5話
「ホーエンス様」
リデルはあえて正体を明かさず、わざと丁寧な口調を崩さずに続けた。
「ラムズ家の方が、なぜバートン家の直轄領で、無断で税を取り立てているのでしょうか」
「こ、これは――」
リデルは一歩、また一歩と踏み出した。怯えた小市民の表情の下から、冷徹な光が滲み出ていく。
「もしバートン家の名を偽り、無断で領民から取り立てているのなら――それは明確な越権行為。バートン家への侮辱、いえ、詐欺と横領の罪に当たります」
「ち、違う。話を――」
「しかも、これだけの規模です。村人一人当たり銀貨三枚、さらに高利の貸付で土地まで奪う。もしこれが私腹を肥やすための行為であれば」
リデルはわずかに首を傾げた。12歳の顔に、これ以上ないほど場違いな、静かな笑みが浮かんでいた。
「法に照らせば、死罪が妥当でしょうね」
ホーエンスの顔が、紙のように白くなっていく。
「それとも――」
リデルはさらに踏み込んだ。
「これが、もしラムズ本人の指示なら――」
「黙れえええっ!!」
ホーエンスの怒声が、リデルの言葉を遮った。
馬上の男の表情は、もはや動揺を通り越し、恐怖のあまり錯乱しかけていた。この場で「ラムズ」の名前と「指示」という言葉が結びつくことだけは、何があっても他人に聞かれてはならない。それだけは、彼の本能が理解していた。
「お前ら! その小僧を殺せ!」
ホーエンスが叫んだ。背後に控えていた部下たちが、まだ状況を正確に理解しきれていないまま、反射的に剣を抜いた。
「な――!」
村人たちから悲鳴が上がる。
リデルは目を見開いた。表向きは、12歳の少年が初めて見せる、本物の恐怖の表情だった。後ずさるように、一歩、足を引く。
(――それでいい)
しかし、その瞳の奥は、冷徹なままだった。
男たちが剣を構えたまま、こちらに踏み込んでくる。広場の村人たちは動けない。誰も、行商人風の少年を庇う理由がなかった。
(ここで斬られかけることに、意味がある)
もしこの場で彼らが本当に剣を振るえば――それは、白昼堂々、衆人環視の中で、ラムズ家の徴税官がバートン家の領民の子供に斬りかかったという、覆しようのない「事実」になる。そして後に自分の正体が露見すれば、この蛮行そのものが後々の強力な政治的カードになる。
多少の傷を負うことになっても構わない。前世でも、こういう「あえて自らに刃を受け入れる」場面が、最も効果的な一手になることをリデルは知っていた。
刃が目の前に迫る。
村人たちの誰かが、悲鳴混じりに何かを叫んだ。
その時だった。
リデルの隣から、何かが弾けるように飛び出した。
行商人の外套がひらりと舞う。リーフィアの身体が、信じられない速さでリデルの前に滑り込んだ。
懐から抜き放たれた短剣が、一筋の閃光を描く。
肉を断つ、湿った音。
剣を構えていた男の右手が、武器を握ったまま地面に落ちた。
男が絶叫した。切断された手首から、鮮血が噴き出す。
「ぎゃああああっ!」
リーフィアは止まらなかった。返す刀で、もう一人の男の腕を斬りつける。男は剣を取り落とし、後ろへ倒れ込んだ。
わずか二振りの間に、広場で武器を持つ者は誰もいなくなっていた。
広場が、完全に静まり返った。
ついさっきまで「行商人の侍女」だったはずの少女が、短剣を構えてすらりと立っている。栗色の髪が布から零れ、頬の煤など、もうどうでもよくなっていた。その立ち姿には、15、6歳の少女のものとは思えない、研ぎ澄まされた殺気が滲んでいた。
「――恐れ多くも」
リーフィアの声は、いつもの柔らかさとはまるで違う、低く、芯の通ったものだった。
「バートン家嫡子がリデル様に刃を向けるとは、何事か!!!」
その一言が、広場の空気を根本から塗り替えた。
地面に転がる、切り落とされた手と剣。
ぴくぴくと痙攣する指を前に、残された部下たちは完全に腰を抜かしていた。「リデル・バートン」という名前を聞いた瞬間は、誰もが耳を疑ったはずだ。行商人風の少年が、領主代行リデル・バートン――そんな馬鹿な話があるか、と。
しかし、目の前でホーエンスが馬から滑り落ちるように地へ降り、がくがくと膝を震わせている。あの男が、誰に対してそこまで取り乱しているのか。答えは、もう一つしかなかった。
「ひ……ひぃっ!」
部下の一人が、切り落とされた仲間の手を見て、ようやく過酷な現実を理解した。リーフィアの構える短剣の先が、すっとそちらを向く。それだけで、もう十分だった。
