46話
キリルの不遜な言葉が放たれた瞬間、リデルの背後で僅かな、しかし鋭い殺気の揺らぎが生じた。
リデルは振り返ることすらせず、ただ右手だけを無造作に軽く上げた。
「──いい」
その短い制止の言葉に、影から動き出そうとしていたリーフィアが、ぴたりと気配を殺して動きを止めた。
不穏な空気を察したラムズが、わざとらしく低く咳払いをする。
「キリル。いくらなんでも、言葉が過ぎるぞ」
「……そうでしょうか」
キリルは顔色一つ変えず、全く悪びれる様子もなかった。
「私とリデル様は、今や同じ侯爵家に籍を置く人間です。しかも、今日からは奇しくも身内ということになった。このような公の場での会話は、いわば兄弟の気安い言い合いのようなもの。決して礼を欠いた振る舞いをしたとは思っておりませんが」
「まあ、それはそうだな」
リデルは、拍子抜けするほどあっさりとその主張に同意した。
「身内同士の忌憚のない会話だ。そう堅苦しく考える必要もない」
その口ぶりには、あまりにも圧倒的な精神的余裕が満ち満ちていた。
キリルはリデルの顔をじっと凝視した。その双眸が、わずかに細められる。
彼の固有スキルである『観察眼』が、発動していた。リデルの身にまとう目に見えない感情の「色」を、冷徹に読み解こうと躍起になっていた。
「……」
「何か気になることでも?」
「──いいえ」
キリルは一拍の間を置き、挑発的な笑みを浮かべた。
「ただ、閣下の周囲に漂う色が、いつもと少し違うように見えましてね。困惑と……何か別の仄暗い色が複雑に混じり合っている」
「ほう」
「そんなにも、心の底から悔しかったのですか?」
キリルは、逃げ道を塞ぐようにはっきりと言い放った。
「──この俺に、貴方の実家を乗っ取られたことが」
天幕の喧騒が、一瞬にして遠のいたかのような錯覚を覚える。
リデルは、静かにキリルの瞳を見つめ返した。
「ああ」
紡ぎ出されたのは、凍てつくように冷ややかな声だった。
「そうだね。他人の掌の上で与えられただけの地位で、そこまで純粋に喜べるものなのだなと……君のその浅はかさに、少し驚いているだけだよ」
場の空気が、劇的に変貌した。
キリルの端正な顔が、屈辱で一瞬にして引き攣った。反論の言葉が、すぐには喉から出てこない。
「……いずれ」
やがてキリルは、奥歯を噛み締めながら絞り出すように告げた。
「近い機会を見つけて、この実力が本物であると周囲のすべてに認めさせてやりますよ」
それだけを言い捨てると、彼は乱暴に踵を返し、人混みの喧騒の中へとその足音を消し去っていった。
ラムズはその息子の後ろ姿を冷ややかに見送ってから、再びリデルへと向き直った。
「……息子の甚だしい非礼、深くお詫び申し上げます」
「いや」
リデルは静かに首を振った。
「若い頃は、あれくらい尖った跳ねっ返りである方が、丁度いい」
「閣下、買いかぶりが過ぎますな」
「そうでもないさ」
リデルは、キリルが消え去った天幕の出口を見つめながら淡々と言った。
「あの若さで、スキルの効率的な使い方と、敵の急所の突き方を感覚的に理解している。素材としては決して悪くない。これから戦場で何度か手酷く揉まれれば、それなりの大器になるだろう」
「……」
「お前も、あの将来の『次期当主』を陰からよく補佐してやるがいい。未熟な若者を見守り育てるのが、周囲の大人の務めというものだろう?」
ラムズは、少し長めの沈黙を置いてから、深い笑みを漏らした。
「閣下も、変わらない歳なのに、大人なことで」
「お前のような男に言われると、嫌味にしか聞こえず素直に受け取れないな」
「まさか。これは正真正銘、私の本心ですよ」
リデルはそれには答えず、ただ杯を傾けた。
その時、歓楽の天幕の向こう側から、一人の使いの者が足早に近づいてきた。グランツの身辺を警護する直属の部下だ。
「宰相閣下、グランツ様が奥の天幕にてお呼びです」
「分かった。すぐに向かおう」
リデルは使いの者に短く頷き、それからラムズへと向き直った。
「──一つ、頼みがある」
