31話
歓迎の宴が催されたのは、宰相府の大広間であった。
天井から吊るされた無数の燭台が、集った貴族たちを黄金の光で満たしていた。長卓には贅を尽くした馳走が並び、お抱えの楽師たちが華やかな旋律を奏でている。新宰相を迎えるべく、ヴェーデル公国の旧臣たちが一堂に会していた。
その中心に、リデルがいた。
リーフィアは、大広間の壁際から、遠く離れた主君の姿を静かに眺めていた。
リデルは、笑みを浮かべていた。
普段の彼からは滅多に見られぬ、至って穏やかで柔和な微笑であった。相手の言辞に細やかに耳を傾け、適切な言葉を返し、時には軽妙な冗談を交えて場を和ませる。挨拶に訪れる貴族たちは、誰もが次々に満足げな表情を浮かべて去っていった。
客観的に見れば、それは完璧極まる貴族としての社交の振る舞いであった。
だが──リーフィアの目だけは欺けなかった。
顔に笑みは貼り付いており、声音も穏やかそのものだ。だが、視線の焦点がどこか遠く、底知れぬ深淵を向いている。彼の双眸は、この華やかな狂宴の場ではなく、全く別の何かを見つめていた。
(城門で、ジャックが耳打ちした内容が何であれ……)
リーフィアは果実酒の入った杯を手に、静かに思索に耽っていた。
「お一人ですか」
不意に、背後から声をかけられた。
振り返ると、一人の男が佇んでいた。年齢は三十前後。整った顔立ちに穏やかな物腰。身に纏う衣服は上質でありながらも過度な虚飾はなく、ヴェーデルの貴族らしい洗練された着こなしをしていた。
「失礼。私の名は私はジェネル。ヴェーデルの男爵を務めております」
男は気取りのない態度で、自らの素性を明かした。
「リーフィア様、ですよね。新宰相閣下の最も近くでお仕えしている方だと伺っております」
「はい」
リーフィアは内心の辟易を完璧に推し隠し、主君の名誉を重んじて礼儀正しく一礼した。
「お声がけいただき恐縮に存じます、ジェネル様」
「こちらこそ。実を言えばね」
ジェネルは少し気恥ずかしそうに肩をすくめた。
「大広間でお見かけしたその時から、声をかけようか否かずっと迷っていたのです。あまりにも美しく、そしてどこか儚げな佇まいをされていたもので」
「……ご冗談を」
リーフィアは眉一つ動かさずに淡々と応じた。貴族の夜会における退屈な定型句に過ぎないと断じたのだ。真に受けて過剰に反応する価値もない。
「おや、冗談などではありませんよ」
ジェネルは苦笑を漏らしながら言葉を継いだ。
「ただ、つぶさに観察してみれば、何やら酷く気に病んでいることがあるようにお見受けしたのです。慣れぬ異郷の地に赴任したばかりで、色々と心労も絶えないのでしょう。些かでも気分転換になればと思い、不躾ながらお声をかけた次第です」
「気に病むなど、そのような事実は──」
「あるいは、新参者に主人を奪われた『嫉妬』に苦しんでいるようにも見えましたが……ふむ、私の気のせいでしたかな」
リーフィアは思わずジェネルへと視線を走らせた。
きっ、と冷徹な双眸が鋭く尖る。
「……滅相もございません。断じてそのようなことは」
「おっと、これは失礼いたしました」
ジェネルは口先だけで謝意を示したが、その唇の端には確かな愉悦の笑みが残されていた。
「では、私はこれで。また何か困りごとでもあれば、ヴェーデルの先輩としていつでも力になりましょう。どうぞお気軽に」
それだけを残すと、ジェネルは軽く会釈をし、またたく間に華やかな人混みの向こうへと消えていった。
リーフィアはその去りゆく背中を凝視していた。
自然と、杯を握る指先にじわりと力がこもる。
──嫉妬。
その単語が、呪いのように脳裏にこびりついて離れない。
否定した。毅然と、正しく撥ね退けたはずだ。あの男の観察眼など徹頭徹尾、見当違いであると。
だが──。
リーフィアは再び、大広間の中心へと視線を戻した。
リデルの隣には、いつの間にかミナ・リヴィルが並び立っていた。ヴェーデルの旧臣とおぼしき貴族が、新宰相と、名高い若き『剣聖』に対し、同時に挨拶を交わしに来ているようだった。ミナは静かに、しかし威風堂々と佇んでいる。その腰に佩かれた愛剣グラディアが、頭上の燭台の光を鋭く弾き返していた。
その様は新世代の代表を示すように、象徴的だ。
剣の実力においても、ミナは自分より遥かに格上だ。
リーフィアは、その残酷な事実を嫌というほど知っていた。トルデランの戦いにおいて、屈強な敵兵五人を瞬時に無力化した彼女の神速の剣技を、自分は間近で目撃したのだ。あの神業のごとき速度と精度には、逆立ちしても届かない。
