37話
宰相府の厳重な警戒区域から数街区ほど離れた場所に、その小ぢんまりとした珈琲店はひっそりと佇んでいた。
表通りから一本奥まった静閑な路地に面しており、物見高き観光客よりも、近隣に住まう地元の常連客が静かに時を消費するための空間であった。限られた数の席が並ぶ小綺麗な店内で、窓際の円卓からは、陽光に鈍く光る石畳の通りが一望できた。
リーフィアは、その窓際の特等席に腰を下ろしていた。
温かい陶器のカップを、まるで体温を確かめるように両手で包み込み、窓の外を行き交う多様な人々を所在なげに眺める。だが、その瞳は何かを映しているようで、その実、何も捉えてはいなかった。彼女の意識は未だ、あの主君から冷徹に告げられた「解任」の二文字に囚われたままであった。
「──お休みですか」
不意に、頭上から穏やかな声音が降ってきた。
リーフィアがハッと我に返って振り返ると、そこには端正な容姿に仕立ての良い上着を纏った男が立っていた。
「……ジェネル様」
「奇遇ですね。あなたもこの店にはよく足を運ばれるのですか?」
「いいえ、初めてです。……ただ、少し落ち着きたくて」
「お一人で?」
「はい」
ジェネルはリーフィアの正面にある空席へと、視線を緩やかに落とした。
「同席しても構わないだろうか?」
リーフィアはほんの一瞬だけ躊躇の素振りを見せたが、やがて小さく顎を引いて肯定を示した。
ジェネルは優雅な所作で椅子を引き、腰を下ろすと、通りかかった給仕を片手で呼び止めて彼女と同じ銘柄の珈琲を注文した。
「それにしても、お休みとは珍しい。お忙しい身分のはずでは?」
「……現在は、謹慎処分を受けております」
「謹慎、ですか?」
「はい」
リーフィアは、自身の爪先に視線を落としたまま、声を低くして答えた。
「一体、何があったのですか。あなたほどの優秀な方が」
「ただ──」
リーフィアは言葉を濁し、痛みを堪えるように少しだけ間を置いた。
「──私が、あの方の期待に応えられなくなった。それだけのことです」
その言葉は、極めて簡潔であった。しかし、その短い一言の内部には、彼女が胸の奥底で噛み締めていた無力感と悔恨が、濃密に凝縮されていた。
「ジェネル様。以前、あなたの仰っていた通りになりました」
「私の言っていた通り、とは?」
「リデル様の歓迎の宴の夜です。あなたが私に向けて、『嫉妬しているように見える』と指摘されたでしょう」
「ああ、あの時の……」
「あの言葉は、決して的外れではなかったようです。今では自分でも、本当にその通りだったと痛感しています」
ジェネルは、注文した珈琲が運ばれてくるまでの間、一切の追及をせずに沈黙を守った。
やがて給仕が去り、室内に再び静寂が戻るのを待ってから、静かに口を開いた。
「それで、具体的にどのような謹職を?」
「公王閣下の護衛任務から、完全に外されました。理由は、護衛としての職務を全うできなかったから、と」
「それは……先日、宰相府の庭園で発生したという、あの襲撃事件の件ですね」
リーフィアの細い眉が、わずかに鋭さを帯びて跳ね上がった。
「その件を、もうご存知なのですか」
「ええ。公都の裏社会や貴族たちの間では、すでにそれなりの噂として広まっていますよ。着任早々の新宰相が暗殺未遂に遭い、にもかかわらず、その翌朝には何食わぬ顔で初の朝議を完璧に仕切ってみせた、という常人では理解不能な武勇伝として」
「そうですか……」
「それが、あなたを解任する直接の理由となったわけですか」
「本人の口から、直接そう告げられました」
ジェネルは珈琲を上品に口へと運んだ。何かを精査するように微かに目を細め、一拍の思案を挟んでから、言葉を継続した。
「……となると、近々予定されている国内巡幸の旅に関しても?」
「不参加です」
リーフィアは即座に答えた。
今度は一寸の間も置かなかった。すでに自身の脳内で幾度となく反芻し、強制的に受け入れさせられた残酷な事実だったからであろう。
