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33話

宰相府へと帰還したのは、正午を少し過ぎた頃であった。

リデルは執務室に入るなり、普段の彼からは到底考えられないほど締まりのない動作で、応接用の長椅子へとどさりと身体を投げ出した。

 

「……今世で生を受けて以来、今日という日が一番疲れたぞ」

 

ぽつりと、掠れた声で呟く。

その絵に描いたような落胆ぶりを目の当たりにしたジャックは、ついに堪えきれずに大声を上げて爆笑した。

 

「ははは! いや、最高だ、本当に最高極まる傑作だったよ!」

 

「……笑うな、ジャック」

 

「笑わずにいられるかよ! あの鉄仮面のお前が、あそこまで目に見えて狼狽える姿なんて、この先の生涯でも二度と拝めないかもしれないんだからな」

 

「狼狽えてなどいない」

 

「いや、完全に固まってたぜ。言葉を失って、口が半分開きっぱなしだった」

 

「……なっていない」

 

「なってたって。間違いねえよ」

 

ジャックは上着の胸元を右手で押さえ、ようやく笑いの発作を落ち着かせながら、卓の向こうの椅子を引いて腰を下ろした。

リデルは長椅子の背に頭を預けたまま、虚脱した目で高い天井を見上げた。

 

「あの調子で、よくもまあ家臣がついていくものだ。この国は一体どうなっている」

 

「愚痴か? お前がそんな口を利くなんて珍しいじゃねえか」

 

「愚痴ではない。純粋な疑問だ」

 

「俺から見れば大した違いはないがね」

 

リデルは視線を天井からジャックへと戻した。

 

「あの様子では、まともに政務が回っているとは到底思えない。ヴェーデルの旧臣たちが日々どのようにあれに対応しているのか、むしろそっちの心配をしたくなる」

 

「だからこそ、お前がグランツに指名されて派遣されたんだろ?」

 

ジャックは、さも当然だと言わんばかりに両肩をすくめた。


「どういう事だ」

 

「前公王ロイ・ヴェーデルには、子息が数十人単位で存在した。正妻の腹だけでも十数名、側室の産んだ子を含めればその倍は下らない。そんな魑魅魍魎の継承権争いの中で、レイは傍流中の傍流──後継者候補の末席にすら碌に名前が載らないような日陰の存在だったのさ」

 

「そこまでは、俺の調べでも把握している」

 

「だがな、お前がロイを事実上の廃位に追い込み、ローズヴェル家が後継者選定に強引にねじ込んできた。その結果、生前のロイから冷遇され、かつてグランツと個人的な接点を持っていたレイが、棚ぼたであの公王の座に収まった──というわけだ」

 

リデルはしばらくの間、沈黙の中でその情報を噛み締めた。

 

「……グランツとレイが、事前に個人的な繋がりを持っていた、か」

 

「ああ。詳細な内情までは俺も掴みきれていないが。まあ、グランツも女神教派からは悪魔の如く異端視されているお人だ。似たような境遇の者同士、通じ合うものがあったのかもな」

 

「なるほどな」

 

「で、問題は引き継いだその後だ。グランツ様の覚えはめでたく、公王の冠は手に入れた。だがお前が直に目撃した通り、あの御仁には『国家の政務を司る能力』などというものは一欠片も備わっちゃいない」

 

「だろうな」と、リデルは確信を込めて言った。

 

「だろ?」ジャックははっきりと頷き、言葉を重ねる。


「だからこそ、その致命的な穴を埋めるために、白羽の矢が立ったのがお前だ、と俺は読んでいる」

 

リデルは、再び天井を見上げた。

 

「……要するに、俺はあの公王の『子守役』としてここに送り込まれたわけか」

 

「おいおい、珍しく連続して愚痴が飛び出すじゃねえか」

 

「出るさ。今日ばかりは、愚痴の一つもこぼしたくなる」

 

「まあ、そう毛嫌いするなよ」ジャックは少し声音のトーンを落とし、不敵に笑った。


「あれはあれで、この国の淑女たちからは狂信的なまでの絶大な人気を誇っているんだからな」

 

「……何だと?」

 

「特に若い貴族女性、それから一部の数寄者な貴族男性の層からは、かなり熱烈な支持を得ている。レイが気まぐれに城外へ出向くだけで、大路が群衆で埋まるくらいにはな」

 

「レイは、一切目立たない透明な存在だったと記憶しているが」

 

