55話
リヒトの身体には、捕虜を縛るための縄すら掛けられていなかった。
それはすべて、リデルの直々の指示によるものであった。降伏の意志を示した者に無用に縄を打つことを、リデルは厳に禁じていた。逃亡の恐れがある特殊な場合は別としても、白旗を掲げて自ら軍門に降った者を無闇に縛り上げることは、敵に対する不要な侮辱であると考えていたからだ。
リヒトは静かに、リデルの正面へと進み出た。
「──寛大なるお取り計らい、感謝いたします」
開口一番、彼は極めて落ち着いた声でそう告げた。
「縛られることなく、捕虜としての名誉を守っていただいたことに、深く御礼を申し上げます」
「世辞は不要だ」
リデルは馬から降り、遮るもののない状態でリヒトと真っ直ぐに向かい合っていた。
「一つ、率直に聞きたいことがある」
「何なりとお尋ねください」
「お前は、相当な危険を冒して我が軍の懐深くへと浸透していた。あと一歩で、この防衛の薄い輜重段列に手が届くところまで肉薄していたはずだ。それが、なぜ戦いもせずに白旗を掲げ、あっさりと降伏を選んだ」
リヒトの口元が、皮肉げに僅かに動いた。
「それこそ、私への過分なお世辞というものです、リデル様」
「何だと?」
「リデル様は、我が方の隠密行動を最初から察知しておられた。精緻な索敵の網を張り巡らせ、我々を確実に袋小路へと追い詰めていた。そこへ駄目を押すかのように、あの『剣聖』率いるヴェーデル騎士団が突如として立ちはだかったのです」
リヒトは、淡々と言葉を重ねた。
「あの状況において、我々が生きてこの戦場を離脱できる可能性は、ただ一つしか残されていませんでした。リデル様という総大将の首を強引に討ち取り、敵陣に巻き起こる大混乱に乗じて脱出することのみ。しかし──背後にヴェーデル騎士団が控えていると知った時点で、その万に一つの可能性すら完全に潰えました。ならば、これ以上無駄に部下たちを死なせる必要などどこにもない、と判断した。それだけのことです」
リデルは、眼前に佇む男をじっと見据えていた。
(……やはり、あのタイミングでのヴェーデル騎士団の合流が決定打になったか)
リデルは内心で激しく舌打ちをした。
(グランツの奴め、重ね重ね余計なお節介を焼きおって……)
理由は理解できた。では、この捕虜をこれからどう扱うべきか。
リデルは視線を落とし、沈黙の中で思考を巡らせた。
最前線におけるリガニア騎士団の無謀な正面突撃。あれも、おそらくこのリヒトが言葉巧みに焚き付けた結果なのだろう。「都合のいい陽動になれば儲けもの」程度の冷徹な計算で、歪んだ騎士の誇りに火をつけ、五百の精鋭をあえて死地へと向かわせた。そして、その隙を突いて自分自身は後方から音もなく浸透しようとしたのだ。極めて狡猾であり、同時に自らの身をも危険に晒す、冷酷極まりない投機的な賭けであった。
世間に流布していた「リヒト」という男の評判とは、まるで真逆の人物像がそこにあった。
高潔で略奪を禁じ、敗者を決して辱めない。誰もが彼を『騎士のなかの騎士』と称えていた。しかし、今日彼が実際にやってのけたことは、友軍を囮として冷酷に使い捨て、隠密行動で敵の裏をかき、形勢不利と見るや最も生存確率の高いタイミングを計算し尽くして降伏の白旗を揚げたのだ。
そして捕虜となった今なお、すべてが自分の読み通りに運んでいると言わんばかりの、不気味なほど落ち着いた顔をしている。
(まあ、実際に奴の読み通り、完璧な立ち回りなのだがな……)
リデルはさらに考えを深める。
ただの客将であるならば、戦後の捕虜交換における政治的価値はさほど高くはない。だが、この男の持つ将才は本物であり、極めて有能だ。そしてその底知れぬ有能さに比例して、極めて危険な匂いが漂っていた。
(生かしておけば、いずれ必ず禍根を残す。いっそ、この場で処断してしまうべきか……)
その冷徹な決断が、リデルの脳裏をよぎった。
しかし、その思考の刃が振り下ろされる直前、背後から場違いなほど朗らかな声が飛び込んできた。
「こらこら、待ちたまえ」
軽快な馬の蹄音が響く。
「総大将であるこの私を完全に無視して、二人だけで勝手に話を進めるんじゃないよ」
グランツ・ローズヴェルであった。
彼は軍馬に跨ったまま、悠々とした足取りで近づいてきた。その背後には、数名の精鋭の側近たちが静かに付き従っている。
リデルは不快そうに振り返り、その赤髪の総大将を睨みつけた。
「グランツ様、前線の敵は──」
「ああ、綺麗に片付いたよ。だからこうして、君たちの様子を見にわざわざ足を運んだんだ」
グランツは滑るように馬から降りると、その鋭い双眸でリヒトの姿を凝視した。
