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42話

レイ・ヴェーデルの視界が、大粒の涙で歪んでいく。

その脳裏を過っていたのは、今や遥か彼方となった過去の記憶であった。

──それは、数年を遡る古い記憶。

『ミレニアム劇団』の、薄暗く狭い楽屋に、一人の洗練された男が訪ねてきた時のことである。

その頃のレイには、ただ『スプレンドール』という名の華やかな役者として、舞台の上で虚構を生きるしか道が残されていなかった。身分の低い娼婦の子として生まれ、腹違いの兄弟や実の親からも徹底して蔑まれ、まともな帝王学や教育すら授けられぬまま放置された彼には、亡き母親から引き継いだ「天賦の美貌」だけが唯一の武器であった。彼が公王家の血を引く高貴な傍流であると知る者は極めて少なく、劇場の外において、彼を「レイ・ヴェーデル」という本名で呼ぶ者など一人も存在しなかった時代だ。

その男は、一見すると裏社会で辣腕を振るう、やり手の紳士のような風体をしていた。だが、その双眸の奥にある光だけが、並の有象無象とは決定的に異なっていた。

楽屋へと通されたその男は、じっとスプレンドールを見つめ、静かにこう言い放ったのだ。

 

「──あなたは、ただの役者として一生を終えたいわけではないでしょう」

 

レイはその一言に、文字通り息を呑んだ。

それまで彼の周囲に集まってきた者たちは、誰もそんな本質的な核心を突きはしなかったからだ。誰もが口々にスプレンドールの完璧な演技を称賛し、時代を揺るがす稀代の天才だと持て囃した。しかし、その輝かしい才能の檻の中に囚われている「剥き出しの人間」を直視しようとする者は、ただの一人もいなかった。

 

「あなたは、何者かを演じるより、『人々を意のままに動かすこと』にこそ、至上の喜びを感じている。それも、このような狭い舞台の上などではなく──もっと大きな場所でだ」

 

その男の名は、グランツ・ローズヴェルといった。

その夜、二人は夜が明けるまで長く、深く語り合った。

支配者として国家を動かしたいという、胸の奥底に秘めていた傲慢な本心を、レイは人生で初めて他者へと吐露した。恥ずかしかった。公王家の傍流のそのまた傍流として日陰を生き、正式な後継者教育など一度も受けたことがないのだ。政務の「せ」の字も体系的に知らぬ自分が、一国の主たる為政者になりたいなどと口にすること自体、身の程知らずの極みであったからだ。

だが──グランツは、彼のその言葉を決して笑わなかった。

 

「教育が足りないというのなら、これから学べばいい。経験がないというのなら、今から積めばいい。今のあなたに決定的に不足しているものは──ただ一つ、それを証明するための『機会』だけだ。安心してくれ、あなたはそれ程度の(スキル)は持っている」

 

その救いのような言葉が、レイの凍てついていた魂のすべてを根底から変えた。

世界から「異端者」と恐れられる血を引くグランツ・ローズヴェルだけが、この世界で唯一、自分を全肯定してくれたのだ。舞台の上の道化(アクター)としてではなく、支配者(ルーラー)になりたいというあまりにも身の程知らずな夢を、子供の他愛ない妄想として一笑に付すこともしなかった。

レイは、その瞬間からグランツという男に盲目的に心酔した。

やがてグランツがローズヴェル公国の権力の中枢へと駆け上がり、ヴェーデル公国の凄惨な後継者争いへと強引に介入し、その結果としてレイが新たな公王の座へと君臨した時、二人は新しい世界の理想を熱く語り合った。グランツは「すべての民が平等に生きられる世界を目指す」と静かに語り、レイはその傍らで、生涯をかけて彼の絶対的な力になると誓ったのだ。

その時、レイは生まれて初めて、自分がこの世界に生を受け、存在する正当な場所を見つけたのだと確信した。

 

──しかし。


その幸福な未来の盤面に、突如として音もなく現れたのが……このリデル・バートンという怪物であった。

 

「お前が……お前という存在のせいで、すべてが狂ったのだ……!」

 

レイは、もはや直立していることすらできず、床へと惨めに崩れ落ちていた。両膝を絨毯につき、美しかったはずの顔を涙と鼻水でぐちゃぐちゃに歪ませている。

 

「グランツ様が、お前の話をされる時のあの顔……あの御方が、我に対してあんな熱を帯びた表情を見せたことなど、これまでの人生でただの一度もなかったのに……っ!」

 