「それは『王族としてのレイ・ヴェーデル』の経歴を見れば、という話だ」

 

ジャックが、器用に片眉を跳ね上げた。

 

「偽名を使えば話は一変する。このヴェーデル公国において──『スプレンドール』という名を知らぬ人間など、文字通り一人も存在しない」

 

「スプレンドール……?」

 

「ヴェーデル随一の規模と人気を誇る大劇団『ミレニアム』の、不動の看板役者さ。実体は男でありながら、舞台の上ではその中性的な美貌を活かし、『男装の麗人』のごとき凛々しさを孕んだ女性役を専門に演じている。観客は性別を問わず熱狂し、奴が出演する舞台の座席札は常に数分で完売するほどさ」

 

リデルは長椅子の上で身を起こし、ジャックを凝視した。

 

「……つまり、ヴェーデルの最高権力者たる公王は、大劇団の人気役者だったということか」

 

「そういうことだ」

 

「しかも、王族の本名を隠して舞台に立っていた、と」

 

「そういうことだ」

 

リデルは、みたび天井を見上げて深く息を吐いた。

 

「では、昨日謁見が一日順延されたあの『私用』というのは……」

 

「まあ、お前の察しの通りさ」ジャックは微かに苦笑を浮かべた。


「劇団ミレニアムの新作公演の初日だったからな。レイ──いや、スプレンドールが主演を張る大一番だ。奴にとっては、ローズヴェル公国から派遣されてきた新宰相の謁見よりも、劇場の観客たちを沸かせることの方が、遥かに優先順位が高かったわけだ」

 

リデルは、しばらくの間沈黙した。

室内の時計が刻む秒針の音だけが、やけに長く響く。

 

「……」

 

「……」

 

「──私は」リデルが、地を這うような静かな声で言った。


「あの素っ頓狂な君主と、果たして上手くやっていけるだろうか」

 

「まあ、そこはお前の腕の見せ所だろ、天才閣下。お前の頭脳なら、どんな事だって何とかなるさ」

 

リデルは軽く溜息を突き、強制的に思考の軸を切り替えた。

 

「どちらにせよ、あのグランツ・ローズヴェルがわざわざ後継者に据えた男だ」

 

リデルは、ジャックの目を真っ直ぐに見据えた。

 

「ただの無能、あるいはただの道化と切り捨てるわけにはいかないはずだ」

 

「相変わらず察しが良いな」

 

ジャックは即座に答え、満足げに足を組み替えた。

 

「あくまで裏の噂の範疇ではあるがな──レイは時折、まるで精神が別人のように切り替わり、恐るべき切れ者になる瞬間があるという話だ」

 

「別人のように?」

 

「ああ。普段のあのふざけた調子からは到底考えられないほど、冷徹で、鋭く、的確な政治判断を下す刹那があるらしい。一部の古参の重臣が、実際にその変貌を目撃している。そしてその奇妙な変化は、どうやらレイが生まれ持つ『特殊なスキル』に深く起因しているとされているが──」

 

「そのスキルの詳細は」

 

「誰も知らない。本人が一切を秘匿し、公式の記録にも一切残させないからな。だから現時点では、ただの都市伝説止まりさ」

 

リデルはその重要な情報を、頭の中の白紙の相関図へと静かに組み込んだ。

 

「もっとも」ジャックは肩をすくめて言葉を続けた。


「それも滅多に拝めない相当なレアケースらしいぜ。大半の日は、今日お前が拝んだ通りの『道化師』だということだがな」

 

「そうか」

 

リデルは短く答えると、ゆっくりと、深く息を吐き出した。彼にしては珍しい、感情の滲む呼吸であった。

 

「……少し、外の空気を吸ってくる」

 

「おや、珍しいな」

 

「そういう気分だ」

 

立ち上がり、ジャックに一言だけ断りを入れて、リデルは静かに執務室を後にした。


───

 

宰相府の裏手に広がる庭園は、外界の騒がしさを忘れさせるほどに静まり返っていた。

綺麗に整えられた石畳の小道が、手入れの行き届いた四季の草木の間を美しく縫うように伸びている。高大な城壁の内側ではあったが、見上げる空はどこまでも広く、高く感じられた。

リデルは、自身の足音だけを響かせながらゆっくりと歩いていた。

彼の頭脳の中には、現在、処理すべき膨大なタスクが文字通り山積していた。

まずはヴェーデル旧臣たちの統制。どれが害をなさぬ無能で、どこまでが信用に値するか、そしてどの勢力から順に切り崩していくべきか。貴族たちが頑なに固執する既得権益と、リデルが志向する中央集権的な方針との、冷酷な摺り合わせ。