「何なりと」
「父上と母上に……よろしく伝えておいてくれ」
ラムズはその言葉の意図を察し、わずかに両眸を細めた。
「……御意。しかと、お伝えいたしましょう」
「では、失礼する」
リデルはラムズに軽く一礼すると、使いの者の後を追って歩き出した。
ラムズは、喧騒の中で一人佇んだまま、その背中をしばらく見送っていた。それから、静かに残りの杯を口へと運んだ。
───
案内された部屋は、本営の最深部に位置する、極めて奥まった場所にあった。
天幕の構造自体は非常に簡素であり、室内には華美な装飾品など一切置かれていなかった。中央に無骨な卓が一つ、椅子が二つ、そして闇を照らす燭台が一本。ただそれだけの実用的な空間だ。
その中央に、グランツが一人で静かに座っていた。
身にまとっているのは、重厚な甲冑でも儀礼的な正装でもなく、普段着に近い簡素な黒い外套のみであった。
「来たか。──まあ、そこに座れ」
リデルは促されるまま、向かいの椅子へと静かに腰を下ろした。
「ドン様とフランク様は、今夜の席には同席されないのですか?」
「今夜はお前と二人だけだ」
グランツは卓の上に置かれていた果実酒の瓶を手に取ると、自らの手でリデルの杯へと酒を注ぎ、その前に置いた。
「有り難き幸せにございます」
「そう堅苦しい世辞を言うな」
グランツは自らの杯を手に取り、僅かに口を潤してから卓へと戻した。
「──ヴェーデル公国での一件について、まずは私から詫びを言わせてほしい」
その声音は、驚くほど静かで真摯なものだった。
「暗殺組織『赤手組』が裏で動いたことも、公王レイが暴走したことも、そして結果としてお前がその身に深い傷を負う羽目になったことも……すべては私の陣営の不徳が引き起こした事態だ。これについて、お前に言い訳をするつもりはない」
「どうか、お気になさらずに」
リデルは差し出された杯の酒を一口飲み、平然と返した。
「むしろ、あの事件が起きてくれたおかげで、私の側としては随分と捗りましたので」
「……捗った、だと?」
「ええ。レイ公王の決定的な弱みを握ることができましたし、グローヴ・リヴァイアが実は裏で身の潔白を保とうと足掻いていたことも露呈した。おかげで両者に対する私の政治的立場は、以前よりも格段に強固なものとなりました。多少の遠回りとリスクではありましたが、結果としてヴェーデル国内での支配力を一気に高める絶好の機会となったのです」
グランツは、冷徹な計算を語るリデルの顔をしばらくの間じっと見つめていた。
「……お前にそう言ってもらえると、私の心の重荷も少しは軽くなる」
「私はただ、事実を申し上げているまでです」
「そうか」
グランツは再び杯を手に取ると、ふっと視線を落とした。
「ならば、お前に一つ頼みがある」
「何でしょう」
「──レイのことを、あまり過剰に虐めないでやってほしい」
リデルは、その言葉にわずかに目を細めた。
「滅相もない。虐めるなどという感情的な真似はいたしません」
「そうか?」
「ええ。ただ、法と道理に基づいて『適切な処理』しているだけにございます」
「だが、その容赦のなさが、当のレイにとっては酷い虐めのように感じられるかもしれん」
グランツは、どこか遠い未来を見つめるような、深い眼差しをした。
「あいつは、ああ見えて内に秘めた確かな『力』を持っている。今はまだ粗削りな原石に過ぎないが、この苛烈な乱世の中で揉まれ、磨かれれば、いずれは誰よりも眩く光り輝く宝石になるような男だ。私はあいつを、そう評価している」
「はぁ……」
リデルは、その評価を黙って聞き届けた。
内心では未だ半信半疑であったが、あのグランツがそこまで言うのであれば、全否定するだけの明確な反証も持ち合わせていない。リデルはとりあえず、その言葉を自らの記憶の隅へと留めておくことにした。
「分かりました。その件に関しては、善処いたします」
「頼む」
グランツは椅子の背もたれに深く体重を預けた。
しばらくの間、二人の間に心地よい沈黙が流れる。燭台の微かな炎が、夜風に吹かれて小さく揺らめいていた。