ジェネルは、しばらくの間、目の前の憔悴した少女の様子を観察していた。
窓の外の石畳を、無邪気な子供たちが笑い声を上げて走り抜けていく。
「──リーフィア様。一つ、私からの個人的な提案があるのですが」
ジェネルが、声音のトーンを僅かに変えて切り出した。
「何でしょうか」
「今度の国内巡幸の旅に、私のフォーマルな『パートナー役』として、同行していただけないでしょうか」
リーフィアは、ここで初めてジェネルの顔を真正面から凝視した。
「……パートナー、ですか?」
「ええ。私は今回の巡幸において、直属騎兵隊の隊長として大隊を率いる立場にあります。各地の有力貴族を訪問する旅は、表向きには『親善』という名の社交の体裁を取っている。当然、行く先々で盛大な夜会や公式の会食が催されることになるでしょう。そのような華やかな席において、隊長である私が伴侶の一人も連れずに単身で出席するのは、少々決まりが悪くてですね。あくまでも一時的な、社交界における役割分担に過ぎません。それ以上の他意や意味はありませんよ」
ジェネルは、どこまでも穏やかで害のない口調を崩さずに言葉を重ねた。
「あなたは宰相府の重鎮に重用されてきた、極めて礼儀正しく優秀な御方だ。社交の場における作法や振る舞いに関しても、申し分ないはず。……もし、現在の謹慎という退屈な日々に嫌気がさしているのなら、気晴らしを兼ねて助けてはいただけないだろうか、という不躾なお願いです」
リーフィアは、冷めかけたカップを見つめた。
今更、巡幸の行列に加わったところで、何の意味もない。自分は公式に謹慎を言い渡された身だ。リデルから投げつけられたあの氷のような言葉が、今も胸の深奥に鋭く突き刺さったまま抜けない。
だが──。
このまま宰相府の片隅に閉じこもり、ただ無為に時間を浪費することが、一体いまの自分に何をもたらすというのか。ジェネルの指摘通り、自分が醜い「嫉妬」の感情に振り回されていただけだったのだとすれば、この暗い部屋に留まり続けることは、その敗北を完全に認めることに他ならない。
「……少しだけ、考えさせてください」
リーフィアは、絞り出すように言った。
ジェネルは、決して結論を急かすような真似はしなかった。
「もちろんです。良い返事を期待して待っていますよ」
しばらくの間、二人は言葉を交わすことなく、並んで窓の外の景色を眺めていた。
石畳の通りを、今度は重苦しい音を立てて荷馬車が通過していく。
「──承知いたしました」
リーフィアが、静かに、しかし明確な決意を込めて告げた。
「ただし、条件があります」
「何でしょう」
「あくまで社交上の、一時的な役割を演じるだけです。それ以外の個人的な要求には、一切応じられません」
「当然です。紳士として約束しましょう」
「それと、今回の同行に関する宰相府への公式な報告は、すべて私自身の名義で行います。あの方に、私が裏で勝手に不穏な動きをしているなどと、余計な誤解を招きたくはありませんので」
「構いませんよ。むしろ、その方が筋が通っていて非常に好ましい」
ジェネルは満足げにカップを卓へと置いた。
「ありがとうございます、リーフィア様。あなたのような美しい同行者を得られて、光栄だ」
「……お礼を言われるのは、まだ少し早いかと思いますが」
「それでも、嬉しいものですよ」
リーフィアは小さく首を縦に振り、再び手元の珈琲へと目を落とした。
窓の外の通りでは、人々が変わらぬ日常の営みの中を行き交い続けていた。
───
公国を揺るがす「国内巡幸」は、当初の予定通り厳粛にその幕を開けた。
豪華絢爛な装飾が施された公王レイ・ヴェーデルの乗る巨大な馬車を中心に置き、その前後左右を厳重に包囲する兵員の総数はおよそ二千名。驚くべきことに、その全兵士が、統一された最新鋭の装備をその身に纏っていた。
新式フリントロック式小銃【フリンテ】である。
