35話
扉が開いたのは、朝の柔らかな光が窓から差し込み始めた頃だった。
リーフィアは、廊下から室内に戻ってきたところであった。同僚の侍女に半ば強引に連れ出され、最低限の食事と入浴を済ませていたのだ。どうしても気が進まなかったが、「このままではリデル様が目覚める前にあなたが倒れてしまいます」と強く詰め寄られ、断り切れなかった。
しかし、部屋に足を踏み入れた瞬間、リーフィアは驚愕に目を見開いた。
リデルが、そこに立っていた。
すでに着替えを終え、いつでも外出できる準備を完璧に整えている。負傷した右手を庇いながら、左手で上着の釦を留め、静かに窓の外を見つめていた。
「リデル様……!」
リーフィアは、なりふり構わず彼のもとへ駆け寄った。
「お目覚めに……! よかった、本当に……!」
その声音は、微かに震えていた。昨夜から今朝に至るまで、ずっと胸を締め付けていた最悪の結末が回避されたことへの、心からの安堵であった。
「ああ」
リデルは振り返ることもなく、短く淡々と応じた。
「リーフィア、今日の朝議は何時からだ」
「え……?」
「朝議だ。私の着任後、初の朝議が何刻に始まるかと聞いている」
リーフィアは一瞬、主人が何を口にしているのか理解が追いつかなかった。
「それは……確か10時からの始まりだったかと記憶しておりますが。リデル様、今はそのようなことよりも──」
「ならば、まだ間に合うな」
リデルは卓の上の外套を左手で引き寄せた。
「これより登城の支度をする。お前も手伝え」
「手伝え、とは……正気ですか、リデル様! まだ絶対安静にされているべきです。昨夜の猛毒がまだ体内に──」
「峠は越えた。医官の確認も取れている」
「それでも、お身体に障ります!」
「問題ない」
「大ありです!」
リーフィアは、普段の彼女からは想像もつかないほど烈しい語気で叫んだ。
「襲撃を受け、失血と猛毒に冒された翌朝に、なぜ朝議などへ出席しようとされるのですか……! 少なくとも今日一日は、寝台で大人しく療養に専念されるべきです。それが当然の判断であり、誰に尋ねても同じ答えが返ってきます!」
「私は誰の意見も求めていない」
「リデル様!」
「私を葬ろうと画策した連中に、その目で見せつけるために必要なのだ。リデル・バートンは健在であり、貴様たちの姑息な暗殺など一欠片の痛痒も与えられなかった、とな。それくらいの政治的意味、お前にも理解できるだろう」
「それは……理屈としては分かりますが……」
リーフィアは必死に反論の言葉を絞り出そうとした。
「しかし、万全とは程遠いそのお身体で、一体何ができるというのですか……!」
「万全でないのは事実だ。だが、議席に座って奴らの報告を聞くだけならば何の問題もない」
「それが問題だと言っているのです! 宰相が深手を負ったまま朝議に這い出て、万が一その場で容体が悪化しでもしたら、それこそ──」
「リーフィア」
リデルが、そこで初めて彼女の方を振り返った。
その双眸に宿る光は、見る者の心を凍らせるほどに冷徹であった。
リーフィアは、思わず息を呑んだ。それは昨夜、死の淵で病床に伏していた人間の目では断じてなかった。もっと別の、絶対的な一線を画した冷酷な何かが、その瞳の奥で蠢いていた。
「それと。お前を、私の護衛役から解任する」
「……え?」
「聞こえなかったか。お前の護衛職を、本日をもって解任する」
室内の温度が、一気に氷点下まで叩き落とされたかのような錯覚を覚えた。
「な、なぜですか……!」
「昨日の襲撃において、私の身に牙が届くのを防げなかった。護衛として、それだけで十分すぎる更迭の理由だ」
「それは……私がそのとき庭園に就いていなかったからで、そもそもリデル様が私を遠ざけ、お一人で──」
「護衛を側から離す状況を許した私自身の落ち度でもある。だが、それはそれだ。結果としてお前が護衛としての職務を全うできなかったという事実は変わらない」
「リデル様、それはあまりにも──」
「あわせて、しばらくの間の謹慎を申し付ける」
リデルは慣れた手つきで外套を肩へと羽織った。
「謹慎……、ですか……?」
「他の職務も一切禁ずる。大人しく休んでいろ」
リーフィアは、その冷酷な言葉の羅列を脳内で処理しようとしたが、拒絶反応を起こして思考がまとまらない。
「待ってください、リデル様……! お願いです、どうかお話を──」
「もういい。話は終わりだ」
リデルは彼女にそれ以上の弁明の余地を与えず、扉に向かって確かな足取りで歩き始めた。
リーフィアは、喉が圧迫されたように声が出なかった。
石畳に縫い付けられたかのように、足が一歩も動かない。
大扉が開け放たれる。
「リデル様、待ってください……!」
バタン、と無情な音を立てて扉が閉ざされた。
静まり返った廊下に、新宰相の規則正しい足音が遠ざかっていく響きだけが残される。
リーフィアは、誰もいなくなった室内の中心で、ただ呆然と立ち尽くしていた。
その指先が、屈辱と絶望でわずかに震えていた。
───
公都の薄暗い裏路地。その一角に佇む、古びた安宿の二階。
その一室は、外から観察する限り、何の変哲もない貧相な旅人の部屋に過ぎなかった。だが、その閉ざされた扉の向こうには、四人の男女が不穏な空気の中で集結していた。