「──改めて、これからの未来の話をしよう」
グランツの声のトーンが、一段と低く、重みのあるものへと変わった。
「私がこれから真に目指そうとしているものについて、お前にはここで直接、すべてを語っておきたい」
「──ぜひ、お聞かせください」
「今、この連合帝国は完全に崩壊した状態にある。帝都は灰燼に帰し、各地の公王たちが我先にと割拠し、もはや誰の手にも収拾がつかない無秩序な世界だ」
「はい」
「私はその混沌を──我が手で一つに統一するつもりだ」
リデルは杯を手に持ったまま、グランツの真紅の双眸を真っ直ぐに見つめ返した。
「そのための具体的な方法は、まず一つ。──ベルドルナ家の生き残りの人間を、我が陣営の神輿として担ぎ出す」
「帝室の正統なる血筋を、我が方の御旗にするということですか」
「そうだ。今の激動の時代、ただ圧倒的な武力を行使するだけでは、真の意味で国を一つにまとめることは不可能だ。人々の心を従わせる『大義』が必要であり、歴史的な『正統性』が必要不可欠となる。ベルドルナの血を引く者を組織の前面に立て、その名の下に帝都へと堂々入城を果たす」
リデルは、その壮大な戦略の青写真を静かに聞き入っていた。
「帝都の地を完璧に押さえれば、大義名分は完全にこちらの掌中に収まる。その絶対的な大義を盾にして、各地に割拠する諸公王家に対して強力な働きかけを行うのだ。武力による制圧と、外交による懐柔を巧みに使い分けながら、連合帝国をかつての姿へと再統一する」
「その帝国の再統一が完全に成し遂げられたならば?」
「──その爆発的な勢いを維持したまま、連合帝国勢力圏外へと打ち出し、この地上に存在するあらゆる国家を私の元に統合させる」
それだけを、グランツは告げた。
そこには、誇張も虚飾も、余分な言葉は一切含まれていなかった。
リデルはその壮大すぎる言葉の本質を、自らの頭の中で瞬時に展開し、精査した。
それはあまりにも途方もない規模の、正気の沙汰とは思えぬ国家計画であった。だが、語るグランツの口調はどこまでも穏やかで、冷徹だった。決して現実逃避の夢想などではない。彼は本気で、これを実現可能な未来として語っているのだ。
「……帝国の再統一という一事だけでも、尋常ではない規模の大事業にございます」
「ああ」
「その先の全世界の平定となれば──我々の生きている世代の間には到底終わらない可能性すらある」
「そうかもしれないな」
「それでも、貴方は」
「──それでも、私はやる」
グランツは、爛々と輝く真紅の瞳でリデルを射抜いた。
「かつて私がお前に言ったはずだ。『俺以外のすべてを平等にするために君臨する』と」
「……ええ、鮮明に記憶しております」
「それが、今の私が混迷の末に導き出した答えだ。連合帝国を統一し、この地上に存在する全ての国家人種を一統する。その圧倒的な秩序の基盤の上でなければ──本当の意味での『平等』な世界など、決して作り出すことはできない」
リデルは、その赤い瞳の奥にある底知れぬ決意を見つめていた。
かつて初めて謁見の間で、この男からその傲岸不遜な言葉を聞かされた時の衝撃が、鮮烈に脳裏に蘇ってくる。
「──分かりました」
「何が分かった?」
「なぜ私が、他の誰でもなく貴方に従う気になったのか……その理由が、今ここで改めて完全に理解できました」
グランツは、少しの間だけ意外そうに黙り込んだ。
「……それは、私にとって最高に光栄な言葉だな」
「お間違いなきよう。これは単なる世辞の類ではありません」
「知っているさ」
二人はしばらくの間、そのまま言葉を交わすことなく座っていた。
燭台の炎が、また小さく揺らめく。
「では──その途方もない大業を成し遂げるために、我々が今具体的に何をすべきか、具体的な策を話し合いましょうか」
「ああ、それこそが今夜の本題だ」
グランツは卓の上に、細部まで描き込まれた最新の戦略地図を大きく広げた。
彼らの征くべき夜は──まだ、始まったばかりのように長かった。




