49話
帝都ミッテルの南方に位置する広大な版図──リガニア大公領。
この地は、混迷を極める大陸の戦乱において、極めて稀有な繁栄を保ち続けている存在であった。
大陸を縦断する大河レイン川の肥沃な支流が領内を流れ、帝都と周辺の都市国家群を結ぶ物流の要衝として、長年にわたって莫大な富を享受してきた。各地で激しい戦火が広がり、主要都市が焼け落ち、全土の人口が激減していく中にあっても、このリガニア領だけは奇跡的に戦乱の直撃を免れてきた。その結果、安全を求める難民や商人の流入が絶え間なく続き、今やその総人口は、ローズヴェルとヴェーデルの両国を合算した数を遥かに上回る「八百万」に達していた。
しかし、過剰な豊かさは、往々にして肥大化した驕りを生む。
リガニア家は、帝都周辺に領地を持つ本領貴族の中でも随一の名門中の名門であった。帝都が栄華を誇っていた時代には、常に帝室の最も近い傍らに立ち、大陸政治の中枢を実質的に動かしてきた最高峰の血筋である。かつては高貴なるベルドルナ皇帝家すら直接頭を下げてきたという誇り高き歴史を持つ一族が、西の最果てから這い出てきた新興勢力ごときから届いた「出仕せよ」との書状に、大人しく従う道理などどこにもなかった。
豪奢なリガニア大公城の主人、ボイド・リガニアは、届けられた書状を開いた。
そこに並ぶ冷徹な文面を、ただ一通り読んだ。
読み終えた瞬間、彼は無造作にその紙片を握り潰して丸めると、激しい嫌悪を隠そうともせず石の床へと叩きつけた。
「──馬鹿にするにも程がある」
その声は、驚くほど静かだった。しかし、その低く冷たい声音が放たれた瞬間、謁見の間の空気は一変し、凍りついたかのような緊張感が走った。
「西の化外の野蛮人どもが、一体何の権限があってこの私に出仕を命じるのだ。神殺しの一族の末裔と、天に背く不届き者が率いる軍勢などに、この名門リガニア家が膝を屈するとでも思っているのか!」
居並ぶ家臣たちは一様に深く首を垂れ、誰も口を開こうとはしなかった。
「選ばれし至高の存在である我ら本領貴族が、あのような賤しき出自の者どもに後れを取るはずがない。我らは断固として徹底抗戦する。それでこの話は終わりだ」
その時、沈黙を破って一人の老臣が静かに前に出た。
白髪の目立つ、年齢は六十がらみの男。長年リガニア家に忠誠を誓い、財政や政務を支えてきた重臣の一人、ガルドであった。
「ボイド様、少々お待ちください」
「……何だ、ガルド」
「恐れながら、一言申し上げます」
老臣はボイドの怒気を受け止めながら、落ち着いた声で諭すように言った。
「ローズヴェルとヴェーデルの純粋な国力そのものは、確かに我が領と同等程度かもしれません。しかしながら、此度の彼らの動員数はすでに十万の圧倒的大軍に達しております。さらに、その大半は『フリンテ』と呼ばれる未知の強力な飛び道具を装備していると聞き及んでおります。対して我が方の兵力は、今から最大限にかき集めたとしても二万の動員が限界。軍事的な正面衝突となれば、我が方は著しく不利な状況にございます」
「だから何だと言うのだ」
「──ここは一時的に、面従腹背の策を採ることをご提案いたします」
老臣は声を落とすことなく、毅然と言い放った。
「まずは一旦、形式的な出仕の体裁を取り、目前の破滅的な危機を回避するのです。内実はどうあれ、表向きは従う姿勢を示すことで貴重な時間を稼ぐ。そうして牙を研ぎながら力を蓄え、我らにとってより有利な状況が整ってから改めて反旗を翻す。それこそが、今の我が家にできる最善の英断であると心得ます」
その瞬間、玉座に座る主人の周囲の空気が、ずしりと重くなった。
ボイドの表情が、見るからに険しく歪んでいく。
彼がその愚直な進言に対して、激怒の言葉を言いかけようとした──その時だった。
不快な「濡れた音」が響いた。
次の瞬間、老臣ガルドの首が、不自然な角度で前方へと落ちた。
彼の胴体が、一拍遅れて糸の切れた人形のように床へと崩れ落ちる。
あまりに唐突な光景に、列席していた家臣の誰一人として動くことができなかった。
音もなく崩れ去った老臣の背後には、いつの間にか一人の男が平然と佇んでいた。
全身に磨き抜かれた重厚な甲冑を纏い、長身で、その顔面には戦場で刻まれたであろう深い傷跡がある。彼の右手に握られた冷たい剣の刃からは、新鮮な赤が静かに滴り落ちていた。
男は床の死体に関心を示すこともなく、玉座のボイドに向かって、極めて優雅に一礼してみせた。
「不躾な真似をいたしました。無礼をお詫び申し上げます」
極めて落ち着いた、透き通るような声であった。しかし、謝罪の言葉を口にしているにもかかわらず、その声音には相手を敬うような謝意など微塵も含まれていなかった。
