41話
少しだけ、時間を遡る。
リヴァイア侯爵邸に向かう暗い街道を、一台の馬車が疾走していた。
夜半過ぎという、およそ貴族の訪問には不適切な時刻かつ、ひどく急いた速度であった。御手が振るう鞭の音が、静まり返った夜の帳に鋭く響く。
邸の外周の警戒任務に就いていたヴェーデル公国の直属兵の一人が、異常を察知して即座に片手を掲げ、馬車の行く手を阻んだ。
「停まれ! これより先、リヴァイア侯爵邸への無断接近は固く禁じられている。身分と、この夜更けにおける訪問の目的を明かせ!」
馬車の御者が荒々しく手綱を引き、強引に馬を停止させた。
兵士は警戒を怠らずに一歩前へと踏み出し、馬車の窓を覆う遮光の幕を外すよう厳格に指示を下そうとした。
だが──その要求よりも早く、内側から窓の覆いが静かに開け放たれた。
中から一人の人物の顔が覗き、兵士たちの眼前に、ある「紋章」が黙って掲げられた。
歴史ある重厚な輝きを放つその意匠を目にした瞬間、詰問していた兵士の動きが、凍りついたようにピタリと止まった。
背後に控えていたもう一人の兵士も、同じように息を呑んで硬直する。
二人は信じられないものを見たという面持ちで、互いに顔を見合わせた。次の瞬間、その全身から一気に血の気が引いていく。
「──し、失礼いたしましたッ!!!」
兵士たちは、直立不動の姿勢で深く、深く頭を垂れた。
馬車の中の人物は、それに対して一言の言葉も発しなかった。ただ、感情の読めない冷徹な瞳で、静かに前方の闇路を見つめ続けている。
兵士の一人が、恐怖に震える手でもう一人に目配せで合図を送った。
大急ぎで兵らは左右へと整列し、その漆黒の馬車のために道が開け放たれた。
───
夜の静寂を完全に切り裂く、凄まじい雷鳴のごとき轟音が屋上に響き渡った。
ジェネルは、引き金が引かれた刹那の極限状態において、超人的な判断力で手元の鋼糸を限界まで束ね合わせていた。幾重にも絡み合い、分厚い層を成した金属の防壁が、至近距離から散弾の形で放たれた鉄の嵐の前に立ちはだかる。
金属と金属が超高速で衝突し、削り合う、耳を劈くほどの悍ましい破壊音が炸裂した。
放たれた散弾の大半は、ジェネルが瞬時に展開した鋼糸の束によって、辛うじてその軌道を強引に阻止された。
──だが、至近距離からの爆発的な「運動衝撃」までもを完全に相殺することは不可能であった。
「が、はっ……!?」
ジェネルの細い身体が、凄まじい衝撃波に圧されて後方へと派手に吹き飛んだ。背中から石造りの外壁へと激しく叩きつけられ、その衝撃のまま、壁を伝って冷たい石畳の通路へと力なくずり落ちる。
彼はしばらくの間、死んだように微動だにしなかった。
やがて──。
「……ふ、は……ッ」
喉の奥から、乾いた掠れた笑いが漏れ出た。
その端正な顔面には苦悶の脂汗がびっしりと光り、顔色は死人のように白く衰えている。それでもなお、彼の口元には歪んだ愉悦の笑みが、未だに貼り付いたままであった。
「……見事、でしたよ……」
掠れた声音であったが、その貴族としての気品ある輪郭は崩れてはいなかった。
「まさか、そのような飛び道具を、肌身に隠し持っていようとは。……参りましたよ。私の敗北です」
リーフィアは、暗闇に落ちていた自身の短剣を素早く拾い上げると、じりじりと容赦のない足取りで負傷した男へと詰め寄った。
「──観念するんだな、ジェネル。貴様には、吐き出してもらうべきことが山ほどある」
「……いやぁ。残念ですが、今日のところは、これにて退散させてもらいますよ」
ジェネルは激しく激痛に震える足を無理やり動かし、壁を支えにして、ふらつきながらも立ち上がった。
リーフィアが、その息の根を完全に止めるべく、さらなる一歩を踏み込もうとした。
「──リーフィア」
背後から、リデルの静かな制止の声が響いた。
リーフィアの足が、その絶対的な命によってピタリと停止する。
「ですがリデル様、この男を捕らえねば、暗殺を仕掛けた黒幕の正体が──」
「追わなくていい。その必要は、ない」
リデルが、冷徹に言い放った。
リーフィアが怪訝そうに振り返る。リデルは未だ、深い傷を負った身体で外壁に苦しげに手を突いていた。しかし、その双眸の光だけは、確かなる真実を完全に捉えて前方を見据えていた。
「……奴の口から聞くまでもなく、答えはもう、私の中で出ている。だから、捨て駒に過ぎない奴の追跡はもういい。……今から、その『真の黒幕』のところへ直接、挨拶に行くとしよう」
