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61話

突撃を告げる鋭いラッパの音が響き渡った。

六千の怒濤の大群が、一斉に動き出す。

凄まじい雄叫びを上げながら、兵たちは傾斜を駆け下り、対岸を目指して川へと雪崩れ込んでいった。

レイン川の支流は、決して川幅の広い川ではない。幅はおよそ二十メートルほど、水深も大人の腰に達する程度であった。何ら妨害のない通常の条件下であれば、渡河に大した時間はかからない。

先頭の兵たちが激しく水しぶきを上げながら、川の中へと足を踏み入れた。

男たちは死の恐怖を吹き飛ばすかのように雄叫びを上げ、がむしゃらに前へ前へと進んでいく。

対岸の泥陣地からの反応は、未だ何一つとしてなかった。

五メートル進んだ。未だ何も起こらない。

十メートル、十五メートル──。

陣地からの沈黙を受け、兵たちの足取りに勢いと自信が宿り始める。このまま一気に押し切れる、と誰しもが確信し始めた、まさにその瞬間であった。

先頭集団が川の中央に迫った──その時。

破滅の重低音が、戦場を突き抜けた。

左右双方からの、完璧な同時射撃であった。

野戦陣地の左右から、一斉にフリンテの砲列が火を噴いたのだ。

十字射撃(クロスファイア)』である。

川床の中に過密状態でひしめき合う兵士たちに向かって、左右双方から容赦のない鉛の弾丸が雨あられと降り注ぐ。前にも後ろにも逃げ場など存在しない。彼らを覆う遮蔽物は、ただの冷たい水面だけであった。腰まで水に浸かった身動きの取れない状態で、死の弾丸をかわす術など存在するはずもなかった。

さらに、射撃を担うバートン家の精鋭兵たちは恐るべき練度を発揮し、他家の兵の実に二倍に達する狂気の速度で装填と射撃を繰り返していく。

弾丸を浴びた兵士が倒れ、その隣の兵士が頭を撃ち抜かれて泥水に没する。さらにその背後の兵士も右足を引き裂かれて倒れていく。

それでも、彼らの足取りは止まらなかった。いや、止まることができなかったのだ。止まればその場で射殺される。前に突き進むことだけが、唯一生き残るための道であった。

多大な犠牲を払いながらも、小さくない数の兵たちが命からがら対岸へと辿り着いた。

しかし──辿り着いた対岸は、足を取る底なしの泥濘であった。

川底の深い泥がそのまま岸辺へと続いており、踏み出すたびに足首が深く沈み込んで身体の自由を奪う。泥に脚をとられ、走ることすら叶わない。

その絶好の隙を逃さず、頭上の塹壕から容赦のない至近射撃が叩きつけられた。動きの完全に止まった兵士たちが、まるで標的練習のように次々と討ち取られていく。

それでも、圧倒的な「数」の暴力で力ずくで前進を試みる者がいた。ついに塹壕の縁にまで手をかけ、這い上がろうとする決死の兵が出始めた。

その瞬間──。

ゴォンッ! と、空気を引き裂く重厚な砲聲が十連発で鳴り響いた。

塹壕の後方高くに配置されていた十門の砲から、全門一斉の斉射が放たれたのだ。

砲身に装填されていたのは、対人用の凶悪な『キャニスター弾(散弾)』であった。

一発の砲弾から放たれた無数の鉄礫が、扇状に広がりながら恐ろしい密度で殺傷地帯を吹き荒れる。

川岸に這い上がろうと密集していた兵士たちの上に、その死の雨が容赦なく降り注いだ。

たった一瞬の閃光と衝撃によって、無数の命と人生が跡形もなく消滅した。

地獄のような凄惨な途切れなき殺戮は、その後も一時間にわたって続いた。

正確には──続けようとした、と言うべきであろう。

ラステ伯が撤退と攻撃中止のラッパを鳴らすより早く、現場の兵士たちの脚が、完全に停止してしまっていたからだ。

彼らの心が折れ、士気が根底から完全に崩壊したのである。

川に入ることを拒否する者こそいなかったが、恐怖で膝が震え、誰一人として前へ足を出すことができなくなっていた。やがて自然発生的に後退が始まり、その動揺は瞬く間に全体へと波及し、六千の軍勢全体が引き波のように後方へと雪崩を打って引いていった。

それは将軍の命令による撤退ではなく、生存を望む人間としての根源的な「本能」の選択であった。

 

その激闘の全貌を、丘の上の最も高い場所に一人佇み、見下ろす男がいた。

この塹壕陣地の仕掛け人、リデル・バートンであった。

眼下に広がる惨澹たる光景──レイン川に無数に浮かぶ味方と敵の死骸、血で赤く染まる川岸、そして蜘蛛の子を散らすように退いていく敵の残党を、リデルはただ静かに見つめていた。