「に、逃げろっ!!」
負傷した仲間を引きずるように担ぎ上げ、彼らは荷馬車を放置したまま、もつれる足取りで広場の外へと駆け出していった。這う這うの体で逃げ出す彼らの後ろ姿に、これほど相応しい描写もないだろう。
ホーエンスだけが、その場に取り残された。膝をついたままリデルを見上げる目には、もはや反抗の意志すら残っていなかった。
「後で、屋敷に出頭しろ」
リデルは、もう小市民の声を作らなかった。12歳の少年のものとは思えない、静かで圧倒的な重みのある声だった。
「事と次第によっては――いや、何も言わずとも、お前自身が一番よく分かっているはずだ」
ホーエンスは口を開くことすらできず、ただ何度も地面に頭を擦り付けた。
リデルはその男から視線を外し、広場を見渡した。
村人たちは誰もが言葉を失い、ただ呆然と、行商人姿だった少年と、その傍らに立つ少女を見つめている。先ほどの井戸端の女も、口を半開きにしたまま立ち尽くしていた。
リデルは、その視線一つひとつに静かに応えるように、声を張った。
「みなさん」
広場が、しんと静まる。
「今回のような不当な徴税や、不当な貸付の強要が、今後どこかの村であった場合――それは必ず私、あるいは父ジョルジュに申告してください。直接、屋敷を訪ねていただいて構いません」
「リ……リデル様……?」
井戸端の女が、震える声で呟いた。
リデルはその女に向けて、小さく頷いた。
「先ほどの言葉、聞こえていました」
女が、はっと顔を上げる。
「これまで期待に応えられず、申し訳ありませんでした。しかし――これからバートン家は変わります。そして、あなたがたの苦境も変えてみせます」
誰かが、まず息を呑む音がした。
そして、その静寂が波のように崩れた。
「リデル様だ……!」
「本当に、リデル様が来てくださったのか……!」
「神様、ありがとうございます……!」
歓声というよりは、堰を切ったような慟哭だった。先祖代々この土地を守り続けてきた人々の、十年の沈黙が一斉に溢れ出していくようだった。
リデルはその声を背に、リーフィアを促して、静かに広場を後にした。
誰も二人を追おうとはしなかった。代わりに、彼らの背中に向かって、いつまでも感謝の声が降り続いていた。
───
村を出て、街道沿いの森に入ったところでリデルは足を止めた。
荷車を引く音も、村人たちの声も、もう聞こえない。木々の間からこぼれる光が、二人の足元に斑模様を作っていた。
「リーフィア」
リデルは振り返った。
「さっきは助かった。剣先が来た瞬間、正直、ここまで間に合うとは思っていなかったんだ」
軽い口調だった。労うように、いつもの調子で。
リーフィアは短剣を懐に納めながら、しばらく無言だった。
やがて、彼女は静かにリデルの正面に立った。
「リデル様」
「ん?」
「先に、無礼をお詫びします」
その言葉の意味をリデルが理解するより早く――
ぱしん、と乾いた音が森の中に響いた。
頬に、熱い感覚が広がる。
リデルは一瞬、何が起きたのか分からなかった。リーフィアの平手が、自分の頬を打ったのだと理解するまで、数秒を要した。
「……」
リーフィアの目には、涙が滲んでいた。
「『最悪の場合でも、君だけは逃げろ』――あんなこと、二度と仰らないでください」
声が震えていた。
「私は、リデル様をお守りするためにここにいるんです。なのに、あなた様が真っ先に刃の前に立とうとなさる。私が間に合わなかったらどうなっていたか――分かっていらっしゃいますか」
「リーフィア……」
「リデル様は、ご自分の命を軽く扱いすぎます」
リーフィアはもう一度、ぐっと息を吸い込んだ。
「あなた様はバートン家の次期当主であり――私にとっては、たった一人の、お守りすべき方なんです。どうかご自分を、もっと大切にしてください」
リデルは頬に手を当てたまま、しばらく何も言えなかった。
70年、人を統べてきた。多くの命を駒として動かし、自分の命さえも計算式の一つとして扱ってきた。誰かにこんなふうに本気で叱られたのは――前世を含めても、いつ以来だったか。
「……すまない」
リデルは素直に頭を下げた。
「次は、ちゃんと君と相談する。それでいいか」
リーフィアは涙の浮いた目のまま、ふっと小さく笑っ
た。
「はい。それで十分です」
森を抜ける風が、二人の間を柔らかく通り過ぎていった。