紡がれる言葉は、もはや言語としての体を成してはいなかった。制御を失った激しい感情の塊が、ただ汚泥のように口から流れ出しているに過ぎない。

リデルは、その王の醜態を、感情の失せた冷徹な瞳で見下ろしていた。

そして、リーフィアに外で待機するよう命じ、レイと二人きりの空間を作る。

 

(──何とも、憐れな男だ)

 

それは残酷な蔑みなどではなく、厳然たる事実としての乾いた評価であった。このレイという人物は、一国の権力の頂点に君臨しながらも、その精神の内側は未だに成長の途上にある未熟な子供のままなのだ。グランツという絶対者に対するあまりにも肥大化した私的な感情が、公王として下すべき政治的な客観判断を完全に上書きし、今回の暴挙へと彼を走らせた。

この歪んだ最高権力者を、今後どのように扱うべきか。

リデルは脳内の冷徹な天秤に、いくつかの選択肢を迅速に並べ立てていった。

この事実を公の場に引きずり出せば、誕生したばかりの新政権の基盤は一瞬で崩壊する。かといって公王を厳罰に処せば、中央の求心力は劇的に低下するだろう。だが、ここで安易に罪を許せば、この男は必ずや同じ過ちを裏で繰り返す。

リデルは静かに一歩を踏み出し、床に伏せるレイの顎を、冷たい指先で軽く掴み上げた。

そして、上空から射抜くような眼光で、真っ直ぐに王を見下ろした。

 

「──喚くな」

 

衣服の下の傷口を刺激せぬよう、極限まで抑え込まれた冷徹な声音。

 

「あまりにも、みっともない」

 

レイの濡れた瞳が、驚愕のあまりに大きく見開かれた。

 

「お前、お前が……っ」

 

「──黙れ」

 

ただ、一言。

氷の楔を打ち込むような拒絶であった。レイはその圧倒的な威圧感に気圧され、言葉を失って完全に沈黙した。

リデルは掴んでいた顎から静かに手を離し、再び脳内での深い思案へと戻った。

この後、いかなる手順を踏むべきか。引き続きこの部屋に残された物的証拠の精査を徹底するか、あるいは今夜の時点における公王への暫定的な処置を確定させるか。いくつもの冷徹な計略が、彼の頭脳の中で整然と構築されていく。

──その、刹那であった。

前触れもなく、客室の重厚な扉が外側から滑らかに開け放たれた。

リデルは即座に気配を察知し、振り返る。入ってきたその男の姿を捉えた瞬間、彼の細い両眸が、一瞬だけ鋭く細められた。

あのグランツとの邂逅にも同席していたローズヴェル国重臣、ドン・ヴィステル侯爵であった。

深夜の訪問であるにもかかわらず、何のためらいもなく、部屋へと足を踏み入れるなり、室内の惨状を一瞥した。床に崩れ落ちた公王レイ、その傍らに佇む新宰相リデル、そしてリデルの衣服から微かに滲み出ている生々しい血痕──それらすべての状況と今夜の顛末を、彼は僅か数秒の観察で完全に把握してみせた。

だが、その老練な顔には、驚きの色は微塵も浮かび上がらなかった。

それどころか、床にへたり込むレイの姿を視線に収めた瞬間、ドンの表情はあざやかなまでの「仮面」へと切り替わった。

 

「──おやおや、これはこれは」

 

紡ぎ出された声は、耳が腐るほどに甘い響きを帯びていた。ひどく芝居がかった、それでいて表面上は至高の温かみを感じさせる声音。

ドンは滑らかな足取りで、すっとレイの背後へと回り込んだ。

 

「なんともおいたわしや、ヴェーデル公王陛下」

 

これ以上なく大袈裟な嘆きのトーンを演出してみせる。

 

「──度し難く意地の悪い臣下にでも、寄ってたかって虐められましたかな? さあ、このような冷たい床からは立ち上がり、こちらへ」

 

レイが、救いを求めるようにドンを見上げた。その瞳には、暗闇で蜘蛛の糸を見つけたかのような、切実で縋るような光が宿っていた。

 

「どうやら、最悪の事態の前に間に合ったようで、何よりでございました」

 

ドンは室内をもう一度見渡しながら、白々しいほどに平然と言ってのけた。

リデルは、その計算され尽くしたドンの芝居を耳にしながらも、鉄の仮面のような無表情を崩さなかった。

 

「……ローズヴェル公国の重鎮たるヴィステル家の方が、このような夜半過ぎの時刻に、一体何の御用ですか」

 