窓は完全に閉め切られ、卓の上には一本の蝋燭だけが心細そうに揺らめいている。
その微かな薄明かりの中で、一人の男が顔を歪めながら身体に包帯を巻き直していた。四肢の至る所に、至近距離から散弾の礫を喰らった無惨な傷跡が刻まれている。適切な応急処置を施されたはずの傷口は、今なお脈打つような鈍い激痛を放っていた。
「リデル・バートン……」
男は包帯の端をきつく締め上げながら、その忌々しい名前を呪詛のように吐き捨てた。
「あの、クソガキが……!」
「ははは! いやあ、随分と無様にやられたものだね」
向かいの闇に腰掛けていた女が、愉悦を隠しきれない様子で声を上げて笑った。
「まさか散弾を仕込んでいたとはね。銃口の射線さえ外せば安全だと思い込んで踏み込んだら、面で吹き飛ばされるなんて。傑作じゃないか」
「笑い事か、お前……!」
「笑い事だろう? お前が間抜けだったから──」
「黙れッ!」
男は包帯を拳の中で握り潰し、獣のように怒鳴り散らした。
「俺たちが未熟だったわけじゃない! あのガキの反応が、異常なんだ! 毒を塗った白刃を素手で掴んで止め、あらかじめ散弾を込めた短銃を懐に忍ばせていたんだぞ!? あれはただの子供なんかじゃねえ!」
「まあ、結果は同じことだがな」
別の男が、壁に気怠げに背を預けたまま、冷淡な声音で言葉を挟んだ。
「奴は間違いなく、我が組織が誇るあの猛毒をその身に喰らったんだ。いくら悪運が強かろうと、子供の細い身体だ。命だけは取り留めたとしても、今後二度とまともな五体で生活を営むことなどできやしないさ」
その時、前触れもなく──ノックの音すら立てずに、部屋の扉が静かに開かれた。
「お邪魔するよ」
酷く、軽薄な声音であった。
四人の暗殺者は、一斉に弾かれたように扉の方へと視線を走らせた。
──そして次の瞬間、室内の全員が金縛りに遭ったかのように言葉を失った。
部屋へと足を踏み入れてきたその男は、整った気品ある顔立ちに、どこか穏やかな笑みを浮かべていた。身に纏う衣服は最上質の仕立てであり、その両手には純白の手袋を嵌めている。どこからどう見ても、洗練された高貴な貴族そのものの佇まいであった。
だが、その完璧な笑みの奥にある双眸だけは、一切笑っていなかった。
四人の間に流れる空気が、一瞬で凍結する。
男は何の気兼ねもなく部屋の奥へと進み、窓際に置かれた椅子を引き寄せると、そこへ優雅にもたれかかるように腰を下ろした。室内の誰一人として彼に入室の許可を与えておらず、挨拶すら交わしていない。にもかかわらず、男はまるでそこが最初から自分の指定席であるかのように、傲然と振る舞ってみせた。
「話は全て聞かせてもらっていたよ」
男は、静かに、そして滑らかな声音で告げた。
「君たちが『確実に致命傷を与えた』と大口を叩いていたはずのリデル・バートンだがね──どうやら本日の朝、何事もなかったかのように元気な姿で初の朝議へ出席したそうだよ。そればかりか、並み居る重臣たちを相手に、完璧に場を仕切っていたと聞く」
包帯を巻いていた男が、現実を受け入れられずに反射的に声を荒らげた。
「ば、馬鹿な……! あの深手と猛毒を喰らって無事など、絶対にあり得ん! あの毒は、屈強な大男であってもほんの一滴で──」
「結果が全てだ」
男の声音は、最初から最後まで徹頭徹尾、穏やかなままであった。
しかし、その極静かな一言の重圧に圧され、包帯の男はそれ以上言葉を続けることができず、喉を鳴らして口を閉ざした。
四人の暗殺者たちが、本能的な恐怖からわずかに身を縮こまらせる。それは物理的な暴力による威圧というよりも、その人物が内包する底知れぬ「闇」が、部屋の温度を根本から変質させているがゆえの現象であった。
「依頼主様は、大変お怒りだ。その意味が、君たちにも理解できるかな?」
「……は、はい」
「次はない。──と、わざわざこの私が口に出さずとも、末端とはいえ『赤手組』の名を冠する諸君であれば、十分に分かっているはずだね。幸いにも、極めて寛大であらせられる依頼主様のご厚意により、我々のために改めて『次の機会』が用意されることとなった」
男は、純白の手袋に包まれた指先で、椅子の肘掛けをトントンと規則正しく叩いた。
「次こそは──確実に成功を収めてもらう必要がある」
誰も、反論の言葉を返すことはできなかった。
「それから、だ」
男は、椅子の背からゆっくりと腰を上げた。
「君たちのあまりの不出来を補うために、次は私も直接動くことにした。裏から、完璧な援護を入れてあげよう」
「……それは、心強い限りです」
包帯の男が、恐怖に歯の根を鳴らしながら震え声で応じた。
「面倒ではあるがね。管理責任者として、これ以上失態の尻を拭かされるのは御免被りたいからね」
男はそう言い残すと、出口の扉へと向かって歩き出した。
「あの──」
包帯の男が、その冷徹な背中に向かって、縋るように呼びかけた。
「ジェネル様」
男は、一度として振り返ることはなかった。
「励みなさい」
ただそれだけを冷淡に言い捨てると、パタンと音を立てて扉を閉めた。
残された四人の暗殺者は、しばらくの間、微動だにすることができなかった。
卓の上の蝋燭の炎だけが、彼らの絶望を映し出すように、静かに、そして妖しく揺らめき続けていた。




