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47話

気がつけば、天幕の隙間から微かに白み始めた厳かな光が差し込んでいた。

一晩中、部屋を照らし続けていた燭台の炎は、いつの間にか燃え尽きんばかりに小さくなっている。

しかし、二人は未だに卓上の地図を前にしたまま、視線を外していなかった。

グランツが、ふと顔を上げた。

 

「──夜が明けたな」

 

「そうですね」

 

リデルは、徹夜の疲労を微塵も感じさせない様子で、地図を見つめたまま淡々と答えた。

しばしの沈黙が、天幕の中に流れる。

グランツは、地図のヴェーデルとローズヴェルの西側に位置する広大な領域へと鋭い目を落とした。

 

「……やはり、まずはベルランゴと盟約を結ぶべきか」

 

「はい」

 

リデルは、一瞬の間も置かずに即答した。

 

「現在、ベルランゴ公国もまた周辺諸国の制圧を着々と進めております。今回の内紛を電撃的に片付けた我が陣営と、この段階で全面衝突することは彼らにとっても決して得策ではありません」

 

「向こうの指導者も、そう合理的に判断するか」

 

「するはずです。問題は、こちらが提示する条件にあります」

 

リデルは、地図の西部に細い指先を走らせた。

 

「同盟を締結するためには、こちら側がある程度譲歩して見せる必要があります。具体的には、西方領域における双方の勢力圏の取り決めです。たとえ多少はこちらに不利な線引きになろうとも、まずはそれに応じて西の安全を確保することが、極めて現実的な選択肢でしょう」

 

「そうだな。その取り決めが成立して初めて、我々は悲願である帝都への東進へと本格的に手をつけられる。西側に大きな憂いを残したまま、軍を東へ向けるわけにはいかないからな」

 

グランツは、じっと地図の地勢を見つめ直した。

 

「西はベルランゴにある程度譲ることで盤面を固め、その隙に全軍を東へと動かす、か」

 

「はい。それが打倒の道筋です。ベルランゴとの盟約こそが、すべての前提条件となります」

 

グランツは、少しの間を置いて熟考した。

 

「分かった。その方向で外交を動かそう」

 

「宜しいかと存じます」

 

リデルはそこでようやく地図から顔を上げた。

 

「それともう一つ、この機会に申し上げておきたいことがございます」

 

「何だ」

 

「これから我々が組むべき相手──というより、神輿として推戴すべきふさわしき者がおります」

 

グランツは、リデルの意図を察してその瞳を覗き込んだ。

 

「……ベルドルナ家の神輿の話か」

 

「はい」

 

「フン、わざわざお前に言われずとも、すでに分かっているさ」

 

グランツは、静かに、しかし重みのある声で告げた。

 

「北方軍閥の絶対的な首魁にして、女神教『聖女派』の長。──マルシア第三皇女殿下だな」

 

「やはり、御存知でしたか」

 

「知らないわけがないだろう」

 

グランツは不敵に腕を組んだ。

 

「だが、神輿としてはあまりにも重すぎる相手だな。彼女自身が強力な私兵団を持ち、巨大な教会組織を背後に従え、民衆からの狂信的な支持もある。そして何より、戦にめっぽう強い。担ぎ上げた後、我々がどうやって彼女を御していくか、相当に知恵を絞っておかねば足元をすくわれるぞ」

 

「おっしゃる通りです。しかし──」

 

「他に現実的な選択肢がない、ということか」

 

「その通りです。第一皇子は南部の『聖母派』に保護されています。今回の戦役で聖母派と激しく刃を交えた我が陣営が彼を担ぎ出すのは、大義名分の矛盾を露呈させるだけです」

 

「確かにそうだな」

 

「第二皇子はティーガル家の庇護下にあります。東方諸州の雄であるあの名門が、独自の権威付けのための象徴である玉体を、そう簡単に手放すはずがありません」

 

「となれば」

 

「消去法で見ても、マルシア第三皇女以外に我々が選べる現実的な選択肢は存在しないのです」

 

グランツは、しばらくの間押し黙った。

 

完全な夜明けの光が、天幕の中に青白く満ちていく。

 

「どのみち、避けて通ることはできない、か」

 

「はい。遅かれ早かれ、グランツ様が本当の意味でのこの大陸の頂点に立とうとされるのであれば、必ずや正面から向き合わなければならない傑物です」

 

「分かっている」

 

グランツは、地図の北方に広がる峻険な大地へと視線を向けた。

それから、静かに、しかし確固たる意志を込めてはっきりと言い放った。

 

「遅かれ早かれ避けて通れない相手だが、今は手を握ろうじゃないか」

 

「では、さっそく具体的な段取りを整える必要がありますね」

 

リデルは、再び地図に向き直った。

 

「ベルランゴへの特使の派遣、そしてマルシア皇女への秘密裏の接触。どちらも一朝一夕で結果が出るような生易しい外交ではありません。相手の出方を探りながら、慎重に時間をかけて──」

 

「──三年だ」

 

グランツが、遮るように静かに告げた。

リデルは、動かしていた手をぴたりと止めた。

 

「……三年、ですか」

 

「国内の領政の安定化。我が軍の再編とさらなる強化。そしてそれらと並行して行う、ベルランゴとマルシアへの二面外交工作。これらの強固な土台を内外ともに完璧に固めるには、どうしても最低三年はかかると見ている」


「……三年」

 

リデルは、自らの脳内で高速に計算を巡らせ、少し眉をひそめた。

 