「両国の関係に関わる、極めて火急の案件が発生いたしましたゆえに」

 

ドンは事務的に短く答えると、それ以上はリデルに対して視線を向けることすらしなかった。

彼はそのままレイの前へと恭しく歩み寄り、その場に流麗な所作で膝を突いた。

 

「ヴェーデル陛下」

 

その声音は、徹底的に丁寧な響きへと変質していた。先ほど回廊の向こうで漏れ聞こえたものとも、公式の謁見の間で見せていた不遜な態度とも異なる──極めて高度な、政治的洗練を帯びた柔らかい声音。

 

「此度の宰相閣下を狙った極悪非道なる襲撃の一件について、我が主グランツより、至急陛下にお申し伝えしたき儀がございまして、私が使者として参上いたしました」

 

レイは濡れた瞳のまま、固唾を呑んでドンの言葉を待つ。

 

「──今回、暗殺組織『赤手組』を動かしてヴェーデル国宰相閣下の命を謀殺しようと企てた暗殺未遂事件。そのすべての裏工作は、我がローズヴェル国内における反王政府勢力、通称【女神教派】の手引きによるものであると、先日判明いたしました」

 

ドンは一寸の澱みもなく、滑らかに虚偽の事実をデッチ上げていく。

 

「狂信的な彼らは、リデル閣下が『背天者』であるという身勝手な宗教的理由のみで、貴国の宰相を暗殺しようと画策したのです。他国の最高重鎮に対する暗殺工作は、事実上の宣戦布告にも等しい重大な国家犯罪。されど──我が主グランツは、現ヴェーデル公国と不毛な戦火を交える意向など、毛頭持ち合わせてはおりません」

 

レイが、その言葉の意味を理解し、救われたように小さく顎を引いた。

 

「ゆえに、我が国の潔白と誠意を貴国に証明すべく、我が主グランツは近々、国内のその腐りきった害虫どもを一掃する『大掃除』を敢行する予定でおります。まずはそれをお伝えすべく、この夜分遅くに無礼を承知で馳せ参じた次第にございます」

 

「……そう、か」レイが、消え入るような弱々しい声で応じた。


「……大義であった。大掃除の件、しかと聞き届けた」

 

「恐れ入ります」

 

ドンは優雅に立ち上がると、ここで初めて、リデルの方へと真っ直ぐに向き直った。

 

「宰相閣下も、本日は色々と不慮の災難が重なり、ひどくお疲れのことと拝察いたします。──これ以上の事後処理は、この私にすべてお任せを。閣下はどうぞ、速やかにこの部屋からご退席くださいますよう」

 

その声音はどこまでも穏やかであり、傷ついた若者を労り、促しているように聞こえた。だが──それが「これ以上この件に首を突っ込むな、速やかに退け」という絶対的な威圧の命令であることは、リデルの明晰な頭脳には明白であった。

リデルは、沈黙したまま少しの間だけドンを見つめ返した。それから、無駄な抵抗を避けるように静かに頷いてみせた。

 

「……承知いたしました。失礼いたします」


回廊へと出ると、扉のすぐ傍らに、直立不動の姿勢で控えていたリーフィアの姿があった。背後で、客室の重厚な扉が静かに、しかし完全に閉じられる。

薄暗い廊下の空間に、二人の微かな足音だけが静かに響き渡った。

リデルは、しばらくの間何も語らずに無言で歩き続けた。

やがて、回廊の死角となる静かな角へと至ったところで、彼は不意に足を止めた。

 

「──リーフィア、少しここで待っていてくれ」

 

「はい、御心のままに」

 

リデルは静かに身を翻し、いま歩んできた後方を振り返った。

暗い廊下の向こうから、規則正しい、しかしどこか優雅な足音がこちらへと近づいてくる。

ドンであった。

部屋を出て、長い廊下を歩いてくるその足取りには、先ほどと変わらぬ絶対的な強者の余裕が満ち満ちていた。正面でリデルが足を止めて待ち構えていることに気が付いた瞬間、その老練な顔に、ある微かな感情が浮かび上がった。それは想定外の事態に対する驚きなどではなく、むしろ「やはりここで待ち構えていたか」と、すべてを予期していたかのような歪な笑みであった。

 

「何用ですかな、宰相閣下」

 

「──一つだけ、確認しておきたいことがありましてね」

 

リデルは壁に緩く背を預け、静かに、しかし冷徹な声を紡いだ。

 

