59話
天幕の内部には、未だ混乱と怒号が渦巻いていた。
その過熱した喧騒を切り裂くように、雷鳴のごとき重厚な音が響き渡った。卓を力任せに打ち叩いた音であった。
「──やかましいぞ!!」
ドンの怒号であった。
一瞬にして天幕内の全将校が口をつぐみ、静寂が室内を支配した。
ドン・ヴィステルが、ゆっくりと立ち上がっていた。普段の紳士的で洗練された佇まいはそのままに、その双眸だけは血に飢えた猛獣のように鋭く光っていた。
「わめき散らしたところで、目の前の状況が好転するわけでもなかろうが。黙って静かに話を聞け」
誰もが息を呑み、反論の一言すら発することができなかった。
静まり返った室内で、フランクが静かに地図の前へと進み出た。
「……現状を冷静に整理する」
その声音は極めて沈着であり、冷徹であった。
「いま飛び込んできた二つの報を総合すると、我が軍が危機に直面している局面は大きく分けて二点。すなわち『帝都周辺』と、我々が対峙する『前面のリガニア軍』だ」
フランクは長指示棒で立体地図の一点を鋭く指し示した。
「幸いにも、我々の現在地と帝都を結ぶ主要な連絡線は、現時点において未だ寸断されてはいない。これが最大の救いと言える」
「帝都周辺には現在、我が軍の総勢七万に及ぶ兵力が存在している。しかし問題は、そのほぼ全軍が帝都の治安維持や各補給拠点の警備として広域に分散配置されている点だ。このまま後手を踏めば、集結した敵八万によって各地で個別に撃破される致命的な危険性がある」
フランクは一度言葉を切り、深く息を整えた。
「よって、我々が今直ちにとるべき最善手は、この三万の精鋭を引き連れて速やかに帝都へと転進することだ。そして分散している七万の兵を一点へと迅速に集結させ、堅牢な拠点防衛の態勢を整えた上で、外線の敵勢力を脅威度の高い順に潰していく」
「総兵力においては確かに敵が優勢だ。だが、複数の方向から同時に迫る敵連合軍は、互いの連携や足並みを揃えることが極めて困難という弱点を持つ。その致命的な隙を突けば、十分に個別に撃破可能だ。戦力差は決して覆せない数字ではない」
論理的で明確なフランクの分析を聞き、将たちの顔からパニックの色が引いていく。
「そして──この撤退作戦を完遂する上での最大の問題は、追撃の阻止だが──」
「それなら、問題ない」
フランクの言葉が終わるより早く、ドンが遮るように言った。
「前面で構える四万のリガニア軍を引き止める『殿』の役だろう。我が軍の撤退中に背後から全力で突かれれば、三万の全軍が瓦解する。誰かが死力を尽くして踏みとどまり、敵の出足を完全に止めねばならん」
ドンはどっしりと腕を組んだ。
「勿論、私がその役目を引き受ける。異論はあるまい」
一切の揺らぎのない、断固たる確信に満ちた言葉であった。
リデルは、その一連のやり取りを静かに見つめていた。
(流石だな……)
心の中で深く感心していた。フランクの状況分析は完璧であり、ドンの決断は驚くほど早かった。二人の優秀な将によって瞬時に状況が整理され、正解が導き出された。
しかし──。
リデルは静かに口を開いた。
「一点だけ、異議がございます」
ドンが鋭い視線をリデルへと向けた。
「ドン殿が殿を引き受けることには、私は反対いたします」
「……何故だ?」
「ドン殿はローズヴェル軍における重鎮です。帝都へ戻り、七万の大軍を率いて反撃へと転じる勝負の局面において、絶対に欠かすことのできない指揮官のお一人。……それだけではありません」
リデルは一歩前へ出ると、言葉を重ねた。
「撤退戦の最中というのは、戦場において最も不慮の事態や予想外の事故が起きやすい局面です。万が一にも殿を務める将が討ち取られれば、撤退作戦全体の指揮体系に致命的な打撃を与え、全軍の士気が大いに動揺します。そのような決定的なリスクを、ドン殿が背負うべきではありません」
「ならば、誰がその命がけの役目を務めるというのだ!」
ドンの声音に、怒りを含んだ厳しさが混じる。
「他に、この局面で引き受けられる度胸と力を持った者がいるというのか!?」
リデルは静かにその場に立ち上がった。
「──私がやります」
天幕内が、再び静まり返った。
「……宰相殿が、自ら殿を務めると仰ったのか?」
ドンが低い声で問い質す。
「はい。私がこの作戦の適任者は自分であると確信した次第です」
リデルは、全軍の頂点に座すグランツへと向き直った。
「それに……今回我が軍が直面した苦境の端緒は、私が進言した『一週間の補給と休養期間』にあります」
「……」
