57話
帝国の南部には、世界最大の内海と謳われるソルディア海へ向かって、細長く突き出す広大な半島が存在する。
その半島の入り組んだ沿岸部と、周辺に点在する無数の島々には、大小合わせて三百を超える都市国家がひしめき合うように並び立っていた。
大陸の他の地域と比較すれば、一つ一つの勢力圏は極めて小規模である。城壁で頑強に囲まれた一つの港町が独立した「国家」として機能し、それぞれが独自の法律と商慣習を掲げ、隣国と激しく競い合いながら共存していたのだ。
なぜ、これほどまでに過度の分立状況が長年にわたって維持されてきたのか。
そこには、明確な二つの理由が存在した。
一つは、地理的な要因である。
ソルディア海は、大陸を隔てる巨大な内海でありながら、同時に三大陸を結ぶ海運の「一大交差点」でもあった。北の帝国本土から運ばれる豊富な物資、南方の熱帯地域からもたらされる貴重な香辛料、そして西の大陸から届く希少な鉱物。それらすべての交易品が、この半島の港湾を経由して流通していた。海運、交易、そして金融が爆発的に盛んになるのは、地理的な必然であったと言える。莫大な富がこの地に流れ込んで豊かさを生み、その豊かさが堅牢な都市を築き、やがて都市そのものが独立した国家へと昇華したのだ。
もう一つは、政治的な意図である。
かつての連合帝国の中央政権は、この富める南部地域が一つに統合されることを何よりも警戒し、望まなかった。三百の小国が互いに反目し合って乱立していれば、どれほど経済的に豊かであろうとも、中央を脅かす単一の強大な軍事勢力にはなり得ない。帝国は長年、この分立状態を維持するために政策的な介入を続けた。都市同士の統合の動きを陰に陽に阻み、対立の火種を煽り、突出して強大化する者が現れないよう見張っていたのだ。
しかし、その絶対的な重石であった連合帝国が崩壊した。
帝国中央という権力の空白が生じた瞬間、南部地域を縛っていた絶妙な均衡は一気に瓦解した。
統合を阻んでいた外圧が消滅した戦国において、「誰か」が動き出せば、すべてのドミノが倒れるのは自明の理であった。
そして、その「誰か」の動きは劇的であり、極めて迅速であった。
連合帝国の崩壊から半年も経たないうちに、三百の都市国家の間に緩やかな統合体である『南部都市国家連合』が結成されたのだ。この驚異的な大同盟を裏で演出し、形整えた稀代の仕掛け人こそが、他ならぬ教皇ゲオルクスであった。
女神教聖母派──。
それは連合帝国において最大規模を誇る絶対的な宗派である。その信徒数は八千万人に達すると噂されていた。大陸の全人口のどれほどを占めるのか、正確に数え上げた者は存在しなかったが、いかなる国家のいかなる街であっても、その信徒の姿を見ない日はないとまで言われていた。
教皇ゲオルクスは、その巨大な信仰世界の頂点に君臨していた。
信徒たちが日夜捧げる莫大な寄付金が、教会の財政を底なしに支えていた。八千万の信者が納める寄付金は、帝国内のいかなる公国の国家税収をも遥かに凌駕する。教会は大陸全土に網の目のように礼拝所を展開し、式典において教皇の名は、皇帝の名と並んで厳かに読み上げられていた。
だが、ゲオルクスという男が真に特別であったのは、彼が単なる宗教的な「シンボル」の領域だけに留まらなかった点にある。
帝国の崩壊と同時に、彼は即座に行動を開始した。
富裕な南部都市国家群に対し、互いの自立を認めつつも利益を共有する「連合体」の枠組みを鮮やかに提示したのだ。激しく対立する都市の間に入って緻密な仲裁を行い、共通の経済的利益を示し、最終的には宗教的な絶対権威をもって彼らに合意を呑ませた。その過程において、武力による脅しなどは一切行わなかった。そもそも、そのような野蛮な手段を講じる必要すらなかったのだ。
圧倒的な経済力と、絶対的な信仰の権威。その二つを兼ね備えた者が至高の仲介者として立ち回れば、利に聡い小国たちは自然と集うしかなかった。
こうして、南部都市国家連合は誕生した。
