39話
四つの影が、静まり返った回廊を音もなく進んでいた。
その歩みには、一切の足音も、衣服が擦れ合う微かな風切り音すらも存在しない。呼吸の周期までをも完璧に同調させたその挙動は、徹底的な殺人訓練を積んだプロフェッショナル特有の不気味さを放っていた。
先頭に立つ小柄な刺客が、あらかじめ複製していた鍵を鍵穴へと差し込み、音もなくターゲットがいる部屋の扉を解錠する。
滑り込んだ室内の奥は、静謐な闇に包まれていた。卓上の小さな燭台に灯る一本の蝋燭だけが心細そうに揺らめき、その淡い光の先に、豪奢な寝台のシルエットを浮かび上がらせている。毛布に包まれた肉体が、静かに横たわって呼吸を刻んでいた。
四人の刺客は、まるで床に吸い付くような足取りで寝台へと肉薄する。
先頭の男が、逆手に握った凶刃を月明かりの下で冷酷に掲げた。
──そして、容赦なく振り下ろした。
「──遅い」
凍てつくような静かな声音が、暗闇の空間に鋭く響き渡った。
肉を断つはずの刃が、生々しい手応えの手前でピタリと停止した。
正確には、物理的に受け止められていたのだ。寝台の上で眠っていたはずの人影が、一瞬の澱みもなく毛布を跳ね除け、振り下ろされた白刃の側面を己の武器で完璧に阻んでいた。
「……ッ!?」
ミナ・リヴィルが、愛刀たるグラディアの重厚な刀身を構え、寝台の中から刺客を冷厳に見下ろしていた。
不意を突かれた四人の刺客は、本能的な危機感からほぼ同時に後方へと大きく跳躍した。しかし、その中の一人が即座に体勢を立て直し、側面からミナの隙を突こうと猛烈に踏み込む。
ミナは振り返る動作すら挟まなかった。突き出される刃を僅かな身のこなしでかわすと、後ろ手でグラディアの重厚な剣柄を繰り出し、男の鳩尾へと正確無比に叩き込んだ。
強烈な衝撃音が響き、肺の空気を強制排出された男の身体が、壁面へと激しく叩きつけられて意識を失う。
形勢不利と悟った残りの刺客が、脱出すべく一斉に出口の扉へと身を翻した。
──しかし、その重厚な扉は、すでに内側から固く閉ざされていた。
「やあ、お揃いで。夜更かしが過ぎるんじゃないかい?」
いつの間にそこにいたのか、ジャックが漆黒の外套を夜風にたなびかせながら、扉の枠に気怠げに肩をもたせかけて立っていた。
「なんだか、酷い既視感を覚える光景だな。……昔の俺も、こいつらみたいに間抜けな面を晒して突っ立っていたのかねぇ」
退路を完全に断たれた二人の刺客が、狂乱のままに剣を構え直す。
「おっと、そう急ぎなさんな。せっかくの素晴らしい夜なんだ、もう少しゆっくりしていこうや」
ジャックは、眼前の刺客たちを左右の瞳で交互に値踏みした。
その口調こそ普段通りの軽薄さを装っていたが、その双眸の奥底にある光は、一切笑っていなかった。
「……一つだけ、お前たちに聞いておきたいことがあってさ」
彼は一歩、また一歩と、獲物を追い詰める肉食獣の足取りで距離を詰める。
「このリヴァイア侯爵邸の周囲はね、ネズミ一匹の侵入すら許さないよう、俺たちの直属の兵で厳重極まる警備網を敷いているはずなんだよ。──一体、誰の『手引き』があれば、お前らみたいな三流の暗殺者がここまで綺麗に潜り込めたんだ?」
二人の刺客は、沈黙を保ったまま油断なく切っ先を突き出し続ける。
「あれ? 聞こえなかったかい? それとも、雇用主の名前を吐くのが怖くて答えたくないのかな?」
ジャックの細い右手が、ゆっくりと外套の内側、暗器の仕込まれた懐へと滑り込んでいく。
「まあ、どちらでも構わないさ。一人だけでも、生きたまま捕獲できれば──残りの指をへし折りながら、後でいくらでもじっくり聞き出せるからな」
───
同じ頃、リデルはリヴァイア侯爵邸の屋上に佇んでいた。
地上からの喧騒は遮断され、吹き付ける夜風だけが、容赦なく彼の細い身体を冷たく叩いていた。
「──こんな場所にいらっしゃいましたか。随分と探しましたよ」
背後の暗闇から、足音もなく滑らかな声音が響いた。
ジェネル男爵であった。
リデルは、眼下に広がる広大な公国の夜景から視線を外すことなく、振り返りもせずに冷淡に言葉を返した。
「何の用だ」
「少しばかり、二人きりで建設的なお話がしたかっただけですよ」
ジェネルは音もなくリデルの隣へと並び立ち、同じように夜の闇を見つめた。
「……他でもありません。リーフィア様のことです」
「その名前は、その口から聞きたくない」
「おや、手厳しい。では、極めて短く簡潔に済ませましょう。今回の国内巡幸に、彼女を私の公式なパートナー役として勧誘したのは、他ならぬこの私です。彼女は最初、あなたへの忠義を理由に、あまり乗り気ではありませんでした」
リデルは、その告白に対しても沈黙を維持した。
「それでも彼女は、自身の頭で熟考し、最終的には自分の意志で随行を決断した。……あなたも、彼女のそういう自立した在り方を肯定されるのでしょう?」
「──そうだ」
「クク、本当に不器用な御方だ。その若さで宰相の座に君臨されている割には、意外と……ウブなところがある」
「……何だと?」
ジェネルの唇が、愉悦を含んで小さく歪んだ。