「情緒不安定なレイを裏から巧みに焚き付け、あの暗殺組織『赤手組』の潜入を手引きさせたのは──他ならぬ、貴方ですね?」

 

ドンは、その直球の糾弾に対しても、表情の一ミリたりとも変えなかった。

 

「ローズヴェル国において目障りな【女神教派】を合法的に根絶やしにするための政治的大義名分を完璧に作り上げながら、あわよくば、私をも抹殺する。……まさに、一石二鳥の見事な計略だ。考えてみれば、貴方も最初から、私の存在がひどく気に食わないようでしたからね」

 

「はて、何のことやら」

 

ドンは、可笑しそうに軽く両肩を竦めてみせた。

 

「確たる証拠もない単なる憶測で、物事を語るのはお止めいただきたい。私はね、そこの部屋で泣き喚いているヴェーデルの無能な人間たちのように、簡単に尻尾を掴まれるような安直な阿呆ではない」

 

それは明確な否定の言葉であった。しかし、その否定の裏側には、自身の計略に対する絶対的な自信と、確かなる挑発の光が混入していた。

リデルはそれを聞き、感情の読めない様子で小さく息を吐き出した。

 

「──まあ、いいでしょう。貴方の言い分は分かりました」

 

「……ほう?」

 

「それよりも一つ、私から非常に魅力的な提案があります」

 

「拝聴しましょう」

 

「その『女神教派の大掃除』とやらに関してですが……必要とあらば、我がヴェーデル公国から、二万ほどそちらに貸し出して差し上げましょうか? 国内の世論と勢力を実質的に二分するほどの強大な敵が相手です。……ローズヴェル単独の兵力で、果たして確実に勝利できる算段はおありですか?」

 

ドンは、リデルが放ったその傲慢な宣戦布告を耳にした瞬間、静かに笑った。

それは、相手の小賢しい提案を面白いと感じている人間の笑みでは断じてなかった。地の底から這い上がってきたばかりの生意気な若造を、遥か高き天の座から冷酷に見下ろす類の、絶対的な強者の笑みであった。

 

「──好きにするといい」

 

ドンは淡々と言い放った。

 

「我が国にお節介したいなら、いつでも軍を率いて来ればいい」

 

「ほう?」

 

「ただし──」

 

ドンの瞳の奥にある光が、劇的に変質した。

 

「──俺たちと、ウチの大将(グランツ)を、あまり舐めるなよ、小僧」

 

声のトーンこそ静かであったが、その言葉の底に込められた絶対的な「重み」は、それまでの社交のそれとは完全に一線を画していた。

 

「確固たる大義名分さえこの手に揃ってしまえば、あのような女神教派の害虫どもなど、半月もあれば根こそぎ片付けてみせる。……お前の助力など、最初から一兵たりとも不要だ」

 

リデルはドンを見つめたまま、しばらくの間、何も言葉を発しなかった。

やがて、その冷徹な仮面の表面に、純粋な知的好奇心による微かな笑みを浮かび上がらせた。

 

「……分かりました。ならば、その『大掃除』とやらが如何なる結末を迎えるのか、この目で直々に見届けさせてもらうとしましょう」

 

「好きにするがいい」

 

ドンは冷たく告げると、今度こそ完全に踵を返した。

長い回廊を悠然と歩き始めながら、彼は一度も後ろを振り返ることなく、去り際に言葉を残した。

 

「宰相閣下も、ご自身のその傷の手当てを、早急にされることを強くお勧めしますよ。……せっかく久方ぶりに故郷へと帰郷されるのです。元気な姿をその両親に見せて差し上げねば、それこそ極上の『親不孝』というものになりますぞ」

 

その掠れた声には、先ほどまで空間を支配していた圧倒的な威圧感は、もう残されてはいなかった。

ただ、冷酷な事実のみを淡々と告げる、乾いた声であった。


「……リデル様」

 

背後から、ひどく心配そうな声音がかけられた。リーフィアであった。

 

「フン、奴の言い分にも、一理あるか。……流石の私も、今夜は少々疲れた」

 

「……お部屋まで、このまま肩を貸してお送りいたしましょうか?」

 

「いや、一度襲撃を受けたあの邸内の客室で休む気にはなれん。……今夜は外に配置してある、私専用の移動馬車の中で仮眠を取ることにするよ。──傍にいて、守ってくれるか、リーフィア」

 

その問いかけに、リーフィアは胸の奥から溢れ出る熱い感情を堪えるように、力強く頷いた。

 

「──はい! 喜んで、どこまでも共にお供いたします……!」

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