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56話

リヒトの瞳の奥が、ふっと遠くなった。

それは、今から四年前の、血生臭い記憶の深淵であった。


───

 

リヒトは、貧乏男爵家の生まれであった。

本領貴族という名ばかりの身分こそ持ち合わせていたが、受け継ぐべき土地もなければ、就くべきしかるべき役職もない。何一つ持たぬ実家において、貴族という肩書きは誇りではなく、むしろ生きる上での重荷でしかなかった。

しかしある時、彼は一つの噂を耳にする。

帝都の第二皇子が率いる私兵部隊・親衛隊は、家柄や身分よりも、個人の実力と能力を何よりも重視する──と。

リヒトは迷わず入隊した。

時代はまさに狂おしき戦乱の最中であり、武勲を立てる機会などいくらでも転がっていた。一つ一つの熾烈な戦闘において、リヒトは確実に、そして圧倒的な結果を叩き出し続けた。彼には天性の将才があったのだ。的確に部下の命を救い、冷徹に敵の裏をかき、ただ愚直に勝ち続けた。

第一皇子派の勢力を帝都から完全に駆逐したあの歴史的な大戦においても、リヒトはその中心に立って軍を指揮していた。

その後の論功行賞の場において、彼は異例とも言える若さで将軍の地位を授けられた。

その時初めて、自らの前に輝かしい未来が大きく切り開かれたのだと確信した。この栄光は、これから先も長く続いていくのだと信じて疑わなかった。

だが、あの女がやってきたのだ。

 

北方軍閥の圧倒的な大軍を率いて南下してきた第三皇女──マルシア。彼女の参戦によって、リヒトたちの運命は一瞬にして暗転することとなる。

マルシアの神懸かり的とも言える戦術指揮の前に、それまで無敵を誇った第二皇子の親衛隊はなす術なく、連戦連敗の憂き目に遭った。

形勢不利と見るや、主君である第二皇子は、東方の有力貴族ティーガル家へと早々に亡命してしまった。帝都に残された忠義の兵たちも、無辜の民も、自らのために戦い続けていた親衛隊をも、そのすべてを無慈悲に投げ捨てて。

逃げ道を失った他の友軍部隊は、次々と統率を失って瓦解し、逃走し、あるいは徹底的に殲滅されていった。

その絶望的な状況下で、ただ一人、リヒトの部隊だけが最期まで戦列を維持し、泥をすすりながら戦い続けた。

そして、運命の最後の決戦。

マルシア本人が直接指揮を執る敵本隊との、不意の遭遇戦であった。

激戦の果て、気づいた時には、すべてが静寂に包まれていた。

リヒトが深い意識の底から目を覚ました時、彼の周囲には見渡す限りの死体が山のように積み重なっていた。

息絶えた自らの部下たちが、まるで己の身を盾にして将軍を守ろうとしたかのように、折り重なって倒れている。

自身の顔が、ひどく生温かい液体で濡れていることに気がついた。

それは──血であった。

命を賭して自分を庇った部下たちの生々しい血が、リヒトの顔をくまなく覆い尽くしていたのだ。

その時、死体の山の向こうから、一人の影がゆっくりと近づいてきた。

逆光となる激しい太陽を背に負っていたため、その顔を明瞭に視認することはできなかった。しかし、その華奢な輪郭だけで、それが女性であることはすぐに理解できた。

全身の肌が粟立つような、ただならぬ圧倒的な気配。

リヒトは直感した。この者こそが、我が軍を文字通り蹂躙した張本人──第三皇女マルシアであると。

 

「……殺せ」

 

リヒトは、掠れた声を絞り出した。

 

「今すぐ私を殺せ。敗軍の将に、それ以外の用などないはずだ」

 

だが、眼前の影は微動だにしなかった。

しばらくの不気味な沈黙ののち、上空から言葉が降ってきた。

それは、あれほど血生臭く激しい戦場を冷酷に支配していた指揮官のものとは到底信じられないほど、ひどく柔らかく、可憐な声音であった。

 

「──生き残られたのは、女神様の尊きお導きです」

 

細剣が鞘から抜かれる、鋭い金属音が響いた。

 

「生きて再び、ワタクシに挑めというね。印をつけておきますね。アナタの顔を忘れないように」

 

冷たい刃が、一瞬だけ閃いた。

リヒトの頬に、一本の赤い線が走る。

影はそれだけの手向けを残すと、用は済んだと言わんばかりに、そのまま静かに去っていっていった。


───

 

「──以降、私は各地に散った残党を結集し、徹底的なゲリラ戦による抵抗を続けました。たとえ、己が信じる気高き騎士道を泥に塗れさせ、歪めることになろうとも……徹底的に、です」

