40話
リーフィアは、まさに弾丸のごとき速度で地を蹴り、猛烈に肉薄した。
ジェネルとの絶対間合いが完全にゼロとなる刹那、彼女の放った短剣の冷徹な切っ先は、男の心臓を正確に捉えていた。
しかし、無数の鋼糸が、まるで生き物のように蠢き束となってその一撃を迎撃した。
複数の金属糸が空中で複雑に絡み合い、瞬間的に強固な「防壁」へと硬化。それが短剣の鋭い軌道を真横から力任せに弾き飛ばしたのだ。キィィンと耳障りな金属同士が激しく噛み合う狂おしい音が響き、リーフィアの手首を強烈な衝撃が襲う。
リーフィアは即座に限界まで後退し、再び十分な戦闘距離を確保した。それとほぼ同時にジェネルもまた後方へと滑るように退く。一瞬の激しい交錯の直後、二人の間には再び数歩分の緊迫した空間が生成されていた。
「──速いな」
ジェネルが、ぽつりと呟く。それは純粋な感嘆ではなく、単に眼前の脅威の度合いを淡々と確認するような、無機質な声音であった。
リーフィアは痺れる手首の感覚を意識の外へと追いやり、短剣を鋭く構え直した。
そこからは、息を呑むような一進一退の攻防が継続した。
リーフィアが電撃的な一歩を踏み込めば、変幻自在の鋼糸が網の目となって彼女の前に立ち塞がる。対してジェネルが鋭利な鋼糸の嵐を放てば、リーフィアはそのすべてを短剣の腹で的確に弾き落とす。互いに決定的な一撃を欠いたまま、月明かりに照らされた屋上で、二人の影は激しく交錯し続けた。
「──一つ、聞かせてもらおう」
リーフィアは、寸時の呼吸の乱れも見せずに、動きを止めないまま鋭く問いかけた。
「一体、誰の指示を受けてリデル様を執拗に狙っている」
「さあねえ」
「答えろ!」
「……お生憎様ですが、それはお答えできませんよ」
ジェネルの口調は、これほどの死闘の最中にあっても、不気味なほど穏やかなままであった。
「いくら私が足を洗った身とはいえ、赤手組の守秘義務というものは、元構成員に対しても厳格に適用されますのでね」
「元、だと……?」
リーフィアの攻撃の軌道が、その不穏な単語を拾って微かに揺らいだ。
「どういう意味だ、それは」
「言葉通りの意味ですよ、リーフィア様」
ジェネルは、襲いかかる刃を紙一重でかわしながら、極細の鋼糸を一本、ゆっくりと指先に巻き取りつつ答えた。
「私が赤手組に籍を置いて暗殺に手を染めていたのは、まだ血気の盛んだった若き日の話です。当時は退屈な貴族社会に馴染めず、一種の刺激というものを求めていましてね。裏の世界にどっぷりと足を踏み入れ、しばらくはそれなりの仕事を熟していました。ですが、いよいよ実家の家督を正式に継承する時機が到来したため、綺麗さっぱりと闇から足を洗ったのです。それ以来、今日に至るまで、私は至って真っ当に『善良な貴族稼業』に勤しんできました。今では地方の慈善事業にまで熱心に関わっているくらいですよ」
「下衆め……! その薄汚い手を多くの血で汚しておきながら、よくも平然と善人面ができたものだ。結局は貴様のその腐りきった性根ゆえに、再び暗部の道へと舞い戻ってきたのだろう!」
「違いますよ、心外だな。少しばかり前に、赤手組のパハンから直々に連絡が入りましてね」
リーフィアの猛攻を受け流し、距離を取りつつ、ジェネルは厭そうに両肩を竦めてみせた。
「──『久しぶりに大がかりな仕事があるから、お前の力を貸してくれ』とね」
「自らが善人であると嘯くのであれば、その誘いを断れば済む話だろう」
「クク、断れるものなら、私だって今すぐにでも断りたかったですよ」
ジェネルの声に、今夜初めて、本物の歪んだ不満が色濃く滲み出た。
「あの組織はね、一度でも深く関わった人間を、そう簡単には手放してはくれない。若気の至りという代償は、後になってなかなか高くつくものでしてね。……正直に申し上げましょう。私は今夜、この血生臭い場にいたくなど毛頭なかった」
「……だから自分は被害者だと、そう主張するつもりか」
「主張するつもり、というか、客観的な事実として私は純然たる被害者なんですよ」
ジェネルは、自身の悪行に対する罪悪感など微塵も持ち合わせていない様子で、淡々と語った。
