62話
陽が落ちて夜の闇が帳を降ろす頃、リガニア軍本陣の大天幕に将たちが集まった。
参謀から報告された数字は、極めて短く、そして惨憺たるものであった。
総計九千の兵を投じた二度にわたる攻撃の結果──。
死者、九百名。
重傷者、二千名。
たった一日で、一個連隊に相当する貴重な戦力が戦場から消滅した計算になる。
しかも、逃げる敵を追撃しているはずの側が一方的に足止めされ、泥沼の殺戮を強いられた末の惨敗であった。
天幕内の空気は、言葉に絶するほど重く沈み込んでいた。
「……本日の損害報告は、以上にございます」
参謀が冷や汗を拭いながら淡々と読み上げを終える。
誰も口を開くことができなかった。あまりの凄惨な事態に、発するべき言葉すら見つからなかったのだ。
不気味な沈黙のなか、ラステ伯が重々しく口を開いた。
「……今日の夕刻、我が軍の後続部隊が到着した。今や一万の兵を動かせる状態にある」
「……」
「今晩、夜襲をかける。一万の大軍をもって敵の陣地へ夜間突撃を敢行し、あの忌々しい塹壕を力ずくで突破する。陽が昇る前に完全な決着をつけ、遅れている追撃戦を再開するのだ」
天幕の中が、しんと静まり返った。
誰一人として即座に賛成の声を上げる者はいなかった。しかし、この打つ手のない状況下で誰も有効な代案を持ち合わせてはいない。将たちは苦々しい表情を浮かべながら、渋々頷き始めた。
──だが、ただ一人。ライル・リガニアだけが、明確に首を横に振った。
「……反対です」
ラステ伯の鋭い視線がライルを射抜いた。
「理由を言え、ライル殿」
「あの防衛陣地で全軍の指揮を執っているのは、あのリデル・バートンです」
諸将らがざわめく。リデルの名は、良くも悪くも帝国本領まで響いていた。
「悪名高き奸物、とでも申し上げましょうか。あの男のこれまでの戦歴や計略を見れば、夜襲の一つや二つ、最初から想定していないはずがありません」
ラステ伯は固く口を閉ざし、言葉を返さなかった。
「闇に乗じて攻め立てれば、夜の暗闇が我が軍の味方になるとお考えでしょう。しかし、それは敵にとっても全く同じ条件です。暗闇の中で統率を維持するためには、昼間以上に兵を密集させて進軍せざるを得ない。その過密になった隙を狙い撃つなど、あの男にとっては昼間の戦闘以上に容易いことに違いありません」
「……それは、お前の単なる推測に過ぎん」
「はい、確かに推測です。ですが──」
ライルは確信に満ちた強い眼差しで断言した。
「あの男が、夜襲に対して何の対策も講じていないなど……私には到底思えないのです」
ライルの不吉な予感は、完璧に的中していた。
事実、対岸のリデルの陣地においては、夜間照明弾の代用となる大量の花火がすでに準備されていたのだ。
闇に乗じて敵が押し寄せてくれば、夜空へ花火を打ち上げる。それだけで川面は白日のごとく明々と照らし出され、集中砲火の絶好の標的となる──それだけで夜襲は完膚なきまでに無効化されるはずであった。
「ならば……どうしろと言うのだ!」
ラステ伯の声に、抑えきれない苛立ちと焦燥が混じる。
「迂回攻撃を、再度提案いたします」
「だから! それでは迂回して挟撃の陣を整えるまでに『一日半』もの時間がかかると言っているだろうが!」
「ラステ様」
ライルは立ち上がり、ラステ伯の目を真っ直ぐに見据えた。
「少しだけ、発想の転換をなさってください」
「何が言いたい」