 

リヒトは視線を現在へと戻し、静かに語気を強めた。

 

「世間はあの女を信仰と正義の象徴のように謳い上げていますが、マルシアの本性は、ただの底知れぬ『戦争狂』に過ぎません。あの女はこの乱世を鎮めるどころか、自らの悦楽のためにさらに拡大させようとしているのです」

 

「……その断定の根拠は何だ?」

 

リデルが冷徹な視線のまま問いかけた。

 

「あれほどの犠牲をもたらし、帝都を完全に掌握しておきながら、皇帝の座へと戴冠しなかった。──それが、すべての答えにございます」

 

「……」

 

「ひとたび皇帝の座に就いてしまえば、国を統治し、この不毛な戦争を終わらせる義務が生じる。乱世が終結すれば、彼女の愛する『戦場』はこの世から消滅してしまう。あの女は何よりもそれを嫌ったのです。だからこそ、第二皇子が逃げ込んだティーガル家を討伐するという大義名分を利用し、手に入れたはずの帝都をあっさりと手放して再び別の戦火へと身を投じたのです」

 

グランツは頬杖をつきながら、その言葉の重みを値踏みするように聞き入っていた。

 

「死んでいった同胞たちの無念のためだけではありません。今を生きるこの帝国のすべての臣民を救うためにも、あの狂った女は絶対に打ち倒さねばならんのです。それこそが、私がこの命を賭して成し遂げるべき、唯一の使命にございます」

 

リヒトは毅然と顔を上げた。

しかし──。

 

「……だがね」

 

グランツが、低く落ち着いた声で遮った。

 

「君も知っての通り、私たちは今、そのマルシア殿下を次なる皇帝として正式に推戴しようと動いている最中なのだが?」

 

「──お戯れを」

 

リヒトは、一瞬の躊躇もなく即座に言い放った。

グランツの妖しい紅い目が、僅かに細められる。

 

「何が戯れだと言うのだ」

 

「貴方がたお二人ほど底の知れない深い業を背負った人間が、誰かの元に心から屈服し、従うはずがありません」

 

三人の間に、張り詰めた重い静寂が再び降りていく。

リデルは、グランツの横顔を見た。彼は変わらず、リヒトの瞳の奥をじっと見つめ返している。

 

「……これは確かに」

 

リデルが、静かに口を開いた。

 

「周囲の者たちに聞かせるわけにはいかない内容ですな」

 

グランツの端正な口元が、愉悦を孕んで僅かに歪んだ。

 

「では、リヒト。一つ君に問おう」

 

「はい」

 

「私とマルシア。──君のその肥えた眼から見て、どちらの『器量』が上だと思うかね?」

 

リヒトは少しの間を置き、覚悟を込めて言葉を選んだ。

 

「……率直に申し上げても?」

 

「構わん、言ってみろ」

 

「──マルシア皇女殿下の方かと存じます」

 

グランツの表情は、ピクリとも動かなかった。

 

「しかし──」と、リヒトは毅然と続けた。

 

「──ここにいらっしゃるリデル殿、そしてこの私が貴方の傘下に加われば、あるいはその天秤は覆るかと」

 

その言葉がリヒトの唇から零れ落ちた瞬間、グランツは突如として笑い声を上げた。

胸を震わせ、声を大にして愉快そうに笑ったのだ。彼がこれほど感情を露わにして笑うなど、極めて稀なことであった。

 

「……なるほど、面白い」

 

ようやく笑いを収めると、グランツは涙を拭うようにして言った。

 

「私一人ではあの化け物には届かないが、リデルと、自分という手駒が加わればその首に手が届くかもしれない。……そうやって、この場で自らの価値を売り込んできたわけだ」

 

「不遜の極み、重々承知しております。しかし、これが私の持ち得る最も誠実な評価にございます」

 

「いや、実に気に入ったよ」

 

グランツは満足そうに腕を組み直した。

 

「よろしい、リヒト。お前を私の直属の幕僚として迎えてやろう」

 

「畏まりました。──我が主、グランツ様」

 

リヒトはその場に片膝を突き、深く頭を垂れた。

リデルは、その男の恭順の横顔を冷ややかに見つめていた。

 

(また一つ、扱いづらい厄介な身内が増えたな……)

 

そう思いつつも、現時点ではその点はあえて口を挟まなかった。


「しかし──」

 

リデルが、二人の間に割って入るように声を冷たく響かせた。

 

「まずは目の前に転がっているこのリガニアの問題を解決するのが先決かと思いますが?」

 

