51話
行軍は、極めて順調に進んでいた。
──少なくとも、地図の上だけを見るならば。
その軍の設計者であるリデル・バートンは、前線の華々しい先頭集団にはいなかった。
進軍の最前線には総大将グランツと宿将フランクが控え、護衛部隊はミナとヴェーデル騎士団が担っている。リデルの乗る馬は、彼らから遥か後方。うねるように続く膨大な輜重段列のすぐ傍らにあった。
この辺りの起伏の激しい丘陵地帯を進む行軍は、三万の軍勢を細長く引き延ばした。先頭から最後尾までが街道に沿って一列に伸びる、いわゆる「長蛇の列」である。丘を越え、谷を渡るたびに、随所で行軍速度が鈍るボトルネックが発生する。そのたびに部隊全体の密度が不均一になり、どうしても防衛上の隙が生じてしまうのだ。
そして、膨大な物資を運ぶ輜重隊の存在が、この構造的な問題をさらに複雑にしていた。
砲兵隊が消費する弾薬の量は、事前の計算通りではあったものの、やはり桁違いに膨大だった。砦を一つ落とすたびに、弾薬庫の底が見えてくる。これを維持するためには、後方の補給拠点から絶え間なく物資をピストン輸送せねばならず、その重い荷馬車が列の中に延々と混ざり合っているのだ。運んでいるのは砲弾だけではない。大量の火薬、導火線、砲の精密な整備道具。さらには兵たちの日々の食料や水、宿営用天幕、医療品にいたるまで、軍の維持に必要なすべてが、重い足取りで長い列をなして続いていた。
「──現地調達で済ませれば身軽になる、という意見があるのは分かっている」
リデルは馬上から、並走するコールへと静かに語りかけた。
「だが、それを行うには厳密な制度が必要なのだ」
「はい。十分な制度整備もない現状で各部隊による現地調達を認めれば、それは即座にただの兵士による『略奪』へと成り下がりますからね」
「その通りだ。正規の徴発制度を構築し、現地の物資の余剰分を事前に調べ上げ計画し、地元有力者と密接に連携して適正な対価を支払い、すべてを台帳に記録する。そこまで整えて初めて、効果的になる。今の我が軍には、まだその精緻な仕組みがない」
「リデル様が以前仰っていた『師団制度』の整備も急務ですね。各部隊が一定の自律性を持って独立して動けるようにならなければ、現地調達の効率的な分散など不可能です」
「それはこれからの大きな課題だな。今はまだ、こうしてすべての補給物資を一元的に集中管理する力技を採るしかない」
リデルは、ゆっくりと進む輸送列へと視線を向けた。
延々と続く荷馬車の列。そのすべての御者台の横には、武装した兵が一人ずつ監視役として張り付いていた。
それは、絶対に欠かせない「見張り」だった。
皮肉なことに、物資を狙うのは外部の敵だけではない。味方であるはずの兵の中にも、どさくさに紛れて荷車の中身をかすめ取ろうとする不届き者が現れるのだ。行軍中の混乱に乗じ、自分の部隊のために必要以上の物資を勝手に持ち出そうとする指揮官もいる。そうした内側の不正を防ぎ、厳格な統制を維持するためには、誰か権限を持つ者が常に輜重隊の傍らにいなければならなかった。
だからこそ、リデルはあえて前線ではなく、この後方に身を置いているのだ。
「──宰相閣下」
不意に横から声が掛かった。
軽装の馬を巧みに操り、ジャックが傍らへと寄せてくる。
「どうした、ジャック」
「放っていた斥候が戻った。この先にあるいくつかの集落に人を潜り込ませ、情報を拾ってきたんだな」
「報告を聞こう」
ジャックは愛馬の歩調をリデルに合わせながら、声を潜めて続けた。
「この先、街道が丘陵を越えた先で、リガニア大公領でも『最強』と謳われる精鋭戦力がすでに布陣を完了しているようだ」
「ほう。リガニア騎士団か」
「ああ。だが、問題はそれだけじゃない。その精鋭たちを実質的に指揮しているのは、リガニア家の生え抜きの将ではないという話なんだ」
「客将、ということか。名は?」
「──リヒトという男らしい」
ジャックは手元の覚書を軽く確認しながら、淀みなく説明を続けた。
「元は、第二皇子の親衛隊に所属していた将校。中流貴族の出身だが、四年前の帝都騒乱において極めて重要な役割を果たした男だ」
「帝都騒乱、というと……あの混乱か」
「ああ。第二皇子が帝都の実権を握ろうとした際、東方での戦いで疲弊していた第一皇子派の勢力を帝都から完全に叩き出した立役者が、このリヒトという男だ。その功績が認められ、彼の年齢と爵位の低さからすれば、極めて異例とも言える速さで、独立部隊を率いる将軍へと取り立てられた」