「いまから敵の主力であるグランツの三万を追いかけたとして、我が軍が追いつける可能性など、一体どれほど残されていますか?」
ラステ伯は言葉を詰まらせ、沈黙した。
「すでに二日間の決定的な足止めを食らいました。グランツ率いる三万の軍勢は、すでに遥か彼方まで後退を進めているはずです。我々が今から陣地を破って動いたところで、追いつく前に帝都の堅牢な城壁の中へ逃げ込まれる可能性の方が遥かに高い」
「……」
「そうなってしまえば、我々の行っている追撃戦そのものが完全に意味を失います」
天幕の中に、冷ややかな緊張感が走った。
「ならば、戦いの意義そのものを変えるべきです」
ライルは静かに、しかし力強く言葉を紡ぐ。
「『敵主力を追うにはどうすべきか』ではなく──『この最悪の状況下において、我々が敵に最大限の痛撃を与えるにはどうすべきか』と」
ラステ伯は食い入るようにライルを見つめていた。
「そして幸いなことに……」
ライルの薄い唇が、妖しく歪んだ。
「我が軍の目と鼻の先に、最高の獲物が一匹、転がっているではありませんか」
───
翌日も、対岸からの攻撃は開始された。
しかし──その攻勢の質は、昨日までのそれとは明らかに異なっていた。
リデルは塹壕の縁から対岸の敵陣を見下ろし、その違和感を肌で敏感に察知していた。
(攻撃の手が、酷く緩いな……)
押し寄せてくる敵の兵数自体は変わっていない。むしろ増援を得て増えているようすら見えた。しかし、突撃を仕掛けてくる兵たちの気迫と勢いが、昨日に比べて明らかに鈍っていたのだ。川へと足を踏み入れる速度は遅く、こちらの反撃を受けると脱兎のごとく引いていく。
これは、本気でこの塹壕陣地を突破しようとする者の動きではない。
(……『陽動』か)
迫り来る敵兵をフリンテで効率よく撃退しながら、リデルの頭脳は高速で思考を巡らせていた。
──その時である。後方から冷や汗をかいた伝令兵が全速力で駆け込んできた。
「報告! 監視を続けていた上流の渡河ポイントにて、およそ百騎からなる敵の騎兵部隊が川を渡ったのを確認いたしました!」
リデルは対岸への観察を即座にやめ、伝令へと鋭い視線を向けた。
「……その部隊は渡河後、西進してこの陣地の背後を目指しているのか?」
「いいえ!」
伝令兵は大きく息を乱しながら叫んだ。
「敵騎兵隊は西ではなく、そのまま北上しております!」
「……北へ?」
リデルはその言葉を、心の中で静かに反芻した。
百騎の精鋭部隊が渡河し、そのまま北へ向かって突き進んでいる──。
最初に頭をよぎったのは、わずか百騎でグランツ率いる三万の主力に奇襲でも仕掛ける可能性であった。しかし、その思考は一瞬で否定された。いくら強力なスキルを所持する騎士団といえど、たった百騎で三万の大軍勢に正面から挑むなど自殺行為以外の何物でもないからだ。
では、一体何のために奴らは北上しているのか?
リデルは懐から地図を取り出そうとした。
──その瞬間。
落雷に打たれたような衝撃とともに、一つの最悪な可能性がリデルの脳裏を貫いた。
リデルは焦燥を露わにしながら、猛烈な勢いで地図を広げた。
その漆黒の双眸が、描かれた街道の線を凄まじい速度でなぞっていく。
渡河ポイントから、北へと伸びる一本の険しい支道──。
そして、その支道が合流する先にある……主要な「本道」。
その本道とは──帝都へと通じる、この泥地に残るリデルたち殿部隊が最終的に通らねばならない、唯一の「退路」であった。
(……まずい!)