リデルは、リーフィアを真っ直ぐに見つめた。
「──すまないが、肩を貸してくれ」
リーフィアは、一歩でリデルの傍らへと詰め寄った。
「……御傷の具合は」
「動ける。……自力で歩行できる程度には、鎖帷子が衝撃を殺してくれた」
「今すぐ医官を呼びます!」
「後回しだ。……今を逃せば、奴の尻尾を完全に掴む機会を失う」
リーフィアは躊躇を捨て、リデルの細い腕を、自身の華奢な肩へと慎重に回した。リデルの体重が、微かな温もりと共に彼女の身体へと預けられる。
「……どこへ向かわれるのですか」
「この、リヴァイア侯爵邸の内部……最高級の客室だ」
視線を戻すと、ジェネルはすでに屋上の端の暗がりにまで達していた。あらかじめ用意していたのであろう、脱出用の隠し縄か何かに手をかけている。今から全速で追撃すれば、まだ捕縛できる可能性はあった。だが、主君たるリデルが「追うな」と明言した以上、彼女がその命令を違えることは二度となかった。
「行くぞ、リーフィア」
「──はい、御心のままに」
二人は、屋上の出口へ向かって静かに歩みを進め始めた。
先ほどまで狂おしく吹き荒れていた冷たい夜風は、いつの間にか、嘘のようにピタリと止んでいた。
───
広々とした客室の内部は、不自然なほどに明るく照らされていた。
室内の至る所に複数の高価な燭台が灯され、揺らめく光が、部屋の四隅の影を白日の下に晒すように隅々まで行き届いている。
公王レイ・ヴェーデルは、その贅沢な絨毯の上を、まるで檻に閉じ込められた獣のように激しく歩き回っていた。
右へ、左へ、行ったり来たりを繰り返す。不意に立ち止まっては爪を噛み、またすぐに落ち着きなく歩き出す。その神に愛されたかのように美しい顔には、今夜の絢爛たる宴席において、諸侯の貴族たちを魅了していたあの尊大で優雅な余裕は、影も形も存在しなかった。そこにあるのはただ、自身の恐ろしい破滅を予感して怯える、小動物のような惨めな動揺だけであった。
カチャリ、と──部屋の重厚な扉が、音を立てて外側から開かれた。
レイは弾かれたように振り返った。
何かを言いかけ、おそらくは自身が想定していた「誰か」への労いの言葉が、その喉元まで出かかっていた。
──だが、その言葉は、永遠に形を成すことはなかった。
レイの麗しき顔面から、一瞬にしてすべての血の気が失われ、漆黒の絶望へと白く染まっていく。
扉の先に立っていたのは、リデル・バートンであった。
リデルの顔は、確かに死人のように青ざめていた。身体を苛む猛毒の後遺症に加え、先ほどの鋼糸による失血が重なり、その容貌は普段の冷徹な落ち着きからは程遠いほどに憔悴している。護衛たるリーフィアの肩を借り、かろうじてその場に直立しているのが奇跡のような状態であった。
だが──その双眸に宿る「光」だけが、決定的に違っていた。
それは絶対的な勝利を確信した、強固な意思に満ち満ちていた。一寸の揺らぎも、躊躇の曇りもそこにはない。
「──このような、極めて見苦しいお姿での突然の夜間訪問、深くお詫び申し上げます、公王陛下」
リデルは、静かに、しかし冷酷にその薄い唇を開いた。
「どうしても、今すぐに陛下とお話しせねばならない『重大な急用』が発生いたしまして、こうして不躾ながら参上した次第です」
「き、急用……だと……?」
レイの声が、恐怖のあまり微かに裏返り、情けなく上擦った。
「はい。先ほど、私めが休むはずであった客室において、卑劣極まる賊による夜襲を受けました。……まあ、幸いなことに、私の優秀な部下の手によって、そのすべてを完全に撃退いたしましたが」
「……そ、そうか。それは……何とも、恐ろしい災難であったな……」
「ついては、その暗殺未遂の一件に関しまして、我が主君であられる陛下に、些か詳細をお聞きしたく参りました」
レイは、激しい動揺を隠すように何度も不自然に瞬きを繰り返した。
「何の話だ……我に、そのような裏社会の賊の件など、分かるはずがなかろう! 一体何のことを言っているのだ!」
「──お戯れを、陛下」
リデルの口元に、微かな笑みが浮かんだ。それは人間らしい感情が一切削ぎ落とされた、氷のように冷徹な嘲笑であった。
「なにゆえ、私めが今夜『休むはずであった部屋』に、あれほど手際よく暗殺者が招き入れられたのか、というお話をしておるのですよ。……ねえ、陛下?」
室内に、痛いほどの重苦しい沈黙がドロリと降り積もる。
