44話
ブルンテの司令室には、今日も今日とて絶望的な敗戦の報告だけが次々と舞い込んできた。
重厚な扉が開閉し、伝令兵が駆け込んでくるたびに、室内の空気は目に見えて重苦しく、冷え切っていく。
「──要衝ドブル郡、陥落いたしました!」
伝令兵の悲痛な叫びが、室内の静寂にひどく不快に響き渡る。
「敵ヴィステル侯爵軍の苛烈極まる猛攻の前に、我が方の守備隊は壊滅! 残存兵力は散り散りとなり、現在は南方の山岳地帯へと敗走中とのことです!」
マクス・ローズヴェルは、机上の戦術地図を凝視したまま身動きをしなかった。ドブルの要衝に血のような赤い印を付けようとしていた彼の指先が、ぴたりと凍りついたように止まる。
「──続いて、大司教軍より緊急報告! 前線においてロングード侯爵軍の奇襲を受け、壊走! 大司教猊下も乱戦の中で戦死を遂げられ、全兵力の七割を喪失いたしました!」
次の伝令が、血相を変えて部屋へと飛び込んできた。前の伝令がまだ退室すらしていない狭い室内で、二人の伝令が慌ただしく交差する。その光景自体が、すでに戦線の致命的な崩壊を物語っていた。
「──主要街道の守備隊より伝達! 敵バートン伯爵軍の調略工作により、防衛線の守備隊の大半が、戦わずして敵方へと寝返りました! これにより、ここブルンテへと続く主要街道は現在、完全に敵の掌中に掌握されております!」
三つ目の最悪な報告が室内に響き渡った時、司令室の中で口を開く者は、もはや誰一人としていなかった。
マクスは、ただひたすらに机の上の地図を見つめ続けていた。
見つめ続けながら、その顔色を土色へと変えていく。半月前の決起の夜、その双眸の奥にギラギラと輝いていた「勝利への確信の光」は、今の彼の顔からは完全に、跡形もなく消失していた。
挙兵した当初、女神教派の軍勢は四万二千を超えていた。しかし今、各地から山積みのように届いていた凄惨な報告を統合すれば、手元に残されている兵力は、その半数にも満たない。しかも恐るべきは、これほど壊滅的な打撃を被りながら、彼らが戦っていたのはグランツ陣営の二万九千のみという事実だ。マクスたちの背後から迫っているはずの、リデル率いるヴェーデル軍三万は──未だ一戦も交えることなく、完全なる無傷の状態でこのブルンテへと迫りつつあるのだ。
(なぜだ……なぜ、これほどまでに一方的な展開になる……!?)
マクスは、この悪夢のような二週間の戦況を必死に振り返っていた。
すべてが、あまりにも奇妙だった。
こちらが隠密に軍を動かせば、グランツの軍勢はすでに先回りをし、網を張って待ち構えていた。こちらが奇策を講じれば、奴らはそのさらに先を読み、完璧な布陣でその手を封じ込めてきた。二手先ではない、三手先でもない。──それを遥かに凌駕する次元で、こちらのすべての思考が透視されているかのような感覚。
これは本当に、同じ人間の仕業なのか。
あるいは……巷で囁かれている噂は、真実だったというのか。
本当に、あのグランツ・ローズヴェルという男は、歴史に名高い「悪魔の血」を引く怪物なのではないか。
その悍ましい考えが脳裏をよぎった瞬間、マクスは、自分が全身を震わせてその男に恐怖しているという厳然たる事実に、初めて気が付いた。
「──き、緊急報告にございます!!」
乱暴に扉が押し開けられ、息を切らした伝令が転がるように飛び込んできた。
「主要街道より急報! グランツ本隊、およそ一万五千が、強行軍でこちらへ急行中! ブルンテへの到着は──明朝の見込みとのことです!」
室内の空気が、完全に凍結した。
マクスは弾かれたように地図に視線を落とす。
怒濤の勝勢に乗るグランツ本軍一万五千に対し、現在この聖都ブルンテに展開している自方の残存兵力は──僅かに六千。