領民への内政施策に関しては、かつてバートン領で成功させた実績が基礎として大いに参考になるが、このヴェーデルという土地の気候や、産業の構造は根本から異なる。まずすべてを白紙に戻して調べ直す必要がある。

そして何より、軍。ヴェーデルの軍隊は、前公王ロイの時代からの旧態依然とした硬直した体制のまま時が止まっている。フリンテの早急な導入も含め、軍制の抜本的な再編は一刻を争う急務であった。

 

(──やることが、多すぎるな)

 

前世の過労死寸前の記憶が一瞬脳裏をよぎり、珍しくそんな本音が、無防備に思考の表層へと浮かび上がった。

かつてのバートン領の改革においては、ラムズという不安要素はあったが、自身の手で積み上げていくための確かな順序と、相応の時間が残されていた。だが、この異郷の地においては、着任初日からすでに巨大な難題の山が目の前に突きつけられている。その上、戴くべき公王があのような変物とあっては、国家の基盤そのものから一人で組み立て直さなければならない。

リデルは石畳を規則正しく踏み締めながら、溜息を吐き出す代わりに、冷涼な大気を深く胸に吸い込んだ。

──その、刹那であった。

前方から、一人の庭師らしき男が歩いてきた。

草刈りの道具を手に持ち、深く帽子を被って俯きながら、ゆっくりとした足取りで進んでくる。特に目立つ特徴のない、どこにでもいる中年の男であった。

すれ違う。

本当に、ただの日常の一コマとして、二人の身体が交差した、その瞬間──。

リデルの腹部に、衣服を突き破る異質な感触が触れた。

金属が放つ、絶対的な死の冷たさ。

リデルの肉体が弾き出した反射速度は、脳の意識の伝達よりも遥かに速かった。

考えるよりも早く、彼の右手が動いていた。突き出された刃に向かって、掌を完全に開いたまま──力任せに、その凶刃を真横から思い切り握り込んだ。

ぐっ、と手の平の肉が裂ける凄まじい激痛が走る。

短剣であった。

白刃を素手で、完全に掴み取っていた。肉が切り裂かれ、骨へと達する寸前の生々しい衝撃が脳髄をずきりと突き刺す。だが、深くは入れさせなかった。致命傷となる腹部への到達を、ミリ単位のところで、その掌の肉の壁が強引にせき止めていた。

庭師の男が、驚愕に目を見開いて顔を上げた。

まさか突き出した短剣を、素手で真っ正面から握り潰されるなど、夢にも思っていなかったのだろう。ほんの一瞬、刺客の連続攻撃の動作が完璧に硬直した。

その、致命的な一瞬の隙を見逃さず、リデルは地を蹴って強引に後方へと飛び退いた。

短剣がその手から離れる。リデルの右の掌には、どす黒い一本の紅い筋が走り、そこから止めどなく鮮血が溢れ出して石畳を汚した。

男は即座にプロの暗殺者として体勢を整え、再び刺突の間合いへと踏み込もうとした。

──だが、真の脅威はそこではなかった。

リデルの背後で、不自然に大気が鳴った。

 

(──来る!)

 

直感がそう叫んだ瞬間、リデルは思考を挟まずに真横へと跳躍した。

すれ違うように、背後から襲いかかってきた濃密な殺気の塊が、つい一瞬前までリデルが存在していた空間を獰猛に通過していった。キィン、と凍てついた刃が空気を鋭く引き裂く音が、鼓膜を震わせる。

二人目だ。

庭園の別の茂みの陰から、もう一人の刺客が音もなく躍り出ていた。こちらも同じく庭師の衣服を纏ってはいたが、その手に握られているのは、草木を育むための剪定道具などでは断じてなかった。

リデルは冷たい石畳の上で低く着地し、瞬時に体勢を復元しながら、冷徹な目で状況を俯瞰した。

前方に一人、背後に一人。

血に濡れた右の掌が、心臓の鼓動に合わせてじくじくと熱く脈打っている。

 

(──なるほど。これが、ジャックの言っていた『赤手組』か)

 

少年の心の中に、恐れや焦りといった感情は微塵も存在しなかった。

どこまでも冷ややかな、状況を分析するためだけの氷の思考が、静かに駆動し始めていた。

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