その口元には、うっすらと不気味な「笑み」が浮かんでいた。

彼はそれを隠そうとすらしていなかった。それは己の緻密な計算が、狂いなく寸分違わず機能した時にだけ見せる、冷徹極まる勝利の笑みであった。

ここに至るまでのすべての戦況は、何から何までリデルの思惑通りに動いていたのだ。

その横顔を、隣に控えていたキリルがじっと見つめていた。


「……実に見事でございますな、リデル様」

 

キリルが感情を押し殺した声で切り出した。

 

「全軍の撤退戦を見越して、事前にこれほど極悪な殺戮陣地を構築しておられるとは。弾薬と砲弾の補給が続く限り、ここであればどれほどの大軍が相手だろうと永遠に耐え抜くことができそうですな」

 

キリルもまた千名の選抜兵と共にこの殿に参加していた。大部分のバートン兵は、彼の名目上の配下であるラムズとドズレの二人と共に、すでにグランツ率いる本隊とともに後方へと退避させていた。

 

「……フッ、そう上手くはいかないよ」

 

リデルは赤い川の対岸を見つめたまま、軽く首を振ってキリルの言葉を否定した。

 

「所詮は急造の応急陣地だ。本職の要塞建築技師が設計した永続要塞とは根本的にわけが違う」

 

「しかし、この破格の防御性能と殺傷力は──」

 

「敵の猛攻が延々と続けば、どれほど塹壕で身を守ろうとも、中に籠もる兵たちの肉体と精神は確実に疲弊していく。敵が損害を完全に無視して破れかぶれの肉弾突撃を繰り返してくれば、いずれはどこかの線が突破される。何より数の上では向こうが圧倒的に優勢だ。時間をかけられれば、いつかは必ずこの陣地も崩壊する」

 

キリルはその言葉を耳にし、少しの間、無言で考え込んだ。

 

「……ならば、この死地における我々の役目とは一体何なのです?」

 

「──敵の『頭数』を減らすことだ」

 

リデルは、川岸に足の踏み場もなく転がる無数の死体の山へと冷徹な視線を向けた。

 

「ここで可能な限り敵の突撃を誘い込んで迎え撃ち、奴らの兵力を少しでも多く削り取る。この陣地をいずれ放棄した後、我々は運動戦によって敵の追撃を絶え間なく遅延させながら、帝都へと向かう必要がある。その時、我々の背後を追ってくる敵の絶対数が少なければ少ないほど、我々の生存率は上がるというわけだ」

 

「なるほど……徹底的に削るわけですか」

 

「削れるだけ敵の肉を削ぎ落とし、潮時が来れば速やかに逃げる。目的はただそれだけだよ」

 

キリルは手元に広げた地図へと目を落とした。

 

「では……もし敵がこちらの防御の堅牢さに嫌気がさし、川を大きく迂回して背後や側面に回り込んできた場合はどうされます?」

 

「──陣地を捨てる」

 

リデルは、迷うことなく即答した。

 

「この陣地を、ですか?」

 

「当然だ。壕の中に籠もったまま前後から挟撃されれば、全滅は免れない。それでは本末転倒だ」

 

「ですが、それでは敵の戦力をさらに削ぐことができなくなってしまいます」

 

「目的を履き違えるなよキリル。私たちの目的は、主力が安全に後退するための時間稼ぎであり、頭数を減らすのは手段に過ぎん。この強固な陣地に敵の視線を釘付けにし、警戒させるだけで、敵に無駄な時間と日数を強制することができる。仮に敵が迂回策を選択したとして、足の速い最精鋭の騎兵を用いたとしても、回り込むには無茶をして最低でも『一日半』はかかる。実に悪くない取引じゃないか」

 

リデルは長指示棒で、地図上に描かれた主要な渡河ポイントをトントンと叩いた。

 

「既に渡河可能な主要ポイントには、我が方の見張りを密かに配置してある。敵が迂回行動を開始すれば、即座に報告が届く仕組みだ。奇襲を受ける心配など最初からない」

 

「それならば、敵が迂回運動を開始したとしても、こちらは十分な余裕を持って安全にこの陣地を破棄し、撤退に移れるわけですな」

 

「そういうことだ。あとは運動戦で泥沼に引きずり込み、粘り強く時間を稼ぐ。その頃には、敵の兵装も精神も相当に疲れ切っているはずだからね。やりようはいくらでもあるさ」

 

キリルは静かに頷いた。

リデル・バートンという男の存在そのものは鼻について気に食わなかったが、彼が提示した戦略構想自体は、ぐうの音も出ないほど至極真っ当かつ完璧であったからだ。

そしてキリルは、もう一つ──頭の中に浮かんだ『別の可能性』について深く思考を巡らせていた。

しかし、彼は瞳をわずかに細めるにとどめ、それをあえて口に出すことはしなかった。

 

(……もしかすると、この男の底知れぬ『弱点』を掴むための手掛かりが、ここにあるのかもしれん)

 

キリルは心の中でそう密かに呟き、いずれは越えるべき怪物(・・)の横顔をじっと見つめ続けるのであった。

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