、相手は百戦錬磨の騎士団なのだ。
以前、あの峡谷でリデルが伏撃して壊滅させた相手は、ヴェーデル軍が即席で集めた徴募兵に過ぎなかった。素人ではないにせよ、精鋭とは程遠い存在だった。
しかし、眼前の百騎は違う。数々の死線を潜り抜け、戦場を生き抜いてきた本物の戦士たちだ。不意打ちに対する異常なまでの反応速度も、攻撃を回避する直感も、常人のそれとは桁が違いすぎる。
(……最初の『一撃』で全滅に近い打撃を与えられなければ、我々が全滅する)
相手が規律を維持したまま、白兵戦の殴り合いに持ち込まれれば、絶対に勝ち目はない。最初の斉射だけで、二度と立て直せないほどの壊滅的な打撃を叩き込む必要があった。
リデルはぴくりとも動かず、呼吸すら殺して待ち続けた。
すぐ隣に潜む兵士が、緊張のあまりゴクリと息を呑む音が聞こえた。
……ひたすら待った。
騎士団が、迷いなく街道を前進してくる。まさに交差点の中心へと差し掛かろうとしていた。
距離が急速に縮まる。百メートル、五十メートル──。
まだだ。もう少し、確実に殺せる距離まで引きつける。
距離が三十メートルを切ったその瞬間、リデルは森を揺るがす大声で叫んだ!
「──撃てぇっ!!」
左右の森から二百の銃口が一斉に火を噴いた。
地獄の轟音が夜の森全体に炸裂する。
激しい白銀の閃光が暗闇を切り裂き、濃密な硝煙の煙が街道全体を一瞬で覆い隠した。
リデルは速やかに射撃の結果を確認しようと煙の奥を見つめた。
さらさらと夜風が吹き抜け、白い硝煙が晴れていく。
──しかし。
そこには、騎士団の姿など影も形もなかった。
街道には、誰もいなかったのだ。
倒れた馬の死骸も、引き裂かれた騎士の体も、一滴の血痕すらも落ちてはいなかった。
あれほど響き渡っていた猛烈な蹄音すら、嘘のように完全に消え去っていた。
リデルはその狂気じみた光景を前に、一瞬だけ思考が凍りついた。
(……消えた……!?)
百騎もの重装騎士団が、まるで蜃気楼のように、白い煙の彼方へと溶けて消えてしまったのだ。
「──!? 総員、直ちに着剣せよ!!」
リデルは反射的に金切り声を上げた。
そして次の瞬間──今度は幻などではない「本物」の騎士団が、咆哮とともにリデルたちの潜む森へ向かって猛然と突撃を開始していた。
───
交差点から少し離れた小高い丘の上で、ライル・リガニアは馬上に跨がったまま、眼下で繰り広げられる戦闘を悠然と高みの見物決め込んでいた。
「ねえ」
ライルは馬首を並べる側近の騎士に向かって、どこか楽しげに語りかけた。
「亡くなった叔父上からは『何の役にも立たない外れスキルだ』って散々バカにされていたけれど……僕の『幻影』スキルも、使いようによっては悪くないでしょ?」
騎士は感銘を受けたように深く頷いた。
「一度に作り出せるのは十数体程度の幻像が限界とはいえ、夜間という環境と狭い地形を巧みに組み合わされば、これほど恐ろしい威力を発揮するとは……」
「まさにその通りにございます、ライル様!」
別の騎士も称賛の声を込めて叫んだ。
「ですがそれ以上に、ライル様の戦術眼が見事でございます! 敵がこの交差点に伏撃を仕掛けてくると完璧に予測し、偽りの幻影騎士団を先動させて敵の初手斉射を誘発させ、本物の突撃路を切り開く……。ライル様でなければ、このような神がかった秘策は思いつきません!」
「もし他の者が指揮を執っていたならば、今頃我々も先の攻撃と同じように、無残な死体の山を晒していたはずです。それだけは間違いありません!」
「まあね」
ライルは気楽な口調で笑ってみせた。
「一昔前の時代なら、騎士団がそのまま正面から突っ込んで踏み荒らすだけで簡単に勝てたんだけどさ」
彼は冷たい視線を交差点へと向けたまま、ぽつりと呟いた。
「今じゃあのフリンテのせいで、そう簡単にはいかない。騎士がスキルの本領を発動するよりも早く弾丸が飛んでくるし、ただ突撃するだけじゃ格好の的にされるだけだ。……本当に、やりづらい時代になったよね」
深いため息を漏らすような言葉であった。
「でもまあ──」
ライルは口元を凶暴に歪めた。
「この戦いは、僕たちの完全な勝ちだけどね」
ライルが仕掛けた策は完璧であった。
幻影の騎士団に対してリデルの部隊に一斉射撃を行わせることで、その瞬間、敵の銃弾はすべて空になる。フリンテの再装填には決定的な時間がかかるのだ。その最大の隙を逃さず、背後に潜ませていた本物の騎士団が一気に躍り出て突っ込む──。
一切の反撃を許さず、一方的に全滅させるための必殺の戦法であった。
「さあ、ちゃちゃっと敵を粉砕して、野戦陣地に籠もっているであろう背天者を討ち取ろうじゃないか」
ライルはどこまでも気楽に、勝利を確信して言い放った。
──まさに、その瞬間であった。
ライル・リガニアが、眼下の『敵』が見せた完全な想定外の動きに対し、目を剥いて凄まじく驚愕することになるのは。




