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38話

リヴァイア侯爵家が催した宴席は、これまでの巡幸路で立ち寄ったいかなる領主の邸宅よりも、文字通り「格」が違っていた。

天井は天高く聳え、壁面には息を呑むほど精緻な彫刻が施されている。お抱え楽師の編成も桁違いに大きく、卓上に並ぶ食器は眩いばかりに磨き上げられた純銀製であった。供される料理の品数と至高の質は、公都の宰相府直属の厨房のそれらと比較しても何ら引けを取らない。ヴェーデル公国随一の名門門閥と呼ばれるだけのことはあった。

出席した貴族たちは、披露される見事な演目を愉しみ、極上の料理に舌鼓を打ちながら、和やかに互いの杯を交わし合っている。

リデルは、今夜に限っては宴の始まりからその場に身を置いていた。

これまでの巡幸路においては、削られた体力を極力温存するために宴の中盤から合流することが多かった。だが、今夜は勝手が違う。宿敵とも目されるグローヴ・リヴァイア侯爵の牙城なのだ。開幕から場に立ち会い、主催者側の家臣らと親交を結びつつ、歓楽の裏に潜む空気の機微を読み解く必要があった。

リヴァイア家に仕える若き家臣たちとの談笑を如才なくこなし、当主の正妻と思しき貴婦人への挨拶を済ませ、形式的に料理を少量だけ口に運ぶ。毒の残滓による不快な脂汗は今夜も執拗に彼の背中を濡らし続けていたが、それを微塵も表情の表層に表すことはなかった。

 

「──お初にお目にかかります、若き秀才なる宰相閣下」

 

背後から、低く重厚な声がかけられた。

振り返った瞬間、リデルはその男の正体を即座に確信した。

大柄であった。六尺を悠に超えるであろう巨躯に、強靭な肉体を思わせる厚みのある肩幅。年齢は五十前後と見受けられるが、武人としての全盛期から衰えた様子は微塵もない。猛禽を思わせる鋭い眼光を宿しながらも、その口元には大貴族特有の余裕に満ちた笑みを湛えている。事前にコールの資料で精査した肖像画と、寸分違わぬ容貌であった。

 

「──ご挨拶が遅れましたことを、深くお詫び申し上げます」

 

リデルは完璧に計算された社交用の笑みを浮かべ、あえて自分から先に恭しく頭を下げた。

 

「本来であれば、侯爵が席に着かれると同時に拝謁すべきでしたが、諸侯の皆様方との歓談に、不覚にも夢中になってしまいまして」

 

「いやいや、滅相もない。どうぞお気になさるな」

 

グローヴ・リヴァイアは豪快に片手を振ってそれを受け流した。

 

「そのような凝り固まった形式美よりも、若人だからこそ、人との新たな縁をこそ大切にすべきだ。それにしても……新宰相閣下の実際の年齢を耳にした時は、さすがのこの私も肝を冷やすほどに驚かされましたがね」

 

「身に余るお言葉、恐縮の至りです」

 

「いや、本心ですよ。確かな実績が示されているのであれば、年齢の多寡など些末な問題だ。それこそが、長年国政に携わってきた私の確固たる持論ですのでね」

 

二人は言葉を途切れさせぬまま、自然な動作で並び立ち、賑わう宴席を俯瞰する格好となった。グローヴは手元の器から料理を一つ摘み上げながら、ごく他愛のない世間話でもするかのような口調で切り出した。

 

「しかし、閣下も着任早々から手痛い災難に見舞われましたな。例の宰相府の庭園で起きた不穏な一件は、すでに公国の隅々にまで噂として広がっておりますよ」

 

「ご心配をおかけし、恐縮です。お恥ずかしい姿をお見せしました」

 

「それで──その不届きな暗殺者どもの素性や正体は、すでに判明したのですかな?」

 

実にあざやかであった。会話の滑らかな流れに完璧に沿った、これ以上なく自然な問いかけ。

リデルは、手にした杯を優雅に口元へと運びながら、淡々と答えた。

 

「ええ。幸いなことに、大方の目星はついております」

 

「……ほう」

 

グローヴの喉の奥から、低く地を這うような唸りが漏れた。

その、僅か一音のみであった。侯爵はそれ以上の詮索も追及も、綺麗にピタリと止めてみせた。

この一瞬の交錯における相手の目線の動揺、声の高低の揺らぎ、僅かな息遣いの変化──そして、前世の修羅場で培ってきた長年の卓越した人物鑑識眼。リデルは、この僅か数言の問答のみを以て、グローヴ・リヴァイアという怪物の評価を脳内で完全に確定させた。

 

