52話
リガニア騎士団の本営天幕の中は、息が詰まるほどの重苦しい空気に満ちていた。
卓を挟んで、二人の男が対峙している。
一人は、客将リヒト。
そしてもう一人は、リガニア騎士団を率いる団長、ジークト・リガニアであった。彼は現当主ボイド・リガニアの実弟にあたる人物である。
ジークトは、四十前後と思しき大柄な男であった。頑強な肩幅に、野獣を思わせる太い首。甲冑を脱いで平服を纏っていても、その体躯が修羅場をくぐり抜けてきた生粋の戦士のものであることは一目で理解できた。彼はリガニア騎士団を三数年にわたり統率し、数々の武勲を立ててきた歴戦の猛将であった。
「──グランツが、先頭にいる」
ジークトは太い指で、卓上の地図を激しく叩きながら言った。
「斥候からの確実な報せだ。敵の行軍の最前列、直属の護衛兵たちを引き連れて前進している。見間違いようもない」
「分かっております」
リヒトは表情を変えずに応じた。
「ならば、話は極めて単純だ」
ジークトは太い腕を組み、不敵な笑みを浮かべた。
「我がリガニア騎士団、五百騎総員をもって、敵の先頭へ一点突破の突撃を敢行する。敵は三万の大軍と謳うが、実態はただの数に頼った烏合の衆に過ぎん。中級以上の戦闘スキルを有する精鋭だけで構成された我が騎士団の突進力をもってすれば、敵の先頭部隊を完膚なきまでに粉砕し、グランツの首級を挙げることなど容易いことだ」
「──それは、あまりにも危険すぎます」
リヒトは、水が流れるように静かな声音で遮った。
「危険すぎる、だと?」
「はい」
「……このリガニア騎士団を前にして、危険すぎると言ったのか」
ジークトの太い眉がぴくりと跳ね上がった。その双眸には、あからさまな不快の色が宿っている。
「騎士団の実力を軽んじているわけではありません」
リヒトは、ジークトの放つ威圧感に気圧されることもなく、淡々と言葉を継いだ。
「しかしながら、グランツ・ローズヴェルの類稀なる戦巧者ぶりは、すでに大陸全土が知るところです。あれほどの男が、正面からの強行突撃で自らの首を容易く取らせるほど無警戒であるはずがない。我が騎士団の正面突撃を見越し、事前に何らかの幾重もの罠を講じていると考えるのが、むしろ当然の前提にございます」
「いくら対策を講じようとも、スキル持ちの騎士五百の突進を、力ずくで止める術などそう容易くあるまい!」
「ええ、通常の兵であればそうでしょう。しかし、明確な障害が一つ存在します」
リヒトは地図の一点──敵の前衛部隊を指し示した。
「敵の護衛を務めるヴェーデル騎士団の中に、あのミナ・リヴィルが控えています」
ジークトは、その名を聞いた瞬間、反射的に言葉を失って口を閉ざした。
「『剣聖』と称される彼女の圧倒的な実力は、ジークト様もよくご存知のはず。固有スキル『剣聖』の保有者が先頭に立ち、防壁となって立ちはだかれば、いかに我が騎士団の突撃であろうとも先鋒の足を止めざるを得ない。そして、足を止められた五百の騎士など──後方から新式兵器『フリンテ』を構えた敵に包囲され、格好の標的にされるだけです」
「……」
「如何に勇猛果敢なリガニア騎士団とて、ただの無駄な玉砕を遂げる結果になりかねません」
天幕の中に、張り詰めた静寂が降りる。
ジークトは苦渋に満ちた表情で、しばらく地図を睨みつけていた。
やがて、彼は我慢がならないと言わんばかりに、無骨な拳で卓を強く叩いた。どんと重い衝撃音が響く。
「ならば!」
ジークトの声が、低く地を這うように響いた。
「我らは一体、何のためにこの地へ出陣してきたというのだ!」
それは、客将に対する明確な威嚇の籠もった咆哮であった。
しかし、リヒトはその殺気立つ圧力を正面から涼しい顔で受け流した。
「──言うまでもありません」
その声は、どこまでも澄み渡り、静かであった。
「勝利を手にするためです」
「ならば、お前はどうやってこの三万の軍に勝つと言うのだ!」
「別の『頭脳』を狙います」
リヒトは、地図の全く別の位置を指で叩いた。
「あの連合軍には、グランツと並び立つ、もう一つの絶対的な重心が存在します」
「……リデル・バートンか」
「はい。強力な砲兵隊の組織も、新式の軍制も、すべてはあの男の頭脳が叩き出した成果です。彼さえ排除してしまえば、軍全体の統率力は著しく低下する。そして都合の良いことに、彼は現在、最も戦闘力の低い『輜重段列』の傍らにいるとの確かな情報が入っております」
「しかし……」
ジークトは懐疑的に腕を組み直した。
「輜重段列は、行軍の遥か後方に位置している。前衛のグランツを狙うよりも、さらに敵陣の奥深くへと侵入しなければならんではないか」
「その通りです。だからこそ、我々は敵の隙を突き、縦列の奥深くに音もなく浸透しなければなりません」