勝てるはずがない。計算を組み立てるまでもなかった。
その夜、絶望が支配する暗い自室で、一人の側近の司祭がマクスの耳元で不気味に囁いた。
「殿下……もはやここはお退きになるべき時にございます」
「退く、だと? この私に、国を捨てて逃げろと言うのか」
「これ以上の抗戦は無意味。ここは一度、聖母派の勢力圏である『南部都市国家連合』へと亡命されるのです。ゲオルクス教皇猊下の御元にその身を潜め、態勢をじっくりと立て直す。……今の殿下に残された道は、それ以外にございません」
マクスは、しばらくの間、何も答えることができなかった。
窓の外には、深い夜の闇がどこまでも広がっている。ブルンテの街並みは、嵐の前の静けさのように、不気味なほど静まり返っていた。
「……残される、我が部下たちはどうなる」
「殿下の御安全こそが、とっての最優先事項にございます」
「……私の、家族は」
「もう、時間がございません!」
マクスは、ガタガタと音を立てて椅子から立ち上がった。
「……わかった。行こう。すべてを捨ててでも、生き延びてみせる」
深夜、極めて少数の直属の供回りだけを連れ、最高指揮官であるマクスはブルンテの城門を密かに抜け出した。
狂ったように馬に鞭をあて、走らせる。追手の目を欺くため、整備された主要街道を避け、視界の悪い鬱蒼とした林の中をひたすら南へと進んだ。
夜明けの薄明かりが東の空に近づく頃、隣国との国境線まであと僅かという地点に差し掛かった時、マクスたちの乗る馬が、突然狂ったように前脚を上げて停止した。
前方の漆黒の闇の中に──ゆらゆらと揺れる、赤橙色の光が見えた。
松明の光であった。
それも、一つや二つではない。数えることすら不可能な、無数の光の列。
光は前方だけでなく、いつの間にか彼らの左右、そして退路を断つかのように後方にまで、またたく間に広がっていく。
完全に、包囲されていた。
マクスは凍りついたように、馬の上で指一本動かすことができなかった。
静まり返る包囲の陣の中から、蹄の音を響かせ、一騎の馬が静かに前へと進み出てきた。
松明の光に照らし出されたのは──爛々と輝く、禍々しいまでの赤い瞳を持った男。
グランツ・ローズヴェルであった。
その身には、戦場に相応しい重厚な甲冑ではなく、普段着に近い簡素な黒い外套を纏っているに過ぎなかった。しかし、その身から放たれる圧倒的な存在感は、周囲を取り囲む数千の兵たちよりも、何倍も重く空間を支配していた。
「グラ、ンツ……」
マクスの声が、情けなくガタガタと震えた。
吸い寄せられるように馬から転げ落ちる。しかし、恐怖で足に力が入らず、うまく直立することすらできない。そのまま泥まみれの地面に、無様に両膝を突いた。
「ゆ、赦してくれ……! 此度の決起、すべては私の浅はかな過ちであったのだ!」
紡ぎ出された声は、一国の王族とは思えぬほどに情けなく、哀れに割れていた。
「王族の身分も、すべての権利もここで捨てる! 過ぎ去った身の程知らずな野望もすべて忘れ、これからは一介の静かな神職として、生涯を神への祈りに捧げて生きていくことを誓おう! ゆえに……どうか、どうか命だけは、命だけは助けてくれ……!」
「──兄上」
グランツは、罪人を断罪する冷徹な裁判官のように、静かにその名を呼んだ。
「……は、はい」
「お前は、最初から何も分かっていなかった」
「何を……何を、でしょうか」
「──この私のことだ」
マクスは怯えながら、恐る恐る顔を上げた。
グランツの底知れぬ赤い双眸が、真っ直ぐにマクスを射抜いていた。そこには、裏切り者に対する激しい怒りもなければ、肉親を処断することへの悲しみの色すらなかった。