「好き好んで新宰相の暗殺計画に加担しているわけではない。過去の弱みを握られ、嫌々ながらも強制的に動かされている。これは紛れもない事実です」
「……呆れた男だ」
リーフィアは、軽蔑を込めて低く息を吐き出した。
「そのような身勝手な言い訳で、すべてが許されると思っているのか」
「思っていませんよ。ただ、事実は事実だと言っているのです」
ジェネルの指先で、回収された鋼糸が再び不穏な軌道を描いて駆動を始めた。
鋼糸の網が、再び空中に向かって凶悪に拡散していく。
「だがしかし、申し訳ないとは、本当に思っているのですよ。私はあなたのことが、決して嫌いではなかったのでね。……特に、そのお馬鹿で無鉄砲なところが」
───
「──馬鹿なところ、だと?」
リーフィアは、侮蔑の言葉を切り裂くように激しく踏み込みながら言い返した。
「何を根拠にそのような──」
「この期に及んで、まだご自身の主人の『真意』に気が付いていないのですか?」
ジェネルは、襲いかかる短剣を鋼糸で巧みに捌きながら、あざ笑うような声音でその残酷な事実を突きつけた。
「リデル・バートンという少年はね──あなたという存在を傷つけさせないために、あえてあの最も危険な場所から、あなたを遠ざけていたのですよ」
「……ッ!?」
「護衛の任を一方的に解任したのも、理不尽な謹慎を申し付けたのも、この重要な国内巡幸の布陣からあなたを完全に除外したのも……すべては、あなたを保護するためだ。あなたを戦場から遥か遠くの安全圏に置いておけば、我々刺客は、あなたを人質に取った『精神的な揺さぶり』を彼に対して仕掛けることができなくなる。……それなのに、あなたは主君のその深い配慮も知らず、自ら進んでこの死地へと飛び込んできた」
ジェネルは、三日月の下で冷酷に目を細めた。
「──主の不器用な意図を汲めぬ、不忠極まるおバカさんもいいところではないですか」
その言葉は、凶刃よりも深く、リーフィアの胸の深奥へと突き刺さった。
一瞬──ほんの、たった一瞬だけであった。彼女の強固な理性が、激しい動揺によって激しく揺らいでしまった。
しかし、生死を分ける極限の戦場において、その僅かな停滞は致命傷を生み出すに十分すぎる時間であった。
「──仕留めた」
ジェネルの指先が踊る。
複数の鋼糸が、リーフィアの完全な死角から逃れられぬ網となって収束していく。リーフィアの超常的な反射神経がそれに反応した時には、肉体を回避させるための物理的な猶予は、すでにどこにも残されてはいなかった。
──その、絶望の瞬間。
激しく交錯する二人の影の間に、信じられないほど小さな「影」が、弾かれたように飛び込んできた。
リデルであった。
彼は両腕を大きく広げ、盾となるようにリーフィアの身体の前に立ち塞がった。
研ぎ澄まされた鋼糸の群れが、無防備な彼の肉体へと容赦なく着弾する。
肉を断つ不気味な音と、金属同士が激しく衝突する激しい衝撃音が、夜の静寂に重なって炸裂した。
その凄まじい風圧と衝撃に耐えきれず、二人の身体はまとめて後方へと激しく吹き飛ばされる。狭い石造りの連絡通路を何度も転がり、背後にある頑強な外壁へと、背中から激しく激突した。
「──リデル様っ……!!」
リーフィアは、自身の肉体の痛みを完全に無視して立ち上がり、悲痛な叫び声を上げた。
リデルは、冷たい壁面に細い背中を預けたまま、浅く、静かに呼吸を繰り返していた。
「……安心しろ。無事だ」
掠れた、酷く苦しげな声音であった。だが、確かに声は出ていた。
「ですが、血が……血が溢れています……!」
リーフィアの視線の先、リデルの衣服の一部が、見る見るうちに禍々しい鮮血によって赤黒く滲み出していた。衣服の下に仕込んでいた鎖帷子の隙間を通り抜け、鋭利な鋼糸が彼の肉体を深く切り裂いた箇所があったのだ。その絶対的な凶器の威力を、すべて防ぎきることは叶わなかった。
「……事前に着用していた、特製の鎖帷子のおかげだ。辛うじて致命傷だけは避けている。……内臓の損傷はない、問題ない」
「問題大ありです……!! なぜ、なぜ私などのために、このような無茶な真似を……っ!」
