32話
翌朝、リデルは王城へと向かう馬車の揺れに身を任せていた。
本来であれば着任初日に執り行うべき、新公王レイ・ヴェーデルへの謁見であったが、公王側に「差し迫った私用」があるとの理由で、一日順延されていたのだ。
車輪が立てる規則正しい音を聴きながら、リデルは向かいの座席へと視線を向けた。
そこには、当然のように不敵な笑みを浮かべたジャックが座っている。
「……なぜ、お前がここに座っている」
「なぜって、新宰相閣下の厳重な護送任務さ。俺が同乗していた方が、何かと安全だろう?」
「本来なら、お前は後ろの馬車でここにはリーフィアが座っているはずだ。お前がしゃしゃり出る理由などない」
「お堅いことを言うなよ。そのリーフィア嬢から代わってくれって言われたんだから」
ジャックは気取りのない動作で長い足を伸ばした。
リデルはその態度に微かな違和感を覚えつつも、これ以上の追及は無意味と悟り、小さく息を吐いて背もたれに身を預けた。
窓の外では、王城へと続く大路を馬車が滑るように進んでいく。ヴェーデルの異国情緒溢れる街並みも、昨日よりは幾分か見慣れた風景になりつつあった。
「ジャック」
「あん?」
「レイ・ヴェーデルとは、一体どんな男だ」
ジャックの指先が、ほんの一瞬だけ止まった。膝の上で弄んでいた外套の紐の動きが、完全に静止する。
「あまりにも情報が少なすぎる」リデルは淡々と続けた。
「滅多に公の場に姿を現さず、前公王ロイとは似ても似つかぬという噂はあるが、具体的に何がどう違うのか、核心的な情報がまるで入ってこない。お前は先んじて一度、謁見を済ませているはずだろう。教えてくれ」
ジャックはしばらくの間、楽しげに沈黙を守っていた。
やがて、その薄い唇の端が、にんまりと意地の悪い形に吊り上がる。
「嫌だね」
「……何だと?」
「教えない。絶対に教えるもんか」
リデルは不快そうに目を細め、目の前の男を睨みつけた。「なぜだ」
「決まってるだろ。お前が本気で驚く面が見たいからさ」
「……」
「この俺がどれほど肝を冷やし、度肝を抜かれたか。お前自身でそっくりそのまま体験してくれ。先入観なしにぶつかった方が、絶対に面白いからな」
ジャックの笑みは一向に崩れない。その様子をじっと観察していたリデルは、ふと声音を落とした。
「……お前ほどの男が、度肝を抜かれた、か」
「少なからずな。あれは、そういう類のものだ」
さらりと、しかし明確な確信を込めてジャックは言った。
リデルは再び、窓の外へと視線を移した。
前方に、ヴェーデルの象徴たる王城の外壁が見え始めていた。朝のうららかな光を浴びて鈍く輝く、重厚な石造りの巨城。
「そこまで勿体ぶられると、かえってこちらも相応の覚悟をしてしまうがな」
「ああ、構えておいた方がいい。もっとも──どんなに万全の備えをしていようが、おそらく何の意味も成さないがね」
「……一体、何が待っているというんだ」
「それを今言っちまったら、特等席でお前の傑作な顔を拝めなくなるだろ?」
ジャックは再び外套の紐を弄びながら、愉快そうに窓の外へと目を向けた。
「まあ、安心しろよ。行けばすぐに分かる。殺されるわけじゃない。気楽に気楽に」
馬車が城門をくぐり、中庭へと滑り込んでいく。
リデルはその答えを脳内で咀嚼しながら、内心の警戒度を一段階引き上げた。
前世の七十年、そして今世の時間を合わせれば、これまでに数え切れないほどの人間を見てきた。傲慢な権力者、狂を孕んだ信者、一握りの天才、そして凡愚の極み。一国の頂点に立つ皇帝から、路地裏で泥を啜る浮浪者に至るまで。どのような人間を突きつけられようとも、驚きで動揺した記憶など、片手で数えるほどしかない。
だが、あの酸いも甘いも噛み分けたジャック・ルードが「度肝を抜かれた」と白白と言い放ったのだ。
不意に馬車が停止した。
御者が恭しく扉を開けると、そこには王城の荘厳な正門がそびえ立っていた。
ジャックが先に降り、リデルに向かって芝居がかった手つきで軽く右手を差し伸べる。皮肉のようでもあり、あるいは主君に対する本心の敬意のようでもある、実に見事な仕草であった。
「さあ、行こうか。我がヴェーデル公国の新しき宰相閣下」
「……お前は本当に、性格が捻じ曲がっているな」
「最高の褒め言葉として受け取っておくよ」
リデルは差し出された手を無視して馬車を降りた。
王城の冷涼な石畳を踏み締めながら、胸中で一つだけ思考を巡らせる。
(ジャックが驚愕した対象が、何であろうと──)
この先に待つものが、自分の予測の範疇を大きく逸脱する怪物なのだとしたら。
それは、リデルにとって至極面倒な事態でしかなかった。
王城の深奥、「謁見の間」の前へと通されたリデルは、重厚な意匠が施された大扉の前で、一度だけ深く息を吸い込んだ。
(何が来ようと、断じて動じることはない)