「各軍に一週間の休養と再補充を勧めたのは、他ならぬ私です。もしあの一週間を置かずに即座に打って出ていれば、敵の準備が整う前に叩けていたかもしれない。その責任の一端は私にあります。故に、今回の殿という死地を進んで引き受けることで、その責任を果たさせていただきたいのです」
グランツはリデルの静かな眼光を、しばらくの間無言で見つめていた。
やがて、その隣に控えていたレイ・ヴェーデルへとゆるりと視線を流す。
「宰相殿がこう仰っているが、レイ、君の意見はどうかな?」
「え?」
レイは一瞬だけ間を置いた。
「ええ……まあ、本人がそこまで強く望むのでしたら、よろしいんじゃないかな」
そう口にしながらも、その美貌の瞳の奥には、どこか他人の不幸や破滅を密かに期待するような、妖しく陰惨な光が僅かに揺らめいていた。
その時、後方に控えていた諸将の中から、一人の若い将が毅然と前に進み出た。
「──私も、殿志願の申し出がございます!」
声の主を見ると、キリル・バートンであった。
「バートン家の兵力とこの私をも、殿の陣列に加えさせてください!」
天幕の中が、さらにしんと静まり返った。
リデルは驚きをもってキリルを見つめた。
キリルの顔からは、いつもの斜に構えた皮肉げな態度は完全に消え去っていた。そこにあったのは、己の退路を断ち、覚悟を決めた一人の将としての真剣な表情であった。
(……)
リデルは内心で深く驚嘆していた。
彼の中に功名心はあるだろう。己に対する対抗心や執着も大いにあったはずだ。しかし、これほどまでの死地となる局面において、真っ先に自ら手を挙げて前に出てくるとは想像していなかった。良い意味で、リデルは目の前の男の評価を見直していた。
「グランツ様」
フランクが静かに助言した。
「キリル殿の申し出も、お受けになるのが最善かと存じます。バートン家が誇る精鋭の兵力と彼の高い将才は、過酷な撤退戦において大きな力となるはずです」
「異論はない」
グランツは短く、力強く頷いた。
「諸将は直ちに各自の部隊へと戻り、撤退の準備に取りかかれ。一刻を争うぞ!」
「ハッ!」
将たちが一斉に動き出した。幾重もの重厚な足音が重なり合い、やがて天幕の外へと散っていく。
嵐のような喧騒が去り、天幕の中には再び静寂が戻っていた。
室内に残されたのは、総大将グランツと、黒衣の宰相リデルの二人だけであった。
「……今回の一連の状況も、すべてお前の計算通りか?」
グランツが、低く深い声で切り出した。
「大方は」
リデルは淡々と応じた。
「我が軍が現在地から帝都へと戻る主要ルート上には、あらかじめ幾つもの物資集積所を極秘裏に設けてあります。事前に私の方で準備を進めさせておいたものです」
「ほう……」
「グランツ様の卓越した統率下であれば、集積所の物資を活用して一週間もあれば全軍が無事に帝都へと帰還し、即座に大反撃へと転じることができるでしょう」
グランツは卓上の地図へと視線を落とした。
「用意周到だな」
「はい。残る唯一の問題は、移動中の無防備な背後の安全です。いかにグランツ様といえども、撤退中に四万の敵から背後を強く撃たれれば無事では済みません。故に、私が殿を引き受けたのです」
「なるほどな」
グランツは少し間を置くと、口元を薄く歪めた。
「そして、首尾良く我が軍に牙を剥いた愚か者どもを返り討ちにすれば、戦後、その広大な領地は思いのままに切り取り放題になる……というわけか」
「まさに仰る通りです」
リデルは静かに、しかし冷酷に言い切った。
「我々は元より、彼らに対して臣従と引き換えに領地安堵の寛大な条件を提示しておりました。その差し出された手に対し、自ら唾を吐きかけて反逆の刃を抜いたのは彼ら自身です。もはや一切の容赦は不要でしょう。我々が勝てば勝つほど、反逆者どもの領地は合法的に我らの手中に落ちることになります」
「ふん、何から何まで、すべてお前の描いた盤上の筋書き通りというわけか」
グランツは地図から視線を外し、真っ直ぐにリデルの顔を見据えた。
「……だがリデル。いかに完璧な計算があろうと、殿という役目がお前にとっても死地であることに変わりはないぞ」
「そうですね。文字通り、死を覚悟しなければ務まらない役目でしょう」
リデルが淡々と答えると、グランツは静かに、しかし決して逆らえぬ絶対的な重みをもって告げた。
「……絶対に死ぬなよ、リデル。お前にはまだまだ、私のすぐ隣で大業を手伝ってもらわねば困るのだからな」
それは命を与える絶対者の命令ではなく、己の半身を慈しむような、祈りにも似た静かな声音であった。
「──御意にございます」
リデルは深々と頭を下げ、誓いを受け止めた。