「──リーフィア」
リデルが、その震える名前を、静かに呼んだ。
その一言で、リーフィアの激情の言葉がピタリと凍りついた。
「お前の、せいではない……」
彼の声音には、いかなる怒気も、彼女の不手際を責めるような色は微塵も混ざっていなかった。
「私が……私という人間が、ようやく手に入れた『大切な者』を再び失うことへの、かつてない恐怖に負けたのだ。だからこそ、独善的な理屈を取り繕い、お前を私の側から遠ざけようとした。……すべての判断を誤ったのは、私自身の未熟な落ち度だ」
「……リデル様」
「──だが、今夜ようやく理解できた」
リデルは壁を支えにしながら、痛みを抑え込み、ゆっくりとその場に立ち上がった。
「お前という護衛が私の傍らに居てくれなければ、私は自身の身の安全すら満足に守ることすらできない。……それが、今夜証明された厳然たる事実だ」
彼は、涙を浮かべるリーフィアの瞳を、真っ直ぐに見据えた。
「だから──これからも、私の傍らに居てくれ。そして、私の命をその剣で守ってくれ」
リーフィアは、しばらくの間、衝撃で身動きが取れなかった。
ジェネルから投げつけられた「お前を保護するために遠ざけた」という残酷な事実。そして、自分の未熟な動揺が隙を生み、結果として主君の肉体を傷つけてしまったという、騎士として取り返しのつかない猛烈な悔恨。
しかし──主君が今、自分に向けて放ったその言葉は、それら全ての暗雲を吹き飛ばすに十分すぎる「信頼の証」であった。
「──……はい!」
リーフィアは、力強く地を踏みしめて立ち上がった。
手にした短剣を、今一度、限界まで構え直す。
肉体の深奥から、これまで乱れていたすべての歯車が、完璧に噛み合って整っていく至高の感覚があった。胸の中にあった微かな迷いや戸惑いは、今この瞬間を以て、完全に霧散していた。
リーフィアは、油断なくこちらを観察しているジェネルに向き直った。
そして──一瞬の躊躇もなく、地を爆破するように踏み込んだ。
先ほどの猛攻とは、その「質」が根本から異なっていた。一切の迷いがない、極限まで無駄を削ぎ落とした鋭利な踏み込み。一つ一つの体動が、ジェネルを確実に屠るという明確な殺意の意志を持って駆動していた。
ジェネルの放った鋼糸の群れが、それを迎え撃つ。
一本目、二本目──リーフィアはそれらを紙一重の見切りで弾き飛ばす。そして、三本目の絶望的な追撃が彼女の肉体に到達するよりも早く、爆発的な推進力で間合いを強引に詰め、男の懐の最深部へと完全に侵入した。
ジェネルの端正な顔面に、今夜初めて、本物の戦慄と緊張が走った。
──だが、戦闘単位としての決定的な「地力の差」は、未だ厳然として存在していた。
「──甘いっ!」
ジェネルは咄嗟にすべての鋼糸を一本の太い束へと収束させ、リーフィアが突き出した短剣の側面を、力任せに真横へと弾き飛ばした。
キィィィンという甲高い金属音が夜空に響き渡り、主を失った短剣が、月明かりの下で綺麗な弧を描きながら遥か地へと落下していく。
「これで、完全に終わりです」
ジェネルが、勝利を確信した冷酷な声を上げた。
回収された鋼糸の切っ先が、武器を失って無防備となったリーフィアの細い首筋を刈り取るべく、狂暴な速度で殺到する。
「──いいえ」
リーフィアは、武器を失ったはずの右手を、堂々と正面へと掲げてみせた。
「終わりなのは──貴方よ」
その白皙の手の平の中には、いつの間にか、無骨な黒鉄の短銃が握られていた。
先ほど壁際でリデルと短い会話を交わし、身を寄せ合ったあの僅かな一瞬の死角を利用して、主君から密かに手渡されていた「隠し玉」であった。
銃口はすでに、ジェネルの剥き出しの腹部へと、完全に固定されている。
距離は、文字通りのゼロ距離。
リーフィアは、一寸の躊躇もなく引き金を引いた。
鼓膜を破らんばかりの凄まじい爆音が、夜の静寂に包まれた屋上へと盛大に炸裂した。
フリンテを応用して作られたその極小の銃口から、無数の殺傷用散弾が、避ける術のない至近距離からジェネルの肉体に向けて、容赦なく撃ち放たれた。




