36話
医者は、リデルの右手に巻かれた包帯を慎重に解きながら、重々しく首を横に振った。
「……本当に、信じられませんな」
四十前後と思しき、落ち着いた佇まいの男だった。ヴェーデル公国において「最高峰」と謳われる高名な医官であり、極めて希少な【治癒】のスキルを保持する数少ない傑物の一人でもある。普段は公王の専属として城内に控えている身だが、今回は事態の深刻さを受け、特別に宰相府へと招聘されていた。
「私は長年、人体の構造と毒理について研究を重ねてきましたが……このような常軌を逸した例は初めて見ます」
「不都合があるなら、率直に言ってくれ」
「不都合がないわけがありません。むしろ、問題しかありませんよ」
医官は、血に汚れた包帯を丁寧に捌きながら言葉を続けた。
「体内の毒素は、未だ完全に排出されていません。私の保持する【治癒】のスキルを以てしても、現段階で中和できたのは全体の六割程度。依然として、四割もの猛毒が体内に居座っています」
「残りの四割が巡ると、どうなる」
「激しく動き回れば、再び血流に乗って全身へと拡散します。本来、健康な大人の男であっても、今頃は激痛と麻痺で指一本すら動かせない死に体になっているはずなのです。その状態で、あろうことか朝議を完璧に仕切って見せるなど……」
医官は、そこまで言いかけて急に言葉を濁した。
「どうした」
「いえ……。医者としての見解を述べるべきか、些か迷いましたが」
「構わない、言え」
「正直に申し上げれば、よくぞ生きていらっしゃる、という一言に尽きます。あれほどの猛毒を、しかも傷口から直接血管へと注入された状態で、翌朝に平然と起き上がり、議場に立ってみせた人間など、私はこれまでの生涯でただの一人も見たことがありません」
リデルは、その驚愕の報告に対しても、特に大きな反応を示さなかった。
冷淡に構えていられたのは、他ならぬ自分自身が、その「異常」を肉体的な事実として冷酷に自覚していたからだ。
表面上は、いかにも涼しい顔を維持していた。少なくとも、周囲の有象無象の目にはそのように映っていたはずだ。だがその裏では、冷たい脂汗が絶え間なく背中を濡らし、胃の奥は濁流のように波打ち続けていた。議場の席に腰を掛けている間も、重臣たちの退屈な報告を聴きながら、喉元までせり上がる激しい吐き気を必死に抑え込んでいたのだ。発言が必要な場面においても、声を出すたびに喉の奥が焼けるような不快感に苛まれていたのが本音であった。
ただ、敵に弱みを見せるわけにはいかない。それだけの執念が、彼の肉体を強引に駆動させていた。
「本来であれば」医官は、清潔な新しい包帯をリデルの手に巻き直しながら釘を刺した。
「最低でも一週間の絶対安静が必要です。外出は一切厳禁、食事も流動食のみに制限し、毎日の解毒処置を繰り返しながら、体内の残存毒素が自然に代謝されるのを待つ。それが、医者として提示できる唯一の正しい治療法です」
「分かっている」
「分かっていながら、端からその進言に従う気など毛頭ない、というお顔をされていますね」
「聡い医者だ。嫌いではない」
リデルは白く巻かれた右手の指を軽く曲げ、動作の連動性を確かめた。
実際のところ、リデルの胸中は焦燥に駆られていた。彼自身が冷徹な仕掛け人となり、公王レイ・ヴェーデルを主役に据えて執り行う予定の「国内巡幸」の期日が、目と鼻の先に迫っていたからだ。
公国全土の有力な貴族や領主たちを、一ヶ月以上の歳月をかけて直接訪問する大がかりな巡幸。むろん、それは生ぬるい親善訪問などではなく、直属の軍勢を引き連れて各地を回ることで、圧倒的な「武力の威圧効果」を誇示するための政治劇であった。前公王ロイの廃位に伴うヴェーデル王権の健在を再確認させ、新たなる宰相府の新体制への絶対的な承認を、各地の有力者たちから強制的に取り付ける。その国家戦略の中心たるレイとリデルの二人が揃って赴くことにこそ絶対的な意味があり、どちらか片方でも欠ければ、その威圧の効果は著しく霧散してしまうのだ。
医官は、リデルの頑なな横顔を前にしばらく沈黙していた。
