60話
リガニア大公軍による怒濤の反転攻勢が開始されてから、二日経過していた。
ボイド・リガニア大公の私室は、荘厳な大謁見の間とは異なり、静謐な空気に包まれていた。
配置された調度品はいずれも贅を尽くした豪奢なものであったが、完全に部屋と調和していた。広い室内には、わずか二人しか存在しなかった。
当主ボイドと、聖母派の枢機卿レオールである。
「此度の惜しみないご援助、誠に感謝に堪えません」
ボイドはまず、深々と頭を下げて礼を述べた。
「莫大な資金の提供、そして女神教信徒たちの加勢──。我が軍の独力のみでは、追撃戦に到底心許なかったところです」
「いえいえ、滅相もない」
レオールは、どこまでも穏やかに首を振ってみせた。
「同じ女神を奉る信徒が理不尽な危機に瀕しておられたのです。全女神教世界の守護者を自負する我が聖母派として、当然の慈悲を施したまでに過ぎません」
「深いお心遣い、重々感謝いたします」
「それと──」
レオールは心地よい笑みをたたえたまま、滑らかに言葉を重ねた。
「いま頃は、帝都の北半分におきましても、我が信徒たちと共に決起した本領貴族の方々が、グランツの残留軍勢に対して猛攻を開始しているはずです。成り上がりの田舎者に過ぎぬローズヴェル家など、そう遠くないうちに帝国本領から完全に駆逐されることになるでしょうな」
「ほう、それは何とも頼もしい限りにございます」
「ええ」
レオールは満足げに目を細めた。
「そして……その後の話なのですがね」
「……」
「二度と同じような愚かな混乱が繰り返されぬよう、帝国本領の統治と管理は、我が女神教聖母派が責任を持って厳重に担わせていただく所存です。……その際には、本領貴族の重鎮たるリガニア大公閣下にも、大いにそのお力をお借りしたいと考えております」
レオールの声は穏やかで耳に心地よかった。しかし、そこに込められた真意は極めて明確であり、隠そうともしない強烈な野心が透けて見えていた。
ボイドはその言葉を静かに聞きながら、内心ではどこまでも冷徹に情勢を計算していた。
(……フン、最初から分かっていたことだ)
聖母派が今回の反乱を利用し、金と人脈の提供と引き換えに帝国本領の実権を丸ごと横取りしようと企んでいることなど、最初から読み切っていた。ゲオルクスという名の怪物が、何の見返りもなく純粋な善意などで動くはずがないのだ。
だが今は、風下に立とうとも、彼らの持つ莫大な財力と人的資源を利用せねばならない。使えるものは毒であろうと骨までしゃぶり尽くす──それこそが、ボイド・リガニアという現実主義者の矜持であった。
「──仰る通りにございますな」
ボイドは至極静かに、一切の感情を殺して応じた。
「私に何らの異論もございません」
レオールは満足そうに何度も深く頷いた。
「さすがは名門リガニア大公の当主ボイド様だ。話が分かるお方で、本当に助かりますよ」
レオールは手元の金杯を静かに持ち上げた。
「では後は、朗報が届くのを優雅に待つといたしましょう。追撃が予定通り順調に進んでいれば、今頃は我が軍の先鋒部隊が、あのグランツの首を討ち取っている頃──」
──コト、と固いノックの音が部屋に響いた。
二人は同時に不快そうに扉へと視線を向けた。
「何事だ。入れ」
ボイドが低く命じる。
重々しく扉が開かれ、一人の家臣が駆け込んできた。その顔色は土気色に染まっていた。
「……申し訳ございません! 緊急の急報にございます!」
「落ち着いて報告せよ」
「はっ! 先ほど最前線の追撃隊より緊急連絡が入りました! レイン川沿いにおいて、我が方の追撃先鋒三千が、およそ千名と思われる敵の殿部隊と接触! 即座に猛攻を仕掛けたのですが──」
「それで? 結果はどうなった」
家臣は一瞬言葉を詰まらせ、喉を大きく鳴らした。
「……攻撃は完全に失敗。先鋒の三千が、壊走いたしました」
室内の空気が、凍りついたように静まり返る。
「……壊走、だと?」
「はい。敵は川沿いにこれまで見たこともない奇怪な構造物を築いており、先鋒隊はそれに対して果敢に総攻撃を試みたとのことですが……報告によれば、短時間で攻撃を中断するほどの被害を受け、退却を余儀なくされたとのことです」
ボイドの表情自体は、ぴくりとも動かなかった。
しかし、その瞳の奥だけが鋭く揺れた。
レオールは金杯を手に持ったまま、固まっていた。
その手に握られた杯が、微かに震えていた。
───
レイン川の流れる河畔において、ラステ伯は愛馬の手綱を強く握り締め、馬を止めていた。
川の対岸に、それはそびえ立っていた。
