50話
三日後、グランツの号令により、進軍の布告が全軍に達せられた。
──ベルドルナ皇帝家直系、第三皇女マルシア・ベルドルナの忠実なる藩屏として帝都に入城したるグランツ・ローズヴェル。その発したる出仕命令を、リガニア大公は再三にわたって無視し、拒絶した。
これはすなわち、神聖なるベルドルナ皇帝家に対する公然たる謀反に他ならない。
よって我が軍は、この逆賊を膺懲すべく、精強なる三万の兵をもってリガニア大公領へと進軍する。
最初の攻略目標は、大公領の北端に連なる堅牢な砦群であった。
帝都とリガニア大公領の境界を隔てるこれらの砦は、長年にわたって外敵の侵入を防ぐ防壁として建設されたものであった。高くそびえ立つ石造りの城壁は、厚みこそそれほどないものの、縦に大きく伸びており、従来想定されていた槍や弓、あるいは押し寄せる歩兵の波による力押しを阻むには十分な設計となっていた。
しかし、それはあくまで「旧時代」の戦術思想が生み出した遺物に過ぎなかった。
進軍を開始して三日目、最初の砦の前に連合軍が整然と陣を展開した。
静まり返る戦場に、重々しい金属音を引きずりながら「砲兵隊」が前へと進み出る。
これこそ、リデルがこの三年間で心血を注ぎ、整備を進めてきた新式火力軍制の中核であった。フリンテの単なる拡大、延長線上ではない。より強固に鋳造された巨大な鉄の筒から、圧倒的な質量を持つ鉄の塊を直接叩き出す兵器。放たれた弾丸は音速を超えて大気を切り裂き、砦の頑強な石壁へと直撃する。
最初の咆哮が轟いた時、砦の守備隊は何が起きたのかさえ理解できなかったという。
激しい衝撃音とともに、堅牢なはずの城壁に巨大な風穴が開いた。
間髪入れずに放たれた第二射が、その風穴をさらに大きく押し広げる。
そして三射目──凄まじい地響きとともに、城壁の一角が瓦礫となって完全に崩れ落ちた。
「突撃!」
崩落した瓦礫の隙間めがけ、風のように飛び込んだのはミナであった。その後を追うようにジャックが地を蹴り、高い戦闘技術を持つ精鋭で構成された突撃部隊──新生ヴェーデル騎士団が、一気に砦の内部へと雪崩れ込んでいく。
砦の制圧が完了するまでに、半日もかからなかった。
まったく同じ蹂躙劇が、次の砦でも繰り返された。そして、その次の砦でも。
高く聳えるものの薄い城壁は、連合軍の誇る砲兵隊にとっては、ただの動かぬ標的に過ぎなかった。
進軍開始から、わずか一週間。
リガニアが誇った北端の砦群は、完全に壊滅した。
帝都に居座る軍閥の南下を防ぎ続けていた、絶対的な第一防衛線。それが、跡形もなく消滅したのだ。
リデルたちの軍勢は、何に遮られることもなく、リガニア大公領の懐深くへと足を踏み入れた。
───
同じ頃、リガニア大公領の中心部へと至る要衝の街道沿いに、リヒトの本営が置かれていた。
その周囲には、リガニア騎士団の精鋭たちが隙なく陣を敷き、ただならぬ殺気を漂わせている。
北端の砦群がことごとく陥落したという衝撃的な凶報は、伝令の手によってすでに本営に届いていた。
ボイドの命により軍監を務めるヘッセルは、その報告書を受け取った瞬間から、緊張で血の気が引くのを感じていた。この緊急事態は、一刻も早く指揮官に直接伝えなければならない。
ヘッセルが本営の天幕へと足早に近づくと、中から奇妙な音が微かに聞こえてきた。
まるで、何か粘り気のある液体を肌に塗りたくっているかのような、じっとりとした皮膚の擦れる音。
不審に思いながらも、ヘッセルは意を決して天幕の入り口を跳ね上げた。
「リヒト様! 北端の砦群が陥落したとの急報が──」
言いかけたヘッセルの言葉が、喉の奥で凍りついた。
振り返ったリヒトの顔が、赤く染まっていたからだ。
ヘッセルは目の前の異様な光景に、完全に言葉を失った。
「……な、なにを」
「おっと、すまないね。驚かせてしまったか」
リヒトは静かに微笑みながら言った。その目だけは、獲物を狙う猛禽のように細められている。
「もちろん、本物の血じゃないよ。ただの赤い色水さ」
「な、なぜ……このような戦の最中に、そのような不気味な真似を?」
「なぜ、か。フフフ、まあ、私なりの『願掛け』のようなものだよ。昔、大戦の前にこれと同じように顔を赤く染めて挑んだところ、戦況が妙に鮮明に見えてね。それ以来、大事な戦の前にはこれを続けているんだ。それで、報告とは何かな? 例の北端の砦群が、とうとう落ちたのかい?」
「は、はい……」
ヘッセルは未だに心臓の鼓動を落ち着かせられないまま、絞り出すように答えた。
「北端の砦群はすべて陥落いたしました。──一週間と保ちませんでした」
「ふむ」
リヒトは顔を赤く染めたまま、特に動じる風もなく、静かに頷いた。
「一週間か。やはり、噂に聞くあの『砲兵隊』とやらを惜しみなく投入してきたな」