「──宰相閣下」グローヴは周囲に聞こえぬよう、一段と声音を低く落とした。


「この宴が果てた後、少しばかり個人的にお耳に入れたい儀がございましてね。……他者を交えず、二人きりで、だ」

 

リデルは、その挑発的な提案に対しても、鉄の仮面のような表情を一切崩さなかった。

 

「元前宰相閣下からの直々のお誘い、光栄に存じます。ぜひとも拝聴いたしましょう」

 

「では、宴の熱が一段落ついた頃合いに、奥の書斎にて」

 

「かしこまりました。お待ちしております」

 

グローヴは満足げに深く頷くと、それ以上の長居をせず、別の貴族たちの輪へと向かって悠然と去っていった。

リデルはその重厚な後ろ姿を静かに見送りながら、脳内の盤面で次なる一手を瞬時に算出した。


リデルは、何気ない所作を装って華やかな宴席の全体を静かに見渡した。ある人物を捜索すべく、色彩豊かな群衆の中へと視線を滑らせていく。

──その、刹那であった。

この場に存在するはずのない、まったく想定の枠外にあった「顔」が、彼の視界の特等席に飛び込んできた。

リデルの冷徹な両眸が、一瞬だけ驚きの色に染まる。

ジェネル男爵が、宴席の中ほどで優雅に杯を傾けていた。

そして──そのすぐ隣に、一人の美しい女性が寄り添うようにして直立していた。

見紛うはずのない、艶やかな栗色の髪。凛と背筋の伸びた、あまりにも見慣れた立ち姿。

……リーフィアであった。

これほど完璧に「意表を突かれた」という感覚を味わったのは、前世を含めても実に久方ぶりのことであった。そして次の瞬間、理性の堤防を強引に決壊させるような、烈しい荒波のごとき感情が彼の内側で猛烈に渦巻いた。


「──リーフィア」

 

リデルは、己の思考が客観的な判断を下すよりも早く、その名前を鋭く口にしていた。

理性の論理よりも、衝動的な感情が先に肉体を動かしたのだ。徹底的な合理主義を貫く普段の彼からすれば、到底あり得ない順序であった。

声をかけられたリーフィアが、ハッとして振り返った。その端正な顔立ちに、一瞬だけ隠しきれない驚愕の色が走る。

 

「……リデル、様」

 

「お前は現在、謹慎処分を申し渡されているはずだ。なぜ、このような場所に平然と姿を現している」

 

紡ぎ出された声は、彼自身が意図していたよりも遥かに低く、威圧的な響きを帯びて強くなってしまった。その刺すような空気の異変を察知し、周囲にいた数名の貴族たちが、怪訝そうな面持ちで一斉にこちらへと視線を向けた。

リーフィアは、周囲から注がれる好奇の視線を肌で意識しながらも、その毅然とした表情を微塵も揺らがせることはなかった。

 

「ジェネル男爵閣下の公式なパートナー役として、今回の巡幸に随行しております。なお、宰相府への必要な事前報告と手続きは、抜かりなく全て済ませてあります」

 

「事前に報告、だと──?」

 

リデルは、怒気を孕んだ視線のまま反射的に背後を振り返った。そこには、常に影のように控えているコールの姿があった。

コールは主君と目が合った瞬間、ひどく申し訳なさそうな、しかし「確かにその通りの書類を受け取っております」と言わんばかりに、小さく、深く首を縦に振った。

リデルは、思考を一拍だけ停止させた。

 

(……まさか。また、私の聞き落としか)

 

全ては、肉体を蝕むあの猛毒の後遺症のせいであった。深刻な体調不良が続く劣悪なコンディションの中、日中は過酷な親善訪問をこなし、夜間は膨大な書類仕事を不眠不休で並行させてきた結果、処理能力の限界を超え、微細な報告の聞き漏らしが頻発していたのだ。脳内では完璧に状況を掌握しているつもりであっても、肉体的な機能低下のせいで、どこか致命的な隙間から情報が抜け落ちてしまう。今回の一件も、まさにその機能不全が招いた結果に他ならなかった。

他者に対してはどこまでも冷酷な評価を下す反面、人間という生物の肉体構造である以上、どれほど優れた英知があろうとも絶対に逃れることのできない「限界」が存在する──その事実を誰よりも冷徹に信じ、受け入れている彼らしい、速やかなる現状分析であった。

 

「──ならば、その随行許可を、今この瞬間を以て正式に取り消す」

 

リデルは周囲の耳目を意識し、極力声を低く抑え込みながらも、絶対的な拒絶を込めて言い放った。

 

「衣服をまとめ、今すぐ王都の宰相府へと引き返せ」

 