声には出なかった。
しかし、その感情の激動は、普段完璧に鉄仮面を装うリデルの表情へと明確に漏れ出ていた。
その横顔を、隣に控えていたキリルが見逃すはずもなかった。
キリルは持ち前の『観察眼』スキルを使うまでもなく、リデルの表情の変化だけで何が起きたのかを完璧に読み取っていた。
「……どうやら敵は主力の追撃を諦め、我々殿部隊を完全に押し潰すことに狙いを切り替えたようですな」
キリルが静かに、しかし隠しようのない明らかな悪意を込めて呟いた。
リデルは一瞬、鋭い殺意を込めてキリルの方を振り返った。
喉元まで怒号が込み上げたが──次の瞬間、リデルの感情の揺れは急速に収束していった。
他者への殺意や憤怒よりも先に、己の甘さに対する熾烈な「自責の念」が自らの内面を苛んだからだ。
(……追撃側の敵が『時間』の概念を過剰に意識するのは当然のことだ。その貴重な時間をこちらが奪い続けることで、敵の指揮官が目的そのものを切り替え、判断を柔軟に変えてくる可能性を……なぜ私は失念していたのだ!?)
グランツら主力の安全な撤退時間を稼ぐこと、そして敵の動員兵力を一減でも多く削り落とすこと──その目の前の成果に執着するあまり、敵が「主力を諦めて殿を包囲・殲滅する」という次の一手に至る可能性を完全に失念していたのだ。
渡河した百騎の騎兵が支道を北上し、本道との合流地点を先回りして封鎖する。そうなれば、この陣地に残る自分たちの退路は完全に塞がれる。後方からの包囲網が完成すれば、この陣地に籠もる一千の兵は完全に孤立無援となり、磨り潰されるのを待つだけの存在と化す。
(……なんという初歩的な失策を!)
心の中で己を猛烈に罵倒した。
しかし、その不覚の反省はわずか「一秒」で打ち切られた。
次の一秒からは、この壊滅的な状況を打破するための極限の善後策を組み立てるべく、彼の頭脳が高速回転を始めた。
今すぐこの陣地を全面的に破棄して北上すれば、あるいは包囲完成前に本道を通って逃げ切れるかもしれない。しかし、目の前には敵の大軍が張り付いている。今この瞬間に無防備な撤退を始めれば、背後から全力で追撃され全軍が霧散する。
やはり、この地を退くならば視界の効かない「夜間」以外に選択肢はない。
だが、夜までじっと指をくわえて待っていれば、敵の退路封鎖と包囲網は完璧に完成してしまう。
では──どうするべきか?
(……この陣地から精鋭二百の兵を引き抜く。それを私自身が直接率いて先行し、本道と支道の合流地点を何としてでも先回りして占拠する。敵の先鋒騎兵隊と交戦して時間を稼ぎ、今夜この陣地を撤収してくる本隊の退路を死守する──!)
それしか、全員が生き残る道は残されていなかった。
リデルは決然と立ち上がった。
その顔からはすでに焦燥の色は消え去り、いつもの冷静な表情へと戻っていた。
「……敵の一部隊が渡河して北上を開始した。我々の退路を遮断する動きだ」
周りの部下たちが、不穏な空気を感じ取ってリデルを一斉に見つめた。
「これより、この陣地から二百を引き抜く。私が直々に率い、敵別働隊の迎撃へと向かう。何としても本道との合流地点を押さえ、今夜決行する全軍撤退のルートを確保する」
「……では、こちらの陣地守備隊は!?」
「夜を迎えるまで、この陣地を何としてでも死守せよ。日が完全に落ち次第、即座に夜間撤退を開始し、指定の合流地点で私と合流するのだ」
部下たちが一斉に電光石火の勢いで動き始めた。
「──私も行きますよ」
キリルの静かな声が響いた。
リデルは振り返ることすら伸ばさなかった。
「この陣地の守りなど、もはや誰がやっても同じでしょう。敵の現在の緩い攻勢を見れば、これが単なる陽動であることは明白です。本気の正面突破などもう来ない。ならば、私がこんなところに留まる理由もありませんからね」
「……好きにしろ」
リデルはそれだけ冷たく言い放った。
直ちに精鋭二百名が選抜され、過酷な出撃の準備が電光石火で整えられた。
絶望に彩られた殿戦の、本当の第二幕が今まさに切って落とされた。