ただ、どこまでも冷徹で、透明な静寂だけがあった。
「四万の軍勢さえあれば、私に勝てると思っていた。教皇という巨大な後ろ盾さえあれば、すべてを覆せると思っていた。正義は、常に高潔な自分の側にあると思い込んでいた」
「……そ、それは……っ」
「この私が──一体『何者』であるか、その本質を真に理解していれば、最初から私に抗おうなどという愚かな選択をするはずがなかったのだ。そして、愚者という生き物は、生かしておけば必ず何度も同じ過ちを繰り返す」
グランツは、腰の洗練された長剣を静かに引き抜いた。
擦れる金属音が、静夜の林に冷たく響く。一寸の淀みもない、流麗な動作であった。
マクスは、迫りくるその白刃の煌めきを、ただ見つめることしかできなかった。
その瞬間、彼の脳裏に、この二週間の目まぐるしい戦況のすべてが、走馬灯のように鮮明に蘇ってきた。
二手先、三手先を読んでいたのではない。──戦いが始まる遥か前、ずっと前の段階から、この男には今日のこの結末のすべてが完全に見えていたのだ。最初から、この悪魔の掌の上で躍らされていただけだったのだ。
それを何も知らずに、勝利を確信して挙兵した自分は──。
(──自分は、何という、救いようのない愚か者だったのか)
マクスが最後に抱いた感情は、怒りでも憎しみでもなく、ただ自らの無知に対する底知れぬ後悔だけであった。
静かな夜明け前の林の中で、冷たい風に松明の光が激しく揺れていた。
──リデル・バートンが率いるヴェーデル公国の三万の大軍が、すでに静寂を取り戻したローズヴェル公国へと到着したのは、この断罪劇から二日後のことであった。
───
グランツ・ローズヴェルの本営は、公都シェルリンデの郊外に広がる、見渡す限りの広大な平原に設営されていた。
大規模な内紛が終結したばかりの戦場。天幕の周囲には、勝利を収めたばかりの将兵たちの熱気と余韻が漂い、勝鬨や談笑する兵たちの声が遠くから風に乗って聞こえてくる。しかし、本営の中心に位置する最高指揮官の天幕の内部だけは、それらの喧騒から隔絶されたように静まり返っていた。
リデルが静かに天幕へと足を踏み入れると、グランツはすでにそこに佇んでいた。
中央の大きな卓の前に立ち、広げられた最新の勢力地図を黙って眺めていた彼は、リデルが侵入してきた微かな気配を敏感に察知し、ゆっくりと振り返った。
「──来たか」
「……参上いたしました。まずは、到着が遅れましたことを深くお詫び申し上げます」
リデルは、臣下の礼を以て軽く頭を下げた。
「そして──此度の内紛における電撃的な大戦勝、誠におめでとうございます。さすがはグランツ陛下」
「ありがとう」
グランツは、感情の起伏を見せずに短く応じた。
「君もヴェーデルで色々あってからの長旅だったな。……少し、顔色が優れないようだが?」
「問題ありません。これしきの行軍、痛くも痒くもありませんので」
「そうか」
グランツはそれ以上、リデルの体調について深く追及することはしなかった。
リデルはほんの一拍の間を置いてから、滑らかな口調で言葉を続けた。
「それにしても、実に神速にして見事な軍配でございました。これほどの数的劣勢を、これほどの短期間で完膚なきまでに覆されるとは。後追いで各戦域の戦闘記録を拝見いたしましたが、常に我が方が敵の一手先、二手先を完全に封じて動いていた。まさにグランツ様の卓越した指揮があってこその大勝利であると、心から感服いたしました」
「買いかぶりだよ、宰相殿」
「いいえ、事実を申し上げたまでです」
「前線の将兵たちが、期待以上の死力を尽くして活躍してくれたからこその結果だ。この勝利の栄誉は、ひとえに彼らのものだよ」
リデルは、その建前を静かに聞き届けた。