「……リデル様のご事情、そしてこの国におけるお立場を理解できないわけではありません」
「ならば、話は早い」
「ただ」医官は包帯の端をきつく結び、強い眼差しで言い切った。
「お身体が旅の行程に耐え切れるかどうかは、私には到底保証できません。毒が完全に霧散するまでは、常に急変のリスクが付きまといます。もし旅路の途中で倒れられでもすれば、その場での適切な処置が間に合わない可能性もあるのです」
「それら全ての最悪を想定した上で、先生で可能な限りの対症療法を頼みたい」
「……」
「大それた奇跡を求めているわけではない。ただ、俺の巡幸に同行してくれるだけでいい。万が一容体が悪化へと転じたその瞬間に、即座に次の一手を打てる専門家が傍らに控えている──それだけで、私にとっては十分な安全牌だ」
医官は、リデルの姿をじっと見つめ返した。
どこからどう見ても、線が細く華奢な少年に過ぎない。衣服の隙間から覗く体格も未発達で、平時であれば大人が無条件に庇護すべき対象に見えるはずだった。
しかし今、この少年の双眸に宿る光には、医官が長い臨床経験の中で触れてきたいかなる患者とも異なる「異質な何か」が存在していた。
それは運命への諦めでもなければ、若さゆえの無謀な強がりでもない。
ただ、己の成すべき目的が完全に定まっているという、冷徹なまでの静かな確信であった。
「……分かりました」医官は小さく溜息を吐き、医療道具を鞄へと仕舞いながら告げた。
「私もその巡幸の旅路、お供いたしましょう。毎朝晩の入念な解毒処置は絶対に欠かしません。ただし──」
「何だ」
「症状が私の設定した一定の基準を超えた場合は、強制的に休んでいただきます。その時ばかりは、いかなる理由があろうとも私の指示に従っていただく」
「その、一定の基準とは?」
「──ご自身の力で、その場に立っていられなくなった時です」
リデルは、ほんの少しだけ思考の間を置いた。
「それなら問題ない。その条件を呑もう」
「本当に、無茶苦茶な御方だ」
医官は、苦笑とも呆れとも判別のつかない複雑な表情を浮かべた。
「精神力、という陳腐な言葉の限界の向こう側を、初めて見せられた気がしますよ」
「最高の褒め言葉として受け取っておく」
「そのつもりで申し上げたのですよ、宰相閣下」
───
医官が静かに道具をまとめていると、部屋の扉が軽い音を立てて内側へと開かれた。
「やあ、どうも。お邪魔するよ」
入ってきたのは、ジャックであった。
ひらひらと片手を上げながら入室してきた男は、室内の様子を一瞥した。それから医官に向けて、いつも通りの軽薄な笑みを投げかける。
「先生、俺たちで少しばかり内々の密談があってさ。席を外してもらえるかい?」
医官は一度ジャックを見やり、次いでリデルへと視線を移した。リデルが微かに顎を引いて肯定するのを確認すると、手際よく道具鞄を拾い上げて立ち上がった。
「処置はこれで終了です。くれぐれも、無理は禁物ですからね、リデル様」
「感謝する、先生」
医官が礼儀正しく退室し、重厚な扉が静かに閉ざされた。
ジャックは、油断なく部屋の隅々まで視線を走らせて安全を確認すると、椅子の背を引いてリデルの真正面へと腰を下ろした。
「で、だ」
不意に、男の口調から軽薄さが消えた。いつもより少し低く、真面目なトーンの声音。
「今回の国内巡幸に、俺とミナが護衛陣の本隊として参加するのは当然の決定だとして──」
「ああ」
「──なぜ、リーフィアをその布陣から完全に外す? 納得のいく理由を聞かせてくれ」
リデルは、白く包帯が巻かれた右手を静かに膝の上へと置き去りにしたまま、正面のジャックを見据えた。
「彼女には謹慎を申し付けたはずだ。その報告は、すでに耳に入っているだろう」
「ああ、聞いたさ。だからこそ、その意図を尋ねているんだよ」
ジャックは不機嫌そうに足を組み替え、言葉を重ねる。
「お前が何者かに命を狙われているのは、先日の件で完全に確定した。ならば、その傍らには実力のある優秀な護衛が、一人でも多く控えている方がどう考えても合理的で得策だろう。特にお前の本質を、バートン家の時代から深く理解している身内なら尚更だ。それをなぜ、この大一番でわざわざ手放すような真似をする?」