「グランツ様、我が陣営の現在の実力をもってすれば、その半分の期間もあれば全てを整えるには十分かと存じますが」

 

「お前ならそう言うだろうと思っていたよ」

 

グランツは地図から完全に目を離し、リデルの顔を真っ直ぐに見据えた。

 

「しかし、一年半では絶対に足りない。それには明確な理由がある」

 

「理由、にございますか」

 

「──お前自身の身体だ」

 

リデルは、意表を突かれて一拍の間を置いた。

 

「……それは」

 

「あの暗殺未遂の毒が、未だにお前の体内から完全に抜けきっていないのだろう。お抱えの医師からも報告を受けている」

 

グランツの声は淡々としていたが、そこには一切の反論を許さない絶対的な重みが含まれていた。

 

「これから帝都へと向かうまでの間、お前にはそれこそ無数の激務がのしかかることになる。その満身創痍の状態で無理を重ね続ければ、最も肝心な局面でお前は確実に倒れるのは明白だ」

 

「問題ありません。これくらい、仕事に影響は──」

 

「大いに問題がある」

 

グランツは、断固たる口調ではっきりと言い切った。

 

「この『三年』という数字は、お前の体を完全に療養させるために必要な期間を含めて、私が算出したものだ。それ以上でも、それ以下でもない」

 

リデルは、驚きを秘めた目でグランツを見つめた。

 

「……承知いたしました」

 

リデルは短く、しかし深く頭を下げて答えた。

 

「では、その三年の猶予を以て、すべての完璧なる土台を整えてみせましょう」

 

「ああ、期待している」

 


───

 

それから、三年の月日が流れた。

グランツの緻密な目論見通り、この三年間で内外の盤面は着実に、そして完璧に整えられていった。

まず、西の雄であるベルランゴ公国との外交交渉が正式に妥結した。西方領域の勢力圏を取り決めたその条約は、確かにローズヴェル陣営にとって若干の譲歩を強いる不利な線引きではあったが、引き換えに西側の懸念材料は完全に消滅した。

次に、北方軍閥の首魁であり女神教聖女派の長でもあるマルシア第三皇女との秘密交渉が、ついに実を結んだ。彼女との盟約は単なる甘い同盟関係などではなく、互いの強大な利害を認め合い、それぞれの大義名分を担保し合うという、綱渡りのような複雑極まる政治的取り決めであった。だが、それは確かに成立したのだ。

ローズヴェル軍はグランツを頂点として完璧に整備され、ヴェーデル公国の軍もまた、リデルの軍制改革のもと血の滲むような再編を完了させていた。

そして何より、リデルの体内に燻っていた猛毒も、この三年の徹底した療養の中で、ようやく跡形もなく完全に抜け切っていた。

そして、運命の出陣の朝を迎える。

遮るもののない大陸の空は、どこまでも青く広大であった。

ローズヴェルとヴェーデルの連合軍、合わせて十万もの大兵力が、見渡す限りの大平原に整然と陣列を敷いていた。

精強なる兵士たちの甲冑と、風にたなびく無数の軍旗が、昇り始めた朝の光を浴びて黄金色に輝いている。

特筆すべきは、軍の約半数の装備として、国内での量産体制を確立した新式兵器フリンテが配備されている点であった。他国の諸侯たちもようやくその圧倒的な威力に気づき始め、大慌てで導入を進めてはいたが、少なくとも現在の帝国内の全勢力において、これほどの最大規模の配備数を誇っているのは、間違いなくこの連合軍だけであった。

リデルは、愛馬の上からその圧倒的な軍勢の光景を静かに見渡した。

十万。

これほどの巨大な暴力の塊が、ただ一つの明確な目的のために、同じ方向を向いている。その事実そのものが、この戦乱の歴史の特異点を意味していた。

その馬上のかたわらには、専属の護衛であるリーフィアが控えていた。三年前のあの夜とは違い、成長期を迎えたリデルの背丈は大きく伸び、今や目線はリデルの方が高くなっている。

 

「リデル様」

 

「何だ」

 

「いよいよ……始まりますね」

 

「ああ」

 

「──怖くは、ないのですか?」

 

リデルは、手綱を握る手を緩めず、少しだけ間を置いた。

 

「まさか」

 

「では、どのような心境で?」

 

「……強いて言うなら、『楽しみ』に近い」

 

リーフィアは、その冷徹極まる主人の答えを聞いて、ふっと呆れたように、しかし愛おしげに少しだけ微笑んだ。

 

「ふふ……やはり貴方は、どこまでも変わった方ですね」

 

「そうかね。男冥利に尽きると思うが」


(そうだとも。国盗り以上に、心躍るものなど存在しない)

 

その時、地平線の彼方から、ラッパの音が鳴り響き始めた。

進軍開始の、そして歴史の秒針が動く合図でもあった。

総大将であるグランツの駿馬が、ゆっくりと先陣を切って前に出た。

応じるように、十万の人馬が地響きを立てて一斉に動き出す。


時に大陸歴789年。

目指すは、混迷を極める帝国本領──そして、灰燼に埋もれる帝都。

リデルは愛馬の腹を軽く蹴り、軍列へと加わった。

この時、リデル・バートン──十六歳。

新たなる激闘の幕が、今、鮮烈に押し開かれた。

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― 新着の感想 ―
グランツの配下の手引きで猛毒にやられて、その猛毒が抜けるまでグランツが3年待つとか、マッチポンプ的な感じで、配下の暴走とか、もう少し説明ほしいと思ったりはする。
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