リデルは、馬上から揺れながらその経歴を脳裏に刻み込んでいた。
「だがその後、マルシア皇女の率いる強大な北方軍閥が帝都へと攻め入った。あの熾烈な戦闘において、第二皇子派の諸部隊はなす術なくことごとく蹂躙されたはずだが」
「ああ。だが奴はそこでも生き残った」
「ほう……」
「生き残っただけじゃない。他の友軍が我先にと敗走する中、このリヒトの部隊だけが唯一、戦線に踏みとどまって孤軍奮闘し、敵を食い止め続けたんだ。第二皇子が命からがら帝都を脱出するための貴重な時間を稼ぎ出したのは、間違いなく奴の一隊だったと言われてる」
リデルは沈黙を守り、ジャックの言葉に静かに耳を傾けた。
「帝都陥落の後は、各地に散った親衛隊の残党や軍閥化した敗残兵たちを鮮やかにまとめ上げ、支配者となったマルシア勢力に対して徹底的なゲリラ戦を展開していた。驚くほど長い期間、しぶとく抵抗を続けていたらしいぜ」
「それほどの男が、なぜこのリガニア領に?」
「マルシア本人が北方に撤退したからだ。大きな戦いの目処がなくなれば、散り散りになる。リヒトはその流れでリガニア大公の元に身を寄せた、ということらしい」
ジャックはそこで、少しだけ表情を和らげて口調を変えた。
「それと、周囲の彼に対する『評判』が、なかなか興味深いものでね」
「ほう、どんな評判だ?」
「突出した将才は言わずもがな、何よりその高潔な人格についての評価がどこまでも一貫している。配下への略奪行為を一切禁じ、降伏した敵に対しては極めて寛大。敗者を決して辱めず、無用な殺生を極度に嫌う。そして、何よりも自らの部下を命がけで守る。戦場で決して嘘をつかず、盟約を裏切らない──そんな逸話ばかりだ。周囲の者からは畏敬を込めて『騎士のなかの騎士』とまで称えられていたそうだぜ」
ジャックは手元の覚書をパタリと折りたたみ、懐に収めた。
「以上が、俺が集めた話だ。村人から傭兵崩れから、複数の筋から拾ってきたから、大きく外れてはいないと思う」
リデルはしばらくの間、街道の先に広がる緩やかな丘陵を見つめていた。
「──そんな傑物が、我々を待ち構えているわけか」
ぽつりと、独り言のように呟いた。
それから、静かな思考の沈黙を挟み、言葉を紡ぐ。
「高潔で、極めて有能。そして圧倒的な大軍を相手に、しぶとくゲリラ戦を長期にわたって維持し続けた男……」
「ああ、恐ろしい相手だな」
「ならば、こちらの抱えるアキレス腱についても、見抜いていると考えるのが自然だな」
リデルは、隣を蛇行しながら進む重い荷馬車の列へと、ゆっくりと視線を落とした。
砲兵隊がもたらす圧倒的な火力と、引き換えに生じる致命的な弾薬消費量。それらを支える兵站の極度な重さ。そして、この丘陵地帯を抜けるために細長く伸びきってしまった行軍縦列──。
これらの隙を、優れた戦術家が見落とすはずがない。
相手の目にすべてが見えていると仮定するならば、奴は一体、この長大な列のどこを狙って鋭い牙を剥いてくるか。
リデルの頭脳のなかで、かつ静かに回転を始めた。
その時、リデルの端正な口元が、極めて微かに吊り上がった。
それは、明らかな「愉悦の笑み」であった。
「──久々に、少しは退屈せずに楽しめそうだ」
ジャックが、その横顔を盗み見て、呆れたように肩をすくめた。
「おいおい、そんな物騒な事を言わんでくれよ」
「そうか?」
「嬉しそうに見えるのが、また怖いなぁ」
リデルは前方へと再び鋭い視線を戻した。
「ジャック、一つ私からの指示を伝えてくれ」
「何でしょうか。宰相殿?」
「輜重段列の護衛部隊に通達。例の防御陣形を試す。追って具体的な指示をするが、準備だけはするようにとな」
「了解した。方針が完全に固まったら、またすぐに指示を」
「ああ、頼む」
ジャックは短く頷くと、馬首を巡らせて前線へと駆け去っていった。
リデルは、ゆっくりと進む輜重隊の横を並走しながら、脳内に構築された精緻な戦略地図を広げた。
敵がこちらの「すべて」を見透かしていることを前提とし、その上で相手の二手、三手先を行く絶対的な最適解を導き出す。それこそが、戦術における本来の思考順序だ。
丘の向こうには、かつてない強敵が潜んでいる。
『騎士のなかの騎士』と称えられた、冷徹な戦術家が軍を指揮しているのだ。
リデルは、自身の奥底で獰猛に疼き始めた純粋な「闘争心」を、静かに、そして深く楽しんでいた。
(──来るなら来るがいい。徹底的に叩き潰し、跡形もなく殲滅してやる)
その確固たる決意だけが、彼の冴え渡る脳裏を静かに回り続けていた。