リデルは、少しの間を置いてから静かに口を開いた。
「お前の言う通りだ。戦力的な計算だけで言えば、お前の指摘は完全に正しい」
「分かっているなら──」
「分かっているからこそ、それが重大な『リスク』だと言っているんだ」
ジャックが、怪訝そうに片方の眉を動かした。
「どういう意味だ?」
「私が──リーフィアという存在を、無意識のうちに特別視し始めている」
その告白に、ジャックの身体の動きがピタリと停止した。
「……続けろ」
「庭園での襲撃の後、この部屋の寝台で目を覚ました時のことだ」リデルは、自身の感情を解剖するように淡々と述べた。
「リーフィアが私の隣で、酷く憔悴した様子で眠っていた。本来の俺であれば、即座に彼女を揺り起こし、事態の詳細と現状の報告を確認すべき局面だった。……だが、俺にはそれができなかった。彼女のあの疲弊しきった顔を見て、声をかけるという極めて合理的な行為を、俺自身の精神が断固として拒絶したんだ」
「……それは」
ジャックは、深く腕を組んだ。
「優秀な暗殺者や謀略家であれば、私の内面に生じたその微かな『揺らぎ』を、決して見逃さずにつけ込んでくるだろう。リーフィアを人質に取る、あるいは彼女の肉体を痛めつけることで私の冷徹な判断力を鈍らせる、あるいは……リーフィア自身の忠誠心を逆手に取り、罠の道具として利用する。どの手段を取られたとしても、現在の私に対しては致命的な一撃となり得る。それが明確な弱点として成立してしまっている以上、彼女を私の傍らに置き続けることは、リスクに他ならない」
「つまり、なんだ」
ジャックの唇の端に、少しだけ意地の悪い、だがどこか温かみのある笑みが浮かんだ。
「お前がリーフィアに対して、男として『惚れている』からこそ危険だ、という話か?」
リデルは、不快そうにジャックの目を睨みつけた。
「……何の話をしている」
「だからさ、お前の内にいわゆる『恋愛感情』が芽生えちまったから、作戦行動の邪魔になるから傍に置けない、と。そういう可愛い話だろ?」
「どうして私のリスク管理の話が、そのような俗な結論に着地するんだ」
「お前が今しがた大真面目にのたまわった矛盾を整理すりゃ、普通の人間は自然とそういう結論に辿り着くんだよ」
「違う」リデルは、一寸の迷いもなくは言い切った。
「断じて、違う」
「へえ、そうかい」
「そうだ」
「本当に、そうかねぇ?」
ジャックは、わざとらしく少しだけ間を置いてから、楽しげに言葉を突っつく。
「そうか、断じて違う、ねえ」
「……同じ言葉を何度も繰り返すな」
「いやあ、ちょっとお前の本心を、念押しして確認しておきたくてな」
「これで納得したか」
「まあ、一応はね」
ジャックは、退屈そうに視線を窓の外へと投げた。
リデルもまた、誘われるように窓の外の景色へと目を向ける。
しばらくの間、室内の二人の間に、意味深な沈黙だけが流れていた。
「とにかく」
先にその静寂を切り裂いたのは、リデルであった。
「今回の国内巡幸の布陣から、リーフィアの名前は完全に除外する。この決定を覆すつもりはない」
「分かったよ」
ジャックは、それ以上追及することなく、あっさりと首を縦に振った。
「ただ、一人のナイスダンデイな男として、一つだけ忠告を残しておくぜ」
「何だ」
「今お前が俺に対して並べ立てたその能書きをさ──ちゃんと、本人にも同じように言えるといいな」
「……」
「仮にお前の言う通り、それが断じて恋愛感情なんかじゃないとしてもだ。あれだけ尽くしてくれた女の子に対して、謹慎なんていうキツい仕打ちをした本当の理由は、取り繕わずにちゃんと本人に直接話してやるべきだ。……俺は、そう思うぜ?」
リデルは、その言葉に対して何も答えなかった。
ジャックは椅子から軽快に立ち上がり、上着の襟を正した。
「じゃあ、そろそろ始めようか。お前の命懸けの、楽しい楽しい国内巡幸の準備話をね」