「君が、噂に聞くリヒト殿だね」
「はっ。……そちらは、高名なるグランツ・ローズヴェル陛下とお見受けいたします」
「いかにも」
グランツは、リヒトの正面へと一歩歩み寄った。
「我が腹心が、その天才的な頭脳で今何を考えているか、大体の察しはつく」
そう言いながら、グランツは横目でリデルを茶化すように見た。
「──処刑は却下だ」
リデルは何も言い返さず、ただ不満げに口を付け直した。
「私としても、彼には直接色々と聞いてみたいことがあってね」
グランツは再びリヒトと対峙した。
「今日、君が魅せてくれた一連の動きは、実になかなか面白かった。あのリガニア騎士団を完璧な囮として使い潰し、単独でここまで深く侵入してみせた。結果として失敗に終わったとはいえ、その大胆不敵な発想と実行力は決して悪くない」
「敗れた身には、過分なお言葉にございます」
「お世辞を言っているわけではないさ」
グランツは、その妖しく輝く紅い瞳でリヒトの奥底を見透かすように見つめた。
「君はこれまで、第二皇子、そしてリガニア大公と、主君を渡り歩いて仕えてきた。だが……その実、未だに己が真に命を懸けて仕えるべき『意中の君主』には出会えていない、そうだろう?」
「──っ」
リヒトの表情が、初めて微かに強張った。
「……その通りにございます」
「ならば」
グランツは、低く、しかし逆らいがたい威厳を孕んだ声で静かに告げた。
「この私はどうかな、リヒト。自分で言うのは何だが、君のその眼鏡に叶う器だと思うのだが」
リヒトはしばらくの間、グランツの顔をじっと見つめ返していた。やがて、覚悟を決めたように視線を据える。
「……グランツ様。お言葉を返すようですが、お答えする前に、一つだけ私からの願いを聞き入れてはいただけないでしょうか」
「何だ? 言ってみろ」
「ここにいるグランツ様、そしてリデル様のお二人を除き、他の方々には、一時的にこの場からお引き取りいただきたいのです」
グランツはリヒトの目をじっと見つめた。
張り詰めた沈黙が、一瞬だけその場を支配する。
やがて、グランツは小さく頷くと、背後に向けて目だけで無言の合図を送った。
その意図を察した側近たちが、一言も発することなく一斉にその場から下がっていく。ミナも、そしてリーフィアも、主君の安全を信頼して一定の距離を取るように後退した。
その場には、完全に三人だけが残された。
グランツ、リデル、そして捕虜であるリヒト。
周囲の軍勢が発する喧騒が、急に遠くの出来事のように静まり返っていく。
「さあ、障りとなる者は誰もいない」グランツが静かに促した。
「話してくれ」
「はっ」
リヒトは深く息を吸い込み、二人を交互に見つめてから、真っ直ぐにグランツへ向けて語り始めた。
「私がかつて第二皇子の親衛隊に籍を置き、あの『聖女』と称されるマルシア皇女殿下の率いる北方軍閥と、戦闘を繰り広げていたことは既にご存知のはずです」
「ああ、よく知っているとも」
グランツは胸の前でどっしりと腕を組んだ。
「第二皇子が帝都から無様に逃亡し、君たちの組織が事実上崩壊した後も、君だけは生き残った残党兵を率いて執拗にゲリラ戦を継続していた。それも、常軌を逸した長期間、熾烈にだ。一体何が、そこまで君を過酷な戦いへと駆り立てていたのか……私はずっと、不思議に思っていたよ」
「その問いに対する真実を、今ここで正直に申し上げます」
リヒトは、そこで一拍の重い間を置いた。
「──すべては、高潔な忠誠心のためなどではありません。我が身に誓った気高き騎士道のためでもない」
「ならば、何のためだ」
リデルが冷徹な声で問いかける。
「すべては──」
その瞬間、リヒトの双眸の奥の色が、完全に変貌した。
これまでの張り付いたような静けさ、計算され尽くした冷徹な仮面が剥がれ落ちる。その瞳の深淵には、どす黒く激しい、何かドロドロとした怨念の業火が激しく灯っていた。
「──あの信徒どもから『聖女』と崇められ、狂信されている第三皇女ユーリシア。……否、世間がマルシアと呼ぶ、あの女のためです」
三人の間に、凍りついたような沈黙が鋭く落ちた。
リデルは、男の顔に宿る凄まじい憎悪の念を凝視した。グランツは、大いなる興味を抱いたように、その表情を一切変えることなく次の言葉を待った。
リヒトは、呪詛を吐き出すかのように言葉を紡いだ。
「私の生きる目的は、ただ一つしかありません。この帝国に飽くなき戦火と火種を撒き散らし続ける、あの稀代の大悪党──マルシア皇女を、この手で地の底へと引きずり落とし、打ち倒すこと。そのためだけに、私は屈辱に塗れながら、今日まで泥水をすすり、目的を共有する同志を探しながら生きて来たのです」