「──お断りいたします」

 

リーフィアは、一寸の躊躇すら挟まなかった。

凛とした、実にはっきりとした声音であった。決して感情に任せて激昂しているわけではない。しかし、その根底には何があろうとも退かないという、強固で揺るぎない意思が宿っていた。

 

「私はすでに、ジェネル様と正式な約束を交わしております。主君の気まぐれを理由に、旅の途中でそれを一方的に反故にすることは、私個人としての誠意に関わります。それに……私はリデル様から『公都ヴェーデルを一歩も出るな』とは一言も言われておりません」

 

「見事な詭弁だな」

 

「いいえ、厳然たる事実です」

 

リデルは、その傲慢な態度を即座に論破すべく反論を試みようとした。罵りの言葉を紡ぐために、その唇が開きかける。

──しかし、その刹那、彼はリーフィアの口元の「不自然な動き」を視線で捉えた。

彼女の唇は、周囲に聞こえるように発せられている毅然とした言葉の裏で、かすかに、全く別の意味を持つ形を音もなく紡ぎ出していたのだ。


リデルはその唇が示す隠された真意に瞬時に気が付き、辛うじて喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。

 

「失礼、リデル殿」

 

ジェネル男爵が、まるで割って入る絶好の機会を窺っていたかのような絶妙なタイミングで、二人の間に穏やかな微笑みを湛えて介入してきた。

 

「夜も随分と更けてまいりました。せっかくの高貴なるリヴァイア家が催した宴席の場なのです。お互いに棘を立てる合戦は止めて、今夜のところは純粋にこの歓楽を楽しまれてはいかがですか? 込み入った大人の事情に関する話し合いは、また日を改めた別の機会にでも」

 

その提案は、決して主従の口論を必死に仲裁しようとする焦りによるものではなく、単に眼前の客観的な事実を淡々と列挙するような、不気味なほど落ち着いた口調であった。

リデルは、その底の知れないジェネルの笑顔を冷徹に一瞥した。それから、無言でこちらを見つめ返すリーフィアの瞳を見つめる。

 

「……フン、いいだろう。今夜のところは、な」

 

それだけを吐き捨てるように告げると、彼はそれ以上の長居を嫌うように、鮮やかに踵を返した。

華やかな貴族たちの人混みから十分に離れた暗がりの一角へ至り、リデルは深く、静かに息を整えた。脳内を掻き乱していた一時的な激情は去り、いつもの凍てつくような冷静さがその領域へと完全に帰還していた。

リデルは、再び賑わう宴席の全体を静かに見渡した。今度は、主君たる公王レイ・ヴェーデルの姿を捜索する。

その極彩色の存在は、広い会場のなかでもすぐに見つかった。大編成の楽師たちが陣取る特等席の近くで、何やら舞台上の演目を心底楽しそうに眺めている。相変わらず周囲の目を惹きつけて止まない圧倒的な華やかさであったが、今夜の状況に限っては、その目立つ特性が大いに利用できた。

リデルは、周囲の有象無象に不審を抱かれぬよう、流れるような足取りでさりげなくその背後へと近づいた。

公王のすぐ隣に自然な動作で並び立ち、目線は前方の舞台へと向けたまま、他者に聞き取れぬよう極限まで声音を落として囁いた。

 

「──レイ公王陛下。些か体調が優れません。周囲の連中に余計な詮索をされぬよう、人目に付かない経路から、先に用意された客室へと下がらせていただきます」

 

レイが、舞台に向けていた顔を動かさず、横目だけでリデルの横顔を一瞥した。

 

「おや、そうなの? 大丈夫かい?」

 

「大したことはありません。想定の範囲内です」

 

「グローヴ侯爵には、ちゃんとその旨を伝えてあるのかい?」

 

「無論です。先ほど直々にご挨拶を済ませた際、あらかじめ体調の件も含めて申し伝えてあります」

 

「そっかぁ。じゃあ、無理をせずゆっくりお休みよ」

 

レイはそれ以上の野暮な追及をせず、いつも通りの軽い調子で首を振った。

 

「──では、失礼いたします」

 

リデルは音もなく一礼すると、静かに、そして気配を消すように宴席の喧騒から離脱した。

冷涼な空気の満ちる長い回廊へと出ると、案内された客室の方へと歩みを進めながら、今日これまでに得られたすべての情報を頭の中で冷酷に整理・構築し直していった。

 

(──盤面の手筈はすべて整った)

 

あとは──暗闇の向こうから、一体「何」がこちらに向かって牙を剥きにやって来るのかを、ただ静かに待つだけであった。

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