そして──その歪な笑みが、その端正な顔立ちから完全に消え去るよりも早く。
劇的に、周囲の空気が「殺意」へと変質した。
リデルがその異変を察知したのは、五感を超越した生命の危機感であった。視覚的な捉えではない。彼の全身の皮膚が、空間の密度の急激な変化を、脳よりも先に拾い上げたのだ。
ジェネルの右手の指先が、視認不可能な速度で微動していた。
冷たい月明かりを反射して、夜の虚空に一筋の、極細の「光の線」が走る。
──【鋼糸】。
それは闇夜に溶け込む、見えない処刑刃であった。人間の髪の毛ほどに研ぎ澄まされたその極細の金属糸は、夜霧の中においては光の反射を捉えぬ限り、肉眼での視認は絶対に不可能。一度ターゲットの頸部に巻き付き、指先ひとつで絞り上げれば、人間の肉も骨も一瞬でバターのように滑らかに断ち切る絶対の凶器。
その死の刃が、リデルの無防備な首筋を刈り取るべく、狂暴な速度で殺到した。
しかし──次の刹那、暗闇の死角から「第三の影」が猛烈な速度で割り込んだ。
激しい金属摩擦音と共に、夜の空間に鮮烈な火花が飛び散る。
鋭く突き出された一本の短剣が、リデルの頸皮一枚手前で、ジェネルの放った鋼糸の軌道を強引に叩き落としていた。
リーフィアが、猫のような俊敏さで着地した。纏った外套の裾が、着地の凄まじい風圧によって夜風の中に激しく舞い上がる。
彼女は愛用の短剣を順手に構えたまま、ジェネルの射線からリデルを完全に庇うようにして、二人の間に鉄壁の盾として立ちはだかった。
「……リーフィア」
リデルが、その背中に向けて低く声をかける。
「──リデル様は、そのまま後ろに下がっていてください」
リーフィアは敵から一切の視線を外すことなく、冷徹に言い放った。
ジェネルは、弾かれた鋼糸を滑らかな所作で指先へと回収しながら、その完璧な笑みを崩すことすらしなかった。
「──これは、また」
しかし、その唇に浮かんだ笑みは、今夜初めて、彼の内面にある本物の「歪んだ狂気」を帯びていた。
「なかなか、一筋縄ではいかないものですねぇ。……一体いつから、私の正体を疑っていらしたのですか?」
ジェネルは、鋼糸を右手の指先でゆっくりと巻き取りながら、心底楽しそうに、興味深げな口調で尋ねた。
「──公都の宰相府で催された、あの歓迎会の初夜の時点からだ」
リーフィアは短剣の切っ先をジェネルの眉間へと固定したまま、氷のような声音で告げた。
「貴様の纏うその上質な衣服の奥から漂う『血の匂い』が、貴族にしてはあまりにも濃すぎた」
「はて?」
ジェネルはおどけたように大袈裟な仕草で自身の袖口を持ち上げ、くんくんと鼻を鳴らした。
「湯を浴びる時、気をつけているんですがね。それほど気になるような匂いが残っていましたか?」
「──戯言を」
リーフィアの双眸は、ジェネルの微細な挙動の一ミリたりとも見逃すまいと、鋭く据え置かれている。
「名門の男爵ともあろう者が、あの歓迎会の初日に、面識もない私の前にわざわざ姿を現して声をかけた。甘い言葉で気分転換を勧め、主君への不満を煽るように『嫉妬』の話題を口に仕込んできた。……大方、新宰相の最も近くにいる私を籠絡し、リデル様に接近するための都合の良い足がかりとして利用する算段だったのだろう?」
「おや、それは心外な誤解だ」
ジェネルは、悲しげに柔らかく首を振ってみせた。
「私があなたに声をかけたのは、あの夜の社交界において、あなたの存在が本当に……誰よりも魅惑的に映ったからですよ。こればかりは、神に誓って嘘偽りのない本心だ」
「……」
「特に、だ──」
不意に、ジェネルの声音の質が、根本から変質した。
紳士的な穏やかさは表面上保たれているものの、その声の深奥に、粘り気のある悍ましい「異物」が混入する。
「──互いに不器用な情愛を一方的に与え合い、受け取り合う。その健気で美しい人間の姿が、私は堪らなく愛おしい。……だからこそ、その築き上げてきた美しい絆を、この私の手で無残に粉々に破壊する『この瞬間』が、待ち遠しくて仕方がなかったのですよ」
その狂気のセリフが結ばれるよりも早く、ジェネルの肉体が爆発的に駆動した。
月光を切り裂き、鋼糸が空中へ扇形に激しく拡散する。放たれたのは、一本や二本などという生易しい数ではない。夜の冷気をも切り裂く複数の鋭利な鉄線が、不可視の凶器の網となって、リーフィアの全方位を肉塊に変えるべく殺到した。
闇夜においては目視することすら不可能な、変幻自在にして必殺の「複撃」。
しかし、リーフィアの超常的な戦術眼と戦闘本能は、その不可視の死線を完璧に知覚していた。彼女は極限まで身を低く沈めると、弾かれたように右側へと跳躍する。
猛烈な速度で迫る一本目の糸を紙一重の体動でかわし、二本目の糸を短剣の腹で完璧に弾き飛ばす。だが、時間差で襲いかかった三本目の鋼糸が、彼女の纏っていた外套の裾を僅かに掠めた。最上質の布地が、抵抗もなく音もなく切り裂かれ、夜風に散る。
しかし、彼女はその程度の微傷には目もくれず、着地の勢いのまま爆発的な踏み込みを敢行した。一瞬にしてジェネルとの絶対間合いをゼロへと詰め、その剥き出しの心臓めがけて、必殺の短剣を一直線に突き立てた。