「まさにその通りにございます。しかしながら、個々の部隊がこれほど一糸乱れぬ連動を見せられたのは、その中心にブレない絶対的な『軸』が存在したからに他なりません。そしてその軸となり得るのは、この公国においてグランツ様、貴方以外にはあり得ないのです」
グランツは、その言葉にようやく少しだけ口元を緩めた。
「……しばらく見ない間に、随分とお世辞が上手くなったな、リデル」
「本音ですよ。グランツ陛下」
「そうか」
グランツは視線を再び卓上の地図へと戻した。
「私からも、君に礼を言わねばな。背後にヴェーデルの強固な後詰めが控えていると分かっていたからこそ、こちらも余計な憂いなく、全力で前線へ兵を突き動かすことができた。もしあの三万の圧力がなければ、こちらももう少し慎重に、時間をかけて盤面を運ばざるを得なかっただろう」
「我が国の軍勢が、僅かでもグランツ様のお役に立てたのであれば、これ以上の光栄はありません」
「ヴェーデル公王レイにも伝えてくれ。重ね重ね、此度の迅速な出兵に感謝していると」
「かしこまりました。陛下には必ず、その御言葉をお伝えいたします」
グランツは地図から完全に目を離し、真っ直ぐにリデルの瞳を見つめた。
「それと、今夜は本営にてささやかな祝勝会を執り行う。よければ君にも参加してもらいたい。今後の両国の二国間方針について、腹を割って深く話し合える場を設けたいと思っている」
「無論です。そのために、これほど急いで馳せ参じたのですから」
「それは話が早くて助かる」
グランツは、そこで少しだけ意味深な間を置いた。
「──もう一つ。これは君の、ひいてはヴェーデルの宰相としての都合次第なのだが」
「何でしょう」
「これからこれより、此度の戦役における臨時の『論功行賞』を執り行う。せっかくの機会だ、君も私の隣で同席していかないか? 今後の我が国との緊密な連携を考えれば、我が国の有能な人材を直にその目で知っておく絶好の機会にもなるはずだ」
「──喜んで、同席させていただきます」
リデルは、一寸の躊躇もなく即座に答えた。
「ありがとう」
グランツは天幕の入口付近に直立していた部下の将校に、静かに声をかけた。
「では、始めよう。──まずは此度の戦役において、最も迅速に敵の防衛線を切り崩し、戦勝に多大なる貢献を果たした部隊からだ。……バートン伯爵の一行を、ここに通せ」
部下が深く一礼し、天幕の外へと向かった。
それから間もなくして、ザッ、ザッ、と地面を踏み締める複数の重々しい足音がこちらへと近づいてくる。
天幕の重いカーテンが開け放たれた。
最初に入ってきたのは、華美な軍装に身を包んだ、リデルの実父であるジョルジュ・バートンであった。
そして、そのすぐ後ろに続いて、老練にして頑強、そして隠そうとしない野心を漂わせた、老重臣が姿を現した。その双眸には底の知れない光が宿っている。ラムズ・ドーヴィルであった。
さらに、その背後から、二人の男が続いて天幕の中へと足を踏み入れてきた。
一人は父親に似たどっしりとした体格の男。そしてもう一人は、引き締まった痩躯に、どこか据わった鋭い眼光を宿した若い男であった。
リデルの冷徹な視線が、音もなくその後方の二人へと向けられる。
──ドズレ・ドーヴィル。そして、キリル・ドーヴィル。
天幕の狭い空間の中に、因縁深き四人の男たちが完全に揃い踏みした。
グランツは、静かにその一行の姿を見据えた。
そしてリデルもまた、その一行の姿をじっと見つめていた。
リデルの鉄の仮面のような表情は、微塵も動くことはなかった。
ただ──実父であるジョルジュ・バートンと、一瞬だけ視線が真っ向から交錯したその刹那にのみ、彼の細い両眸が、深く細められた。




