53話
夜明けが来た。
冷徹な闇に支配されていた丘の稜線が、朝の光によって鮮やかな色に縁取られていく。
ジークト・リガニアは馬上から、静かに、しかし熱い眼差しで自らの部下たちを見渡した。
総勢五百騎。名門リガニア大公領が誇る最高峰の武力、リガニア騎士団のほぼ全戦力がそこに集結していた。朝日を浴びて鈍く輝く甲冑の奥にある顔の一つ一つには、揺るぎない誇りと、己の勝利に対する絶対的な確信が宿っている。
「──リガニア騎士団の諸君」
ジークトの野太い声が、夜明けの張り詰めた空気を貫いた。
「今日、我々は戦う。その理由は極めて単純だ。祖国を脅かす不遜なる敵を粉砕し、我が家の不滅の名誉を守り抜くためである!」
水を打ったような静寂の中、興奮を抑えきれない軍馬がパカパカと乾いた蹄音を響かせた。
「騎士とは何か。ただ敵を圧倒するだけの暴力ではない。高潔なる誇り、そして磨き抜かれた矜持だ。正々堂々と正面から敵に当たり、真っ向からその首を打ち破る。それこそが、我らリガニア騎士団が何百年もの間貫いてきた、不変の在り方なのだ!」
誰一人として鬨の声を上げる者はなかった。しかし、その寡黙な沈黙こそが、彼らの闘志が限界まで研ぎ澄まされている証拠であった。全員の視線が、一点の曇りもなく前方を見据えている。
「──神祖に誓って、我らに勝利を。突撃ッ!!」
ジークトの咆哮とともに、五百の重厚な蹄音が大地を激しく揺るがした。
丘を越えたその先、地平線に敵である連合軍の陣容が視界に入った。
そこには、急造された荒々しい木の柵が幾重にも並べられていた。そしてその後ろには、不気味なほど無機質な無数の銃口がこちらを向いている。新式兵器フリンテを構えた兵たちが、隙間なく一列に並んでいた。
確かに、背後を突かれた慌ただしさを感じさせる配置ではあった。防護壁となる柵は低く、その間隔も決して均一とは言えない。
「豆鉄砲ごときを恐れるな!」ジークトは剣を掲げて叫んだ。
「一気になぎ倒せ! 総員、突撃──!!」
加速した五百騎の鉄流が、地響きを上げて一気に斜面を駆け下りていった。
一方、その突撃を遥か高みの丘の上から見下ろす位置に、総大将グランツは静かに馬を止めていた。
リガニア騎士団の突撃が始まったことを告げる轟音は、確かな地鳴りとなって足元から伝わってきた。
かたわらに控えるミナが、手綱を引いて馬を寄せた。
「グランツ様、ヴェーデル騎士団、総員いつでも出撃可能です」
「いや、その必要はないよ。──多分ね」
グランツは、視線を戦場から外すことなく、極めて穏やかに答えた。
「多分、ですか?」
「ああ」
グランツは、防衛線の最前線を見つめていた。その表情に、焦燥や不安の色は微塵も存在しなかった。
「あのような突撃をしてくることは、事前に読めていた。だからこそ、迎撃の準備はすでに完璧に整えてあるんだよ」
「あの急造の柵と、配置されたフリンテだけで、ですか?」
「そうだ。今後、我々は大陸を制覇する過程で、あのような個人の戦闘スキルや超常的な武力に頼った『騎士団』と何度も死闘を繰り広げることになる。その度に、こちらも同じように貴重な騎士団をぶつけて消耗戦を演じていては、ローズヴェルとヴェーデルの国力はいずれジリ貧になってしまう」
ミナは、少しの間を置いてから問いかけた。
「……では、こちらは騎士団を投入せず、あの無敵の騎士団を殲滅するおつもりなのですか」
「そうだよ」
グランツの口元が、冷酷に、しかし微かに綻んだ。
「これは、我々にとって最高の試金石だよ。旧時代が誇る『戦闘スキルと騎士の突進』に対し、新時代の『火力と戦術』がどこまで対抗できるのか。今後の戦役で活かすためにね」
───
同じ頃──。
前線での激突から遥か後方、連合軍の縦列の奥深く。
客将リヒトと彼が率いる精鋭大隊は、複雑に入り組んだ地形と鬱蒼とした深い森を巧みに利用し、すでに敵陣の心臓部近くまで音もなく浸透していた。
リヒトの持つ固有スキル『鷹眼』。
それが、この隠密作戦において文字通りすべての障害を無効化していた。
半径一キロメートル以内を完全に透視するこの超常的な能力があれば、敵の配置した哨兵の位置、その動き、そして何より彼らの視線が向いている「死角」が手に取るように理解できる。その盲点だけを糸を通すように縫って移動すれば、どれほど巨大な大軍のただ中であっても、一切発見されることなく最深部まで潜り込むことができるのだ。
リヒトは、ここまでの潜入を完全無欠に成し遂げていた。
前方からは、予定通りジークトたちの派手な突撃の音が響き渡っているはずだった。敵の意識と防衛リソースは、完全に最前線へと集中している。結果として、この輜重段列が位置する後方への警戒は、致命的なまでに手薄になっているはずだった。
今こそが、仕留める絶好の好機。
(……もう少しだ)
リヒトは、さらに集中力を高めて『鷹眼』を発動した。
脳裏の視界に、整然と並ぶ輜重段列の輪郭が、冷たい青白い光となって浮かび上がる。
長い荷馬車の列。その傍らで周囲を警戒する護衛兵。そして──。
馬上で、落ち着き払った様子で軍用の書類に目を通している、一人の人影。
(──見つけた。リデル・バートン)
リヒトの胸に、確信が満ちた。そのまま、突撃ルート上にある前方の地形を透視し、障害物の有無を確認しようとした。
その、瞬間であった。
鷹眼の透視視界の端から、極めて不自然な「別の動き」が滑り込んできた。
複数の武装した部隊が、明確な意志を持ってこちらに向かって急行していた。
それも、前方からだけではない。一隊、二隊、三隊──。それぞれが異なる角度、異なるアプローチから、まるでリヒトの大隊が進んでいる正確なピンポイントの座標を目指すように、じわじわと包囲網を狭めながら進軍してきているのだ。
リヒトの足が、ピタリと止まった。
その背後に続く大隊の兵たちも、一瞬にして気配を殺して凍りつく。
(……いつからだ? なぜこちらの位置が分かっている?)