名目上の最高議長は各都市の代表が輪番で務める形式を取っていたが、その連合の「影の主」が誰であるかは、もはや公然の秘密であった。
八千万の信徒がもたらす天文学的な寄付金と、大陸最大の経済先進地域を完全に掌中に収めたゲオルクス。彼は今や、崩壊した連合帝国内において最大の財力を誇る絶対的な首領として、静かに、しかし確実に君臨していた。
そして、この「財力」という最強の力を有する怪物が、今まさに覇業の第一歩を踏み出さんとするリデルとグランツの前に、巨大な壁として立ち塞がろうとしていた。
───
女神教聖母派の総本山、聖都ベルノープル。
ソルディア海の青い波濤を見下ろす美しい丘陵地帯に築かれたこの都市は、磨き抜かれた石畳の街並みと清廉な白壁の建築物が整然と立ち並ぶ、壮麗な都であった。信徒にとっては生涯に一度は巡礼に訪れたい至高の聖地であり、諸国の為政者にとっては決して無視することのできない巨大な権威の中枢である。
その都市の中心部に、天を突く大聖堂がそびえ立っていた。
天高く伸びる美しい尖塔、四方の壁面に施された精緻極まる聖彫刻、そして内部には大陸中から献上された富の結晶が惜しみなく散りばめられている。教会の持つ絶対的な権力と神聖不可侵の権威が、その建造物の隅々に至るまで体現されていた。
その大聖堂の奥深く、格式高い一室において、二人の男が対峙していた。
「──実に、遺憾であると言わざるを得ない」
重苦しい沈黙を破って口を開いたのは、現在は南部都市国家連合に身を寄せている帝国の第一皇子、ローデンスであった。
年齢は三十代後半ほど。皇族らしい端正な顔立ちをしており、身に纏う衣服も一流の贅を尽くした立派なものであった。しかし、言葉を発したその瞬間から、その声音には自らの正当性を周囲に誇示し、納得させようとするような、どこか虚しい力みが混じっていた。
「西方領域の単なる外様に過ぎぬはずのローズヴェル家が、こともあろうに帝室の藩屏を勝手に自称し、帝都ミッテルへと傲然に入城を果たした。しかも、あの血筋は忌まわしき『女神殺しの一族』の末裔ではないか。成り上がりにも程があるというものだ」
ローデンスは苛立たしげに席を立ち上がると、大袈裟に身振りを交えながら言葉を荒げた。
「それだけに留まらず、今度は帝国の譜代の名門であるリガニア大公家に対して堂々と侵略の軍を進め始めたのだ。このような不埒な所業を放置すれば、帝国の秩序は完全に崩壊してしまう。次期皇帝として帝国臣民の守護者たるべきこの余が、そして全女神教世界の偉大なる擁護者たる猊下が、今すぐ一致団結して立ち上がるべきではないのか!」
対面の豪奢な椅子に深く腰掛けていた老人が、その剣幕に対して静かに、穏やかに頷いた。
教皇ゲオルクス。その外見は七十代の好々爺に見えた。豊かな白髪を蓄え、顔に刻まれた深い皺からは、全体的にひどく柔らかく温厚な印象を受ける。その瞳はどこまでも穏やかであり、他者に対して声を荒げて怒る姿など到底想像もつかない風貌であった。
「真に、殿下のお仰る通りでございます」
ゲオルクスは、慈愛に満ちた声音で応じた。
「グランツ殿の今回の唐突な軍事行動は、確かに穏やかならぬものがございますね。名門たるリガニア大公家への侵攻は、教会といたしましても由々しき事態と言わざるを得ません」
「そうだろう! ならば、即座に──」
「しかしながら」
ゲオルクスは、遮るように穏やかなトーンのまま言葉を継いだ。
「いかに乱世とはいえ、我々が軽率に武力をもって応じてしまえば、それ相応の尊い血が流れることになります。大いなる血が流れることは、我が女神教の慈悲深き教えに真っ向から反する行為にございます」
「だが猊下、あのような野心家どもに言葉の通じる道理など──」
「まずは、対話を試みるべきでございます」
ゲオルクスの声に、ほんの僅かではあるが、先ほどとは異なる「異質な重み」が混じり込んだ。どこまでも穏やかでありながら、その実、決して他者の反論を許さない絶対的な何かがそこには存在していた。
「グランツ殿とて、幼き頃より我が女神教の洗礼を受け、神の光を浴びた身。我々が差し出す言葉に耳を傾けてくださる余地は、必ずや残されているはずです」