かつてヴェーデル公国の精鋭たちが、あの険しき峡谷においてローズヴェル軍から一方的に蹂躙され、撃滅された恐怖の記憶は、すでに国中の隅々にまで暗い影を落としていた。かろうじて生き残った敗残兵たちが語り紡ぎ、人々の口を伝う過程でさらに誇張されたその噂は、「天を割る雷鳴のような轟音と共に、姿の見えない死の雨が無限に降り注ぐ悪魔の兵器」という悍ましい怪異の形で定着していた。
だからこそ、街道の脇に集まり、進軍する大行列を見物していた地方の領民たちが、整然と隊列を組んだフリンテ装備の黒鉄の兵士たちをその目で直視した時、彼らが抱いた感情は、単純な好奇心や羨望などだけでは、断じてなかった。
訪問を受ける地方の有力領主たちは、表向きの歓迎の準備を必死に整えながらも、王都から押し寄せてきたその圧倒的な軍事力を前にして、一様に顔色を悪くした。
一方、領民の中には公王の馬車に向かって狂ったように熱狂的な歓声を上げる姿もあった。それは麗しき新公王と、その傍らに控える若き異国の天才宰相への、純朴な民衆の期待であったかもしれない。あるいは、それほどの絶対的な武力が、今度は「自分たちの支配者」として君臨してくれたことへの、安直な安堵の裏返しであったかもしれない。
動機がどちらであれ、リデルにとっては些末な問題であった。目的たる「威圧」の効果が、各地の最大値で発揮されていればそれで十分であった。
しかし、この冷徹な武力の行進の内側には、暴力とは異なる「もう一つの巨大な国家機構」が、音もなく正確に駆動していた。
コールの率いる、移動官僚機構である。
彼らの任務は多岐にわたり、かつ徹底的であった。
訪問先における詳細な地形と地理の再計測。前体制の時代から不透明化していた土地権利および利権構造の徹底的な洗い出し。現地の徴税実態の監査と隠し資産の確認。さらには、現地での新たなる情報提供者の獲得と、地方貴族たちの家庭内における内情の把握に至るまで。
これらの中央集権化に向けた地味で果てしない事務作業の数々を、コールが統べる官僚組織が、各地の裏側で黙々と処理し続けていたのだ。
彼らが白日の下に引きずり出した膨大な地方の情報は、すべてコールのもとで機密書類として整理され、最終的に最高権力者であるリデルの机へと集約された。
「集約された」と文字で表すのは簡単だが、その実態は過酷の極みであった。
日中のリデルには、各地の領主たちとの建前だらけの親善訪問が組まれていた。豪奢な宴席に出席し、形式的な謁見をこなし、その全ての場において、彼は「公国の宰相」として完璧に立ち振る舞わなければならない。常に張り付いたような適切な笑顔を作り、一寸の隙もない洗練された言葉を選び、酒を酌み交わしながら相手の腹の内を冷徹に読み切る精神戦。
そして、夜は──果てなき「書類との死闘」であった。
コールが昼間のうちに整理・選別した地方の機密情報の束が、毎晩のようにリデルの移動執務馬車へと届けられる。リデルは深夜の灯火の下でそれらを精読し、的確な判断を下し、翌日以降の地方領主に対する個別交渉の対応方針を組み立てていく。
同行している専属の医官が、毎朝晩の処置を施すたびに「これ以上の無理は確実に命に関わります」と厳しい口調で警告した。リデルはその都度、表情一つ変えずに「分かっている」とだけ短く返答した。
身体を苛むあの脂汗は、未だに止まってはいなかった。
ただ──肉体がその異常事態に「慣れてきた」という、奇妙な感覚はあった。慣れることで苦痛が軽減されたわけではない。脂汗が全身から噴き出し、内臓がどれほど悲鳴を上げていようとも、脳の思考だけは独立して完璧に駆動できるという、精神の不屈の確信が強まったという意味での慣れであった。
(──情報は、権力の源泉そのものだ)
リデルは、前世の血生臭い独裁の歴史からその真理を骨の髄まで学んでいた。