「それが、正面突撃よりも安全だとでも言うのか?」
「私のスキル『鷹眼』を用いれば、敵の死角を見抜くことなど容易。そして何よりも──」
リヒトは地図から視線を外し、ジークトの瞳を射抜くように見つめた。
「──確実に勝てる可能性が、こちらの方が遥かに高いのです」
ジークトは腕を組んだまま、リヒトの瞳をじっと凝視し続けた。
天幕を夜風が激しく叩き、幕布がバタバタと不穏な音を立てる。その長い沈黙の中で、ジークトは何度も卓上の地図へと視線を戻し、思考を巡らせていた。
やがて、彼はゆっくりと顔を上げた。
「──却下だ」
その声は静かであったが、そこには一切の議論を拒絶する、頑ななまでの響きがあった。
「却下、ですか」
「騎士道とは何たるか、貴様は分かっているのか、リヒト」
ジークトは椅子から大柄な体躯を立ち上がらせた。
「正々堂々と、正面から敵を迎え撃ち、打ち破る。それこそが我がリガニア騎士団の絶対の矜持であり、伝統だ。先祖代々、何百年もの歳月をかけて積み上げてきた気高き誇りなのだよ」
「……」
「輜重段列を不意打ちする、後方を泥棒のように突く、夜這いの真似事のような姑息な闇討ちをする……」
ジークトは眼下のリヒトを冷酷に見下ろした。
「そのような卑劣な手段を、名誉ある我が騎士団が採用できると思うか。言語道断だ」
リヒトは反論せず、ただ黙ってその非難を受け止めていた。
「兄上であるボイド様が、お前を重宝しておられるから、これまでは黙って聞いてやっておいた」
ジークトの声が、一段と低く凄みを帯びていく。
「だが、あえて本音を言わせてもらおう。お前の発想は、およそ騎士のそれではない。所詮は、負け戦の中で主君を見捨てて逃げ回った、親衛隊の残党といったところか。敵の背中を卑怯に刺すことしか頭にないのだな」
天幕のなかに、完全な沈黙が落ちた。
リヒトはゆっくりと、深く、静かに頭を下げた。
髪に遮られたその表情は、ジークトからは一切見えなかった。
「……ジークト様の御意志の固さは、よく理解いたしました」
リヒトの声は、やはり一歩も引いていなかった。どこまでも静寂で、平静で、一切の感情の起伏が削ぎ落とされた声。
「しかしながら、私も自身の掲げた作戦を退かせるつもりはございません」
「ふん、当然だ。お前のような姑息な案など、端から採用する気などない」
「はい」
「ただ──」
ジークトは傲然と腕を組み直した。
「一つだけ言っておく。お前に我が騎士団の作戦に無理に付き合えとは言わん」
「……と、仰いますと?」
「我がリガニア騎士団は、誇り高く正面からグランツの首を狙いに行く。お前は、お前流の卑怯なやり方でリデルを狙うというのなら、それはお前が勝手にやるがいい。要するに、別々に動けば済む話だろう」
リヒトは、静かに顔を上げた。
「……それで、本当に構いませんか?」
「ああ。こちらから邪魔はせん。元よりお前ら大隊戦力などアテにしてない。ただし、お前の身勝手な動きが我が騎士団の作戦行動に万が一にも支障をきたすようなら、その時はタダでは済まさんぞ」
「深く理解いたしました」
リヒトは頭を下げたまま、静かに告げた。
「では、その段取りで参りましょう」
「ああ」
「一点だけ、最終確認を」
「何だ」
「明朝、同時に行動を開始するということで宜しいですね」
「構わん。遅れるなよ」
「承知いたしました」
リヒトはもう一度、深く丁寧に一礼した。
「それでは、明朝に」
背を向け、彼は静かに天幕の出口へと歩を進めた。
そして、幕布に手をかける直前、彼は一度だけ足を止めた。
ジークトの方を振り返ることはしなかった。
誰の目にも触れることのない彼の口元が、闇の中で、極めて歪に、しかし美しく吊り上がった。
──それは、底知れぬ嘲笑を孕んだ「笑み」であった。
声には出さず、心の中でだけ呟く。
ジークトが自ら提案したこの「別々の別動作戦」こそが、リヒトが最初から描いていた、完璧なシナリオの形だったのだ。
最初から共同作戦など望んでいなかった。お互いに別個の標的へ向けて動くこと。
リガニア騎士団の誇る精鋭五百が、グランツを目指して派手な正面突撃を敢行してくれれば、それはこれ以上ない巨大な「陽動」となる。ヴェーデル騎士団をはじめとする敵の主力の注意のすべてがその突撃へ注がれる中、後方の輜重段列へ注意を向ける者は完全に消失する。
リデル・バートンの首を刈るための隙は、その瞬間に完成するのだ。
(──ありがとうございます、ジークト様。私の掌の上で、踊ってくださって)
リヒトは音もなく天幕の幕布をくぐり、外へと出た。
夜の空気は、肌を刺すように冷たい。
天空には、不穏なほどに澄み切った星々が散りばめられていた。
明朝まで、あと数時間を切っていた。