リヒトの冷静な頭脳が、即座に現状を組み直して超高速で計算を始めた。
これは偶然の遭遇などではあり得ない。完璧に統制された、「迎撃行動」そのものだった。
こちらの密かな動きを、完全に読んでいる存在がいる。
ジークトの突撃が単なる陽動になり、本命がこの後方浸透であることを見抜いていたかのように、誰かがリヒトの動きを完璧に先回りして網を張っていたのだ。
それに、奇妙な点がもう一つあった。
この複数の敵部隊は、お互いにかなりの距離を開けて進軍している。周囲の起伏の激しい地形や鬱蒼とした木々の遮蔽のせいで、物理的な視界ではお互いの位置を全く確認できない位置関係にあるはずなのだ。それにもかかわらず、彼らはまるで互いの動きを鏡のように同期させ、完璧に有機的な連携を保ちながら、こちらをじわじわと追い詰めていた。
通常であれば、あり得ない。全くもって不可解な、戦術の常識を覆す連携だ。
しかし、その謎を凝視しているうちに、リヒトの脳裏に、かつて耳にした一つの戦場の噂が、突如想起された。
それは、背天者リデル・バートンがまだ少年であり、その初陣となったあの伝説的な戦場でのこと。
リデルは、圧倒的な大軍を相手に、新型兵器フリンテを装備した僅か二つの部隊を遠く離れた位置に分散配置し、まるで一つの意思を持つ生き物のように動かして敵軍を完膚なきまでに撃滅したという。
当時、凡庸な世の戦術家たちは、ただ新兵器『フリンテ』の圧倒的な殺傷威力にばかり目を奪われ、それをローズヴェルの勝利の要因だとして片付けていた。
だが、リヒトだけは違った。彼はその戦術の裏にある、異常なまでの指揮統制の精度──『念信スキル』を用いた、情報共有による指揮運用にこそ、真の勝因が潜んでいると注目していたのだ。
「──そうか。そういうことか、リデル・バートン」
リヒトは、暗闇の中で全てを悟り、冷たい溜息を漏らした。
あれは言うなれば、張り巡らされた「鳴子」なのだ。
おそらく、あの連携している部隊一つ一つに『念信』のスキル保持者を配置している。お互いが見えずとも、リアルタイムに情報を共有しながら、広大な領域を網のように索敵しているのだ。
そして、いざ敵の姿を網の端が捉えた瞬間、その情報は瞬時に全体へ共有され、分散していた味方がどっと集まって包囲する。あるいは、後方に控える圧倒的な主力を一気に投入し、一網打尽に撃滅する──そういう極めて合理的で、恐るべき防衛システムなのだ。
ならば。
リヒトはさらに深く、脳髄を焼き焦がすように鋭く思考を巡らせる。
(──ならば、未だ勝機は我が手にあり、だ)
リデルはこちらの隠密攻撃を「予測」し、この防衛網を張ってはいる。だが、こちらの具体的な侵入ルートや現在位置までを、最初から完全に透視しているわけではないのだ。だからこそ、網を広く張らざるを得なかった。
通常の部隊であれば、この見えない索敵網に引っかかった時点で包囲され、なす術なく圧殺されていただろう。
しかし、自分には全てを見通す『鷹眼』がある。
敵の「鳴子の糸」がどこに張られているかが見えるのであれば、それを逆手に取って突破することは十分に可能だ。そして、網を破られたという想定外の衝撃によって動揺したリデル・バートンの元へ肉薄し、その喉笛を掻き切る。
(おそらく、包囲網を抜ける過程で、一つか二つの敵部隊との局所的な戦闘は避けられない。だが、敵が分散している今が最大の好機だ。他の部隊がこの地に集結してくる前に、目の前の敵を電撃的に、かつ速やかに排除し、そのまま本命であるリデルへの突撃行動へ移行する──)
以上、状況分析完了。
「さあ──行こうか」
リヒトが静かに剣の柄に手をかけ、大隊に前進の合図を送ろうとした、その瞬間だった。
「……ま、待ってください、リヒト様……っ!」
唐突に、地面に深く耳を押し当て、微かな震動から周囲の足音を観測していた部下が、声を上げた。
その顔は、今までに見たこともないほど恐怖で青ざめ、歯の根がガタガタと震えていた。
「どうした」
「あ、足音が……何かが、信じられない速度でこちらに向かってきています! しかも、多数です!」
「何だと?」
リヒトは不審を抱き、反射的にその足音が聞こえるという方角へと『鷹眼』を向け、その視界を最大まで拡張した。
──そして今度こそ、リヒトは己の目を疑い、魂の底から言葉を失った。