地方の隠された内情を完全に把握することは、今後国政を動かす上でのすべての施策の精度を劇的に向上させる。誰が新体制に対して従順で、誰が腹の底で反発しており、誰が状況の風向き次第でどちらにでも転ぶ日和見の人間なのか。それを事前に「知っていること」と「知らないこと」とでは、意思決定の質と速度が根本から異なるのだ。
ゆえに、彼は睡眠を削ってでもその過酷な作業を継続した。
これはもはや、体力の限界などという次元の話ではなかった。
巡幸の日程が全体の半分を消化し、いよいよ後半戦へと突入した頃、巡幸の列は次なる巨大な目的地へと向かって街道を進んでいた。
───
「……いよいよ、この巡幸における最大の山場に入りますね」
コールが、移動する馬車の揺れに合わせて、膝の上で分厚い書類の束を綺麗に揃えながら告げた。
「ああ」
リデルは窓の外を見つめたまま、短く応じた。
窓の外、街道の両側に果てしなく広がる広大な農地が、沈みゆく夕暮れの朱い光を浴びて鈍く輝いている。周囲の地形は徐々に平坦さを失い、険しい山がちな地勢へと変化し始めていた。それに伴い、軍勢が進む街道の道幅も、目に見えて狭まりつつある。
「これより、次なる訪問先──リヴァイア侯爵領に入ります」
コールは、資料の中から特に厳重に密封されていた一枚の調書を取り出した。
「グローヴ・リヴァイア侯爵。ヴェーデル公国において、名実ともに『筆頭家臣』の地位に君臨し続けている最大の大貴族です。前公王ロイの統治時代においては、長年、国家の宰相職を一身に務めていた人物でもあります」
「つまり──現在私が座っているその椅子の、前の持ち主というわけか」
「はい。リデル様が新たな宰相に就任されたことで、実質的に中央政権の中枢から完全に放逐された形になっております」
「当然、私を激しく怨んでいると目されているわけだな」
「巷の噂や貴族たちの間では、そのように囁かれています。ただ──」コールは眼鏡の奥の目を光らせた。
「本人が公の場で、新体制に対する明確な敵意や不満を示したという公式の記録は、現在のところ一切存在しません。表向きは、レイ新公王とリデル様が主導の新体制を全面支持する姿勢を、完璧に維持し続けています」
「表向きは、な」
「ええ。あくまでも、表向きは、ですが」
ガタりと、馬車が大きく縦に揺れた。国境に近づくにつれ、道の整備状況が明らかに悪化してきている証拠であった。
リデルは、迫りくる険しい山並みを凝視しながら言葉を続けた。
「……現在、私に対して執拗に暗殺者を差し向けてきている『赤手組』。その黒幕である可能性が最も高い容疑者として、現時点ではそのグローヴ・リヴァイア侯爵が筆頭に挙がる」
「その可能性は、極めて高いと言わざるを得ません。動機という観点だけで見れば、これ以上の人物はいないでしょう。長年かけて築き上げてきた宰相としての権力基盤を一瞬にして奪われ、しかもその座を奪った相手が、自国を一度は滅ぼしかけた『ローズヴェルの外国人』なのですから」
「五臓六腑が煮えくり返るほどの怒りを抱くには、これ以上ない十分すぎる理由だな」
「ただ、決定的な証拠が何もありません。すべては状況証拠からの推測の域を出ないのが現状です」
「分かっている」
リデルは、コールから差し出された最新の書類の束を左手で受け取った。
「だが──証拠が存在しないことと、その男の潔白が証明されたということは、全くの別問題だ」
「……はい」
「そのグローヴ・リヴァイアという男が、いかなる怪物理性を持った人物なのか。それを私のこの目で直接確かめる、絶好の機会が来た。……ただ、それだけのことさ」
コールは主君のあまりにも揺るぎない態度に、少しだけ間を置いてから、深く頭を垂れた。
「くれぐれも、お気をつけください、リデル様。敵の本陣に踏み込むも同然です」
「ああ。あの時のような、下手はうたんよ」
馬車が、緩やかな登り坂へと差し掛かった。
公国最大の門閥、リヴァイア侯爵領の境界線は、もう目と鼻の先へと迫っていた。