「な……何を根拠にそのような無礼を働く! 証拠でもあるというのか! 確たる証拠もなしに、一国の公王に向かってそのような……不敬極まる妄言、断じて許される行為ではないぞ、非礼であろう!」
「証拠、でございますか」
リデルは、一歩も退かずに淡々と言葉を継続した。
「私が本日、宴を中途で退席し『休む』という事実。伝えたのは──この広大な邸宅の主であるグローヴ・リヴァイア卿と、陛下、お二人だけでございます」
「だ、だとしたら、なおさら前宰相であるグローヴの方が怪しいではないか! あ奴は新体制によって宰相の座を追われたのだぞ、お前に激しい怨恨を抱いているのは火を見るより明らかだ!」
「いいえ、陛下。グローヴ卿に対しては、私の部下を経由して『今夜は邸内ではなく、外の移動馬車の中で休む』という偽情報を伝えてありました。つまり──私が『邸内の客室で休む』という真実の情報を正確に把握していたのは、この場において陛下ただお一人だけ。……なのです」
レイの表情が、まるで喉元に鋭利な短剣を突き付けられたかのように、恐怖で強烈に歪んだ。しかし、リデルは容赦なく、静かにトドメの言葉を重ねていく。
「それに、グローヴ卿が私に対する身に覚えのない誤解を必死に解こうとする姿勢は、先ほど宴席の場で直接この目で確認いたしました。彼は私への反発を抱くと同時に、新体制の武力に対する確かな『怯え』を隠し持っていた。身に覚えのない暗殺の疑惑を、何とかして払拭したかったのでしょうね。……自ら刺客を放つ愚者が、あのような態度を取るはずがありません」
「……ッ」
「──ですが、陛下。貴方だけは決定的に違っていた」
レイの顔面が、恐怖のグラデーションを描いてさらに変色していく。
「初見の拝謁の時から、私は貴方の瞳の奥に、極めて明確な『個人的な敵意』を感じ取っていました。それだけではない。今夜、私が体調不良を理由に部屋へと戻るとお伝えしたその瞬間──陛下の美しいお顔に、隠しきれない『愉悦の歪み』が浮かびました。ほんの一瞬の、刹那の出来事でしたが……私のこの目は、確かにそれを捉えていましたよ」
「そ、それは……それは、お前の単なる邪推だ……!」
「これらはすべて、状況証拠に過ぎない、とおっしゃるおつもりかもしれません」
リデルは、リーフィアの肩に体重を預けながらも、レイの瞳を射抜くように真っ直ぐに見据えた。
「しかし──今、私の眼の前で醜く怯え、狼狽していらっしゃる『陛下のお顔』そのものが、何よりも雄弁に、すべての答えを出してくださっていますよ」
レイは、指一本動かすことすらできなかった。
いや、恐怖のあまりに動けなかったのだ。
この冷徹な年下の怪物に一度その双眸で見据えられてしまえば、どれほど足掻こうとも、決してその因果の網から逃れることはできない。その絶対的な敗北の事実を、彼の肉体が、理屈よりも先に理解してしまっていた。演劇界を統べるトップ俳優『スプレンドール』として培ってきた洗練された言葉も、公王としての虚飾の理屈も、今この冷酷な空間の前には、何一つとして意味をなさなかった。
やがて──。
レイの内側で、張っていた最後の糸が、音を立てて無残に崩壊した。
その至高の美貌が、見る影もなく醜悪に歪む。堰き止められていた狂気的な感情が、もう、自身の理性では一切制御できなくなっていた。
「……お前が、お前が悪いのだ……っ!」
紡ぎ出された声は、惨めに細く震えていた。
「お前が……お前という不要な存在さえ、この世にいなければ……!」
リデルは、その呪詛のような叫びを、ただ無表情に、黙って聞き流していた。
「我が国を蹂躙し、我と……あの偉大なるグランツ様との固き絆を……お前という余計な邪魔者が、強引に引き裂こうとしたからだ……っ!!」
その告白から溢れ出ていたのは、国家の行く末を憂う王の怒りなどでは断じてなかった。それは、一人の人間に向けられた、醜く狂おしい「嫉妬」に狂う者の、哀れな絶叫であった。政治的な大義名分などどこにもない。ただの、ドロドロとした劣情の塊であった。
レイの美しい瞳から、大粒の涙がボロボロと溢れ落ち、頬を濡らしていく。
彼は確かにヴェーデル公国の絶対君主であり、世のすべての人々を虜にする伝説のトップ俳優『スプレンドール』であった。だが、今、この閉ざされた部屋の灯火の下に晒されているのは──高貴なる仮面をすべて剥ぎ取られ、ただ一つの醜悪な劣情と嫉妬に支配された、哀れで未熟な、一人の人間に過ぎなかった。