「はい。南方の蛮族が使用するような、未知の巨大な兵器を用いて遠距離から城壁を一方的に破壊し、その瓦礫の隙間に精鋭の騎士団を突入させる手順だったとのこと。我が方の守備隊は、反撃の手立てすら掴めぬまま蹂躙されたと……」
「なるほど。大方、私の予測通りだ」
リヒトは天幕の中央に置かれた水盆へと歩み寄り、清水に手を浸した。
そして、じっくりと顔を洗い始めた。
丁寧に、しかし特に焦る様子も見せず、顔に塗られた赤い液体が水の中に溶け、薄赤く広がっていく。
「リヒト様」
「何だ」
「実は……ボイド大公閣下より、直々に勅命が届いております」
リヒトは顔を洗う手を止めず、背中で答えた。
「言ってみろ」
「リガニア騎士団と連携し、早急に反撃に転じて敵を排除せよ、との苛烈なご命令にございます」
「そうか」
リヒトは手拭いで濡れた顔を拭いながら、ゆっくりと振り返った。
顔を覆っていた赤は綺麗に洗い流され、彼の素顔が露出していた。深い傷跡が刻まれた、酷く静かで怜悧な相貌。
「心配はいらない。ボイド様にはそうお伝えしろ」
「ですが、砦群がすべて陥落した今、グランツの連合軍はすぐそこまで迫って──」
「既に、グランツたちは私の術中にはまっているのだよ」
リヒトは手拭いを静かに卓の上に置いた。
「近いうちに、戦況を覆す決定的な戦果を上げてみせる。大公閣下には、もう少しだけ辛抱強く待っていただくようお伝えするんだ」
「……術中、とは一体?」
「知りたいかね?」
「──お聞かせいただけるのであれば」
リヒトは卓上に広げられた地図の前に腰を下ろした。
「最初から、あの砦群は落ちるものと分かっていた。いや、むしろ私にとっては、早々に落ちてくれた方が好都合だったのだ」
「それは……どういう意味にございますか」
「連中が『砲兵隊』とやらを実戦投入してくることは、私の元に届いた事前情報から、当然予測の範疇にあった。そして、我が方の高く薄い城壁が、その格好の標的になることもな。だからこそ、私はあの砦群の守備に、初めから我が軍の主力兵力を一切配置しなかったのだよ」
ヘッセルは、地図を凝視した。
「では、砦が落とされることを前提に、最初から布陣を……?」
「その通りだ」
リヒトは地図の一点を、細い指先でコツリと叩いた。
「砦群を突破した連中は、勝利に酔いしれながら大公領の内部へと進軍している。だが、彼らが今進んでいる街道は、私が予測通りのルートなのだ」
「予測、ですか?」
「『兵站』だよ、ヘッセル。あの強力な砲兵隊とやら、一見無敵に見えるが、どう考えても凄まじい『大食らい』だ。整備された良道を確保し、大規模な輜重部隊を編成するか、あるいは安定した水路を利用しない限り、その火力を維持することはできない。グランツは確かに優秀な武将だが、手持ちの強力な兵器が『兵站』という絶対的な鎖に縛られている以上、どれほど優れた将であっても、その行動半径と進路は自ずと限定される。そして、誤った判断へとしなやかに誘導されるのだ」
ヘッセルは、その底知れぬ智謀に圧倒され、ただ黙って耳を傾けるしかなかった。
「そして、その進路の先には、すでに我が大隊の主力を伏せさせてある。私も今から、そこへ合流する」
「では、グランツとリデル、両方を一度に……?」
「いや」
リヒトは静かに立ち上がった。
「今回は、まず『片方』だけを確実に仕留める」
「どちらを狙うのですか」
「──リデル・バートン」
その名を口にしたリヒトの声音は、この上なく冷徹であった。
「グランツ・ローズヴェルは確かに戦巧者であり、手強い。だが、あの十万の連合軍における実質的な『請負人』は、すべてあのリデルという少年だ。皆は彼を『背天者』と侮っているが、新式の砲兵隊も、抜本的な軍制改革も、兵站網の精緻な構築も、すべてはあの少年の頭脳が叩き出した成果なのだよ。あの頭脳さえ刈り取ってしまえば、軍全体の質は瞬時に低下する。グランツを仕留めるのは、その次でいい」
ヘッセルは息を呑み、しばらく言葉を失っていた。
「……本当に、できるのですか」
「できるさ」
リヒトは、自身の甲冑の留め具を一つずつ、狂いなく確認しながら静かに答えた。
「かつて、マルシア皇女の精強な軍を退けた時も、私はこれと全く同じ戦術を採った。──戦いとは、相手の嫌な所を徹底的に突く。それだけだ」
「……かしこまりました。リヒト様のご指示に従います」
「ボイド様には、首を長くして待つよう上手く伝えてくれ。外野に急かされると、せっかくの繊細な罠が狂ってしまうからね」
「はい」
「では、行こうか。勝利を掴み取りに」
リヒトは、本営の天幕を一歩外へと踏み出した。
外の空気は、肌を刺すように冷たかった。
地平線の遥か彼方、北の空に、うっすらと巨大な土煙が舞い上がっているのが見える。
連合軍の、そしてリデル・バートンの乗る軍勢が、確実に罠の縁へと近づいていた。