ラステ伯は、長年にわたって数々の死線をくぐり抜けてきた歴戦の老将である。過酷な攻城戦も、血で血を洗う野戦も嫌というほど経験してきた。要塞や陣地というものがどのような構造を持つか、熟知している自負があった。
しかし──眼前に広がる光景は、彼の知るいかなる防衛拠点とも根底から異なっていた。
そびえ立つ高い石造りの城壁など存在しない。木製の頑丈なバリケードすらも置かれてはいなかった。
ただそこにあるのは、川沿いに長く伸びる高さ十メートルほどの緩やかな高台と、その斜面を縦横無尽に走る不気味な深い「溝」の群れであった。
塹壕──。
攻城戦の土木工事で掘るような深い壕が、丘の斜面に幾重にも立体的に掘り込まれている。そしてその溝の影から、不気味なフリンテの黒い銃口が幾重にも覗いていたのだ。
造形だけを見るならば、お世辞にも脅威とは思えない泥臭い土木作業の痕跡に過ぎない。
しかし、対岸のぬかるんだ地面一面に広がる凄惨な光景が、その楽観的な印象を完膚なきまでに叩き潰していた。
それは──無惨に転がる先鋒数百の亡骸であった。
川岸から対岸の斜面にかけて、びっしりと味方の死体が足の踏み場もないほど重なり合って倒れていた。特に被害が集中しているのは、敵の壕に最も近いエリアである。遮蔽物の存在しない完全に開けた殺傷地帯において、一方的に見えない死の弾丸を浴びせられた者の倒れ方であった。
ラステ伯は、苦々しく顔を歪めた。
先鋒の生還者からの報告はすでに受けていた。前面には圧倒的な密度のフリンテと大砲。壕の中にすっぽりと身を隠した敵兵に対し、こちらの弓矢や遠距離攻撃はほとんど意味をなさない。突撃を敢行すればするほど、こちら側だけが一方的に肉の壁となって削られていくのだ。
「……酷い死体の数と、惨絶な損壊具合ですな」
横から、若い男の声が聞こえた。
騎乗した男であった。若いながらも精悍な顔立ちをしており、その面影は当主ボイドに酷く似ていた。
「あの猛将であった叔父上が、なすすべもなく殺されたというのも……この地獄を見れば痛いほど納得がいきます」
ライル・リガニア──ボイド大公の長男である。
先の惨劇によってジークトが戦死した後、かき集めた残存兵力をもってリガニア騎士団を再編・指揮する男であった。彼は本来ジークトの部下であったが、出陣の直前に父ボイドから別動隊としての待機を命じられていたため、奇跡的にあの虐殺から難を逃れていたのだ。
「ラステ様」
ライルは対岸の不気味な壕から視線を外さぬまま、静かに言った。
「正面からの安易な突撃は、何の意味もなしません」
「……分かっている」
「先鋒の三千があのような惨状になったのです。六千に増援したところで、同じ結末を辿るだけだ。いくら数を増やしたところで、あの塹壕陣地を正面突破で崩すことは不可能です」
「分かっていると言っているだろう!」
「ならば、迂回策を提案いたします」
ライルは毅然とラステ伯を見つめた。
「渡河可能なポイントが、ここから上流に二箇所存在します。そこから我らの一部隊が大きく回り込み、時機を見計らって背後から挟撃を仕掛けるのです。正面からの牽制と組み合わせれば、いくら壕に籠もった敵とて対応しきれず瓦解します」
「分かっている……! だが、回り込んで挟撃の陣を整えるには、早くても『一日半』はかかるぞ!」
「はい。ですが──」
「一日半の遅れは、今の我々にとって決定的に致命的なのだ!」
ラステ伯は視線を鋭く前方へ戻した。
「追撃戦というものは、速度こそが命なのだ! 向こうは今、自らの身を削って必死に時間を稼ごうとしている。我々がその悠長な術中にはまってどうするのだ!」
「しかし、このまま突き進んでは敵の思うツボです!」
「……準備が完了したとの報が届き次第、直ちに総攻撃を開始する。それだけだ」
ライルは悔しそうに唇を噛み締め、それ以上言葉を続けるのをやめた。
しばらくして、後方から馬を飛ばしてきた伝令兵が駆け込んできた。
「ラステ様! 第一波、第二波ともに配置完了いたしました! フリンテ隊、ならびに弩弓部隊の援護体制も整いました! ご命令をお待ちしております!」
ラステ伯は、川の対岸の冷徹な壕を見据えた。
泥の溝の中に、無数の黒い銃口が整然と並んでいる。
それでも──敵にこれ以上の時間を与えるわけにはいかない。
三千では失敗したが、二倍の六千の圧倒的物量をもって押し寄せれば、三千と同じ結果にはならないはずだ。それだけの圧倒的な数さえあれば、あの泥の溝など力ずくで踏みつぶせる──ラステ伯はそう硬く決断したのだった。
「──全軍、攻撃開始!!」
非情な命令が下された。
重厚な歓声とともに、六千の精鋭が死の流れるレイン川に向かって一斉に動き始めた。