「ぬるい、温情が過ぎるぞ猊下よ!」
ローデンスは不満げに眉を厳しくしかめた。
「そのような生ぬるい対応で、あのローズヴェルの成り上がり者が大人しく引き下がると、本気でお思いなのか」
「この一件につきましては、どうかこの私にすべてお任せください」
ゲオルクスは、ローデンスの瞳をじっと見つめた。
その視線は相変わらず優しげであったが、同時にそれ以上の感情を一切読み取らせない、底知れぬ深淵のようでもあった。
「ローデンス殿下におかれましては、国を憂う様々なお考えがあることは重々存じております。しかし──ここはどうか、私の判断に従っていただけますな?」
ローデンスは何か言い返そうと、その口を僅かに開いた。
しかし、次の言葉がどうしても喉の奥で支えて出てこなかった。
老教皇の瞳が急激に変貌したわけでも、その声音が激しく荒ぶったわけでもない。ただ、部屋の空気を一瞬にして支配した目に見えない圧倒的な圧迫感に気圧され、皇子としてのプライドに満ちた言葉は完全にその出口を失ってしまったのだ。
「……ふん、承知した」
ローデンスはせめて外面だけは毅然とした態度を装いながら、椅子から立ち上がった。
「そこまで言うのであれば任せよう、猊下」
「寛大なる御配慮、感謝いたします」
ローデンスは言いたいことだけを慇懃無礼に言い残すと、不満を隠せない様子で足早に部屋を後にした。
彼が退出してしばらくすると、重厚な扉が再び静かに開かれた。
「教皇猊下、枢機卿の方々が、緊急の案件にて至急のご面会を求めておられますが」
「……通しぃや」
ゲオルクスの口調が、その瞬間にガラリと一変した。
先ほどまで第一皇子に対して使っていた、洗練された標準的な帝国語の響きは跡形もなく消え去っている。そこにあったのは、南部地域特有の泥臭くも独特な訛りがくっきりと出た、極めて砕けた物言いであった。
三人の枢機卿が静かに室内へと入ってきた。彼らはそれぞれ慣れた様子で席を取り、深く腰を落ち着けた。
「教皇猊下、あのアホ皇子の御機嫌取り、本当にお疲れさんでございました」
一人の枢機卿が、親しげに笑いながら言った。
「ほんまやで」
ゲオルクスは先ほどまでの聖職者としての厳かな姿勢をかなぐり捨て、椅子の背もたれにどっしりと体重を預けながら毒づいた。
「いちいちあんな奴の標準語に合わせて喋るんも、難儀でかなわんわ。それにしてもアイツはいい加減、自分が置かれとる立場っちゅうもんをちゃんと理解してくれんかねぇ。だから第一皇子のくせして、誰からも人望がないんやわ、アレ」
その辛辣な物言いに、三人の枢機卿は声を殺してくすくすと肩を揺らした。
ゲオルクスは懐に無造作に手を入れ、上質な葉巻を取り出した。すぐさま横に控えていた枢機卿が手際よくマッチを擦り、その先端に火を灯す。
教皇は紫煙を深く一口吸い込み、天井に向けて気怠げに煙を吐き出した。
「──で、その急ぎの案件っちゅうのは一体何や?」
その座り方は完全に崩れ、公式の場で見せる猊下としての面影は微塵も残っていなかった。そこにいるのは、海千山千の強者を束ねる裏の首領そのものである。
「さぞかし、私を喜ばせてくれるええ話なんやろな? こっちも色々と忙しいんやから、つまらん話やったら承知せんで」
「ええ、間違いなく」
枢機卿の一人が、その表情をグッと引き締めて告げた。
「リガニア大公、ボイド・リガニアより、我が方に対して『援助』を要請する使者が参りました」
その言葉を聞いた瞬間、ゲオルクスの瞳の奥の色が完全に変わった。
だらしなくくつろいでいた体躯が、わずかに前へと傾く。
「……その話、ほんまいかいな!」
「はい。正式な全権を持った使者を通じて、です」
葉巻の白い煙が、静かに室内の天井へと揺らめきながら昇っていく。
教皇ゲオルクスのその双眸には、先ほどまで第一皇子に見せていたような偽りの緩やかさは微塵もなく、獲物を狙う肉食獣のような、ギラギラとした強烈な野心の光が不気味に輝いていた。