前世において、リデルは大国の最高指導者たちを相手に、対等以上の過酷な政治交渉を何度も繰り上げてきた。死線を潜り抜けた回数など、もはや数え切れるものではない。通算で七十年近くに及ぶ果てしない経験が、いかなる異常事態をも平然と受け流す強固な精神の耐性を、すでに作り上げている。
これから出会ういかなる権力者が相手であろうと、我が心が揺らぐはずもない。
(ジャックの下らん期待など、きれいにへし折ってやるさ)
リデルがそう心に決めた瞬間、仰々しい音を立てて大扉が左右へと開かれた。
踏み入れた謁見の間は、一言で表すなら「奇妙」に尽きた。
通常の謁見の場に漂うべき、息の詰まるような厳格な威圧感が、そこには一切存在しなかったのだ。石造りの荘厳な大空間そのものは他の王城と変わりないが、室内に配置された蝋燭の数が異常なほどに多く、しかもその灯火は妙に温かみのある橙色を帯びていた。さらには、嗅ぎ慣れぬ異国風の香の煙が、薄く幻想的に漂っている。
──そして、どこからか「音楽」が響いてきた。
それは打楽器の、規則的で呪術的な低い足音のような響きから始まった。そこに細い弦の音が加わり、やがて哀愁を帯びた管楽器の音が重なっていく。どこか土着的な、あるいは遥か古代の神話を想起させる、妖艶な旋律であった。
大広間の奥から、ひとつの奇妙な一団が姿を現した。
人数は十名ほど。驚くべきことに、全員が見慣れぬ古風な民俗装束に身を包んでいた。極めて薄手の素材で作られており、重ねられた布地が彼らの歩みに合わせてひらひらと優雅に揺れる。楽器を手にした者、両手を天に広げて祈るように歩む者、頭上に色鮮やかな花冠を戴く者。
それらが列をなし、音楽に合わせて厳かに進んでくる。
リデルはその光景を前に、何か言葉を発しようとしたが、喉の奥で音が引き連れて言葉にならなかった。
一団の最後尾──最も豪華絢爛な装飾が施された衣を纏う人物が、そこで優雅にくるりと一回転した。
それは、巫女であった。
否、正確には「巫女を模した装束」を纏う何者かであった。薄絹が幾重にも重なる白と金の一張羅。頭部には金銀の糸で複雑に編み込まれた神聖な髪飾り。動くたびに、その長い袖がまるで大鳥の翼のように美しく翻る。
その人物は、ゆっくりと、しかし一寸の狂いもない完璧な舞いの所作を刻みながら、一直線に王座へと向かっていく。回り、止まり、また回る。流れる音楽と完全に同化した、息を呑むほどに見事な舞踊であった。
リデルはその舞いの途切れる刹那、正面からその顔をはっきりと視界に捉えた。
「──」
美しかった。均整の取れた完璧な顔立ちに、影を落とすほどに長い睫毛。うっすらと施された紅と化粧が、その容貌にこの世のものとは思えぬ神秘性を付与していた。
不意に、舞いがぴたりと止まった。
王座の直前で、その人物は流れるような優雅さで、どさりと椅子に深く腰掛けた。
実に堂々たる、傲岸な動作であった。
そして。
「──我こそは!」
高らかな名乗りが、謁見の間の高天井に響き渡った。
やや高音でありながらも、不思議と鼓膜に突き刺さるような、芯の通った強烈な声音。
「女神アレクシエルの生まれ変わりにして、このヴェーデル公国の君主──」
一拍の、劇的なタメが置かれる。
「──レイ・ヴェーデルである!」
刹那、鳴り響いていた音楽が完璧に停止した。
付き従っていた装束の一団が、一斉に床へと平伏し、深々と頭を垂れる。
謁見の間には、完全なる、そして圧倒的な静寂が落ちていた。
リデルはその場に直立不動のまま、指一本動かすことができなかった。
声音は、間違いなく「男」のものであった。
しかしその顔は、紛れもなく「女」の美しさであった。
纏う装束は、神に捧げる「巫女」のそれであった。
だがその名乗りは、一国を統べる「公王」であった。
そして極めつけに、自らを「女神の生まれ変わり」と公言した。
リデルの超常的な頭脳のなかで、相反する複数の矛盾した情報が同時に並べ立てられ──そしてしばらくの間、それらの処理と整理を、脳細胞が断固として拒絶していた。
(……俺は前世と今世を合わせ、七十年近くの歳月を生きてきた)
(一国の為政者として、権力の頂点を極めた経験もある)
(血生臭い戦場も、冷酷な処刑台も、泥沼の謀議の場も、すべてを知り尽くしているはずだ)
(しかし──)
しかし、これほどのものは、見たことがない。
「……」
リデルは、人生で初めて、完全に言葉を失っていた。
その真横で、ジャックがこれまで必死に堪えていた横隔膜の限界を迎えたように、「ふっ」と短く息を漏らした。それは、あまりにも見事に虚を突かれた主臣の姿を見て、狂おしいほどの笑いを噛み殺した、音であった。
王座の天辺に君臨するレイ・ヴェーデルは、唖然と立ち尽くすリデルの姿を真っ正面から見つめ、その艶やかな唇に、この上なく満足げな笑みを浮かべていた。