「尊きリガニア家に、害悪たる敗北主義者が紛れ込んでおりましたので、我慢でぎす私の独断にて即座に処置させていただきました。申し訳ございません」
広大な主殿の誰もが、恐怖のあまり声を上げることができなかった。
ボイドは床に横たわる老臣の骸を一瞥し、それから目の前に立つ甲冑の男へと視線を移した。
「……リヒト、か」
「はっ」
「よくやった。言われずとも、私が直々にその首を撥ねるところだった」
男──リヒトは、命じられるままにもう一度深く頭を下げた。
どす黒い血が、美しい石造りの床へと静かに広がっていく。
ボイドは、その足元に広がる血溜まりを冷淡に見下ろしてから、ゆっくりと玉座から立ち上がった。
「リヒト」
「はっ」
「率直に聞く」
ボイドは、その鋭い眼光で甲冑の男を真っ直ぐに見据えた。
「──我らに、あの十万を覆す『勝機』はあるか」
リヒトが答えるまでに、一瞬の躊躇もなかった。
「無論、ございます」
その声音は相変わらず平静で、どこまでも淡々としていたが、その瞳の奥には底知れぬ狂熱がギラギラと燃え盛っていた。
「確かに、グランツが率いる連合軍の規模は強大です。十万という圧倒的な兵力、新式兵器フリンテの大量配備、そしてこの三年間で徹底的に整えられた隙のない軍制。純粋な数や装備の面において、正面から愚直に当たれば我が方に分が悪いのは厳然たる事実」
「ならば、いかにして勝つと言うのだ」
「しかし」と、リヒトは言葉を繋いだ。
「あの無敵に見える軍勢を微細につぶさに観察すれば、それが僅か『二つの重心』のみによって支えられている脆い組織であることが分かります」
「二つの重心、だと?」
「ええ。総大将であるグランツ・ローズヴェルという絶対的な将帥、そしてヴェーデルの若き宰相リデル・バートンという恐るべき才能。この異質な二人の天才だけが、あの巨大な連合軍のすべてを実質的に統率しているのです。彼らの指揮系統の骨格は、完全にこの両者のみに依存しきっている」
主殿に集う家臣たちは、息を呑んでその冷徹な分析に耳を傾けていた。
「すなわち、その両名をこの世から完全に排除できれば、あの十万の軍勢は一瞬にして烏合の衆へと成り下がります。確固たる指揮系統を失った十万の兵など、ただの巨大な肉の塊に過ぎません。統率を失った軍隊というのは、数が多ければ多いほど、崩壊した際の混乱と自滅が大きくなるものです」
「両方を、抹殺するか」
「同時に仕留めるのが理想ですが、最悪、片方だけでも十分です。どちらか一翼が欠けるだけでも、あの軍の機能は致命的に損なわれるでしょう」
ボイドは不敵に腕を組んだ。
「具体的には、どうやってそれを成し遂げるつもりだ」
「私の大隊に加え、殿下が誇る最高戦力『リガニア騎士団』の指揮権をこの私にお預けいただければ、容易に果たしてみせましょう」
「……容易に、と言ったか」
ボイドは目を細め、目の前の将を値踏みするように睨みつけた。
「穢れた一族とはいえ、相手はあのグランツだぞ。ただの大言壮語ではないのか?」
しかしリヒトは、その疑念の視線を浴びても微動だにしなかった。
「決して大言壮語ではございません」
その冷徹な声に、初めてわずかな熱が混じる。
「私はかつて、第二皇子殿下の親衛隊将校として、帝都においてマルシア第三皇女殿下の軍勢と幾度も刃を交えました。『聖女』と称されるあの皇女殿下が率いる北方軍の圧倒的な精強ぶりは、今更説明するまでもないでしょう。──しかし、私はそれを退けた」
ボイドの眉が、僅かに跳ね上がった。
「その実績を持つこの私が申し上げているのです。あの二人を確実に仕留めるための算段は、すでに私の頭の中で完璧に構築されています。我が大隊と、リガニア騎士団があれば、即座に実行に移せます」
主殿に、張り詰めた静寂が降りる。
ボイドはしばらくの間、値踏みするようにリヒトの顔を凝視し続けていた。
やがて──彼の口元が、満足げに不敵に歪んだ。
「よろしい」
その声音には、確かな愉悦の色が混じっていた。
「『騎士の中の騎士』とまで謳われたお前のその実力、この機会に私の目の前で直接見せてもらうとしよう」
ボイドは再び、玉座の背もたれへと深く身体を預けた。
「聖女マルシアすら退けたお前のその手腕。我がリガニア騎士団をもって、グランツとその不遜なる腹心の首を、見事にへし折って見せよ」
「御意」
リヒトは、静かに、深く頭を下げた。
その表情には、いかなる感情も浮かんでいなかった。
勝利への焦りも、名誉への興奮も、あるいは強敵への緊張すらも。
ただ、冷酷なまでに研ぎ澄まされた「確信」だけが、その瞳の奥に宿っていた。
燭台の微かな光を反射して、床に広がった赤黒い血溜まりが、不気味に妖しく輝いていた。