「ああ、確かにその通りだな」

 

グランツはリヒトから視線を外し、退屈そうに首を振った。

 

「リガニア側が全戦力を挙げて死に物狂いの反撃を仕掛けてきてくれれば、この一戦で一気に決着をつけられたものを。わざわざこちらから二手、三手と策を巡らせて追い詰めるのは、少々手間に過ぎるな」

 

総大将は、どこか不満そうに声を低めてぼやいた。

 

「我が元君主であるボイド・リガニア大公は、決して時勢の読めぬ愚者ではございません」

 

跪いたまま、リヒトが静かに進言した。

 

「そんなことは百も承知だ」

 

応じたのはリデルであった。

 

「この過酷な乱世において、領内の人口を着実に増やし、経済を安定させ、独自の政権を今日まで維持し続けた男だ。到底、凡愚に成せる業ではない」

 

リデルはさらに言葉を続ける。

 

「今回の一連の対応──名門たるリガニア騎士団の突飛な単独投入、そして北部砦群におけるあからさまな遅滞迎撃。どちらも一国の防衛戦略としては消極的すぎる。いや、消極的という言葉すら生ぬるいな。まるで……あえて彼らを見殺しにし、体よく処理しているようにしか見えなかった」

 

グランツが横で、そのリデルの鋭い分析にわずかに対をなすように目を細める。

 

「大方──」

 

リデルは、跪くリヒトの顔を見下ろした。

 

「リガニアの体制内において、将来的に邪魔になるであろう反発的な勢力や人材を、意図的に我が軍の前に突き出して『粛清』したのではないか?」

 

リヒトは、感服したように少しの間を置いてから答えた。

 

「……まさしく、仰る通りにございます。恐るべき洞察力だ」

 

「やはりな」

 

「ジークト殿をはじめとする保守派のリガニア貴族どもは、名門としての無駄なプライドが高く、完全な自力独立路線を強硬に主張しておりました。グランツ様の急速な台頭に対しても、断固として武力抵抗を貫くべきだという立場を最後まで崩さなかったのです」

 

「しかし、当主であるボイドは違った、ということか」

 

「はい。聡明であらせられる我が元君主ボイド様は、早くから貴国と我が方との圧倒的な戦力差を正確に見抜いておられました。フリンテの恐るべき量産体制、この三年間でリデル様が構築された新進気鋭の軍制、そして何よりグランツ様という絶対的な指揮官の存在。正面から激突すれば、いかにリガニアの豊かな国力と精鋭をもってしても、到底勝ち目などないと」

 

「だからこそ、か」

 

「ええ。例え形式的に臣従することになろうとも、あらかじめ『強大なるとある人物』の庇護下に入り込むことで、リガニアという国家と領民の安全を確実に担保する。ボイド様はそのように固く意志を決しておられました。ただ、国内の保守派による反発があまりにも激しく、主君の権威だけでは正面から彼らを抑え込むことが極めて困難であったのです」

 

「それで……今回の我が軍との戦いを利用して、その厄介な身内を一掃したというわけか」

 

グランツが、冷ややかな声で呟いた。

 

「ふん、要するに私たちは、リガニアの面倒な身内の大掃除をタダで手伝わされたわけだ」

 

リデルは、小さくため息を漏らした。

 

「ボイドという男、こちらの刃を利用して身内を削るとは……なかなか陰険で狡猾だな」

 

「現実主義者、と申し上げた方が正確かもしれません」

 

「どちらでも良い」

 

リデルは、さらに核心へと踏み込むように問いを重ねた。

 

「して──そのボイドが臣従と引き換えに後ろ盾を求めているという、『とある強大な人物』とは、一体誰のことを指している?」

 

リヒトは静かに顔を上げ、眼前に立つ二人の怪物の顔を交互に見つめた。

そして、その高名な存在の名を、はっきりと口にした。

 

「──女神教聖母派の絶対的首領にして、南部都市国家連合を支配する影の主」

 

リヒトの唇が、冷たく震えた。

 

「教皇ゲオルクスにございます」

 

三人の間に、鉛のように重く、深い静寂が降り積もっていった。

グランツはその名を聞いてもなお、表情を一切変えることはなかった。リデルは、ただその深い情報の意味を咀嚼するように、その双眸を静かに細めるだけであった。

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― 新着の感想 ―
「お前らの奉じようとするやつ戦争狂(なお、語る本人の主観)なんでやめた方がいいっすよ、だから不倶戴天の敵に膝折って臣従してね。あとお前じゃ王女には勝てないから、リデルと自分が要りますよ、その上で貴方の…
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