大広間の反対側に目をやれば、そこにはジャックの姿があった。複数の貴族たちと軽薄に談笑しながらも、その実は大広間にいる全員の動向を完全に把握している──そんな酷く冷徹な目をしていた。あの卓越した情報収集能力と、参謀としての怜悧な判断力もまた、自分には持ち合わせていないものだ。
自分は、護衛として彼の側に仕えてきた。
これまでのバートン領においては、それこそが己の確固たる役割であった。リデルの傍らに立ち、剣を帯び、有事の際には身を挺して動く。それだけが、自分の存在価値だった。
だが、この新天地においてはどうだ。
剣技においてはミナがおり、謀略においてはジャックが、政務の実務においてはコールがいる。
──ならば、私が彼の傍らに立ち続ける意味とは、一体何なのだ。
リーフィアは杯の中の琥珀色の液体をじっと見つめた。大広間の華やかな喧騒が、耳の奥で遠のいていく。
リデルは、未だ完璧な笑みを崩していない。背後に潜む何者かを、極限まで警戒しながら笑っているのだ。
その警戒の理由が何であるのか、自分には教えてもらえないかもしれない。ミナには告げるかもしれない。そして、ジャックは最初からすべてを知っている。
私は、ここで一体何をしているのだろう。
その暗い問いかけが、底冷えのする胸の奥底へと、静かに、深く沈殿していった。
リーフィアは、ふと大広間を見渡した。
ジェネル男爵の姿は、容易に見つかった。別の貴族と親しげに談笑しながら、優雅に葡萄酒の杯を傾けている。
リーフィアは手にしていた杯を近くの卓へと置くと、迷いのない足取りで人混みをかき分けた。
「ジェネル様」
呼びかけられたジェネルが振り返り、意外そうに眉を上げた。
「おや、リーフィア様。一体いかがなされました?」
「少し、お体を貸していただけますか」
「ええ、喜んで」
ジェネルは隣の貴族に短く断りを入れると、リーフィアの隣へと並んだ。
「先ほどは些か無礼な物言いをいたしました。お許しを」
「いいえ、気にしておりません。それよりも、何用で?」
「この国の実情を、少し教授していただきたくて」
リーフィアは大広間の壁際、喧騒から切り離された静かな場所へと歩みを進めながら、淡々と告げた。
「新宰相に仕える身として、ヴェーデルの複雑な内情を把握しておきたいのです。特に──旧臣の方々が抱く、腹の底の本音というやつを」
ジェネルはリーフィアの横顔を覗き込んだ。そこには先ほどまでの儚げな揺らぎはなく、酷く真剣な光を湛えた武人の目が据えられていた。
「……なるほど」
ジェネルは、その唇から不敵な笑みを完全に収めた。
「それは、退屈な社交辞令ではなく、本物の『友誼』として受け取ってもよろしいのかな?」
「ええ、そのつもりです」
「面白い。では、お付き合いしましょう。ただし、私とて万能ではない。知らぬことは知らぬと正直に申し上げますよ」
「それで十分です」
二人はさらに、人目のつかない広間の陰へと向かった。
───
ほぼ時を同じくして、リデルは大広間の中心で、隣り立つミナにだけ聞こえる低い声で語りかけた。
「少し付き合え。別室で話がある」
ミナは即座に首を縦に振った。
離れた場所にいたジャックが流れるような自然な動作で合流し、三人は気配を消して大広間を後にした。その際、リデルは一度だけ、背後の喧騒を鋭く見渡した。
「……リーフィアの姿が見当たらないな」
「ああ、俺は見てたぜ」
ジャックが、いつもの軽い口調で応じる。
「ジェネル男爵って男と、隅のほうで何やら話し込んでた。気さくで悪い噂のない男さ」
「ジェネル、だと?」
「ヴェーデルの古参の中じゃ、比較的融通の利く穏健派だ。リーフィアの奴も、自分なりに動く価値を見出したんだろ。放っておいても変な真似をする男じゃない」
リデルは、ほんの少しだけ思考を巡らせるように間を置いた。
「……そうか」
「行こうぜ。時間がないんだ」
ジャックの促しに従い、三人は冷涼な廊下へと滑り出た。
宰相府の奥深く、完全に人払いを施した一室に、三人だけが立て籠もった。
室内には、たった一本の燭台だけが揺らめいている。
ジャックは背後の重い扉が完全に閉まったことを確認すると、表情を引き締めて口を開いた。
「──改めて、詳細を話す」
彼のトレードマークであったあの軽薄な声音は、跡形もなく消え失せていた。
「三日前、ヴェーデル公国の東の国境から、帝都の商人を名乗る一団が入国した」
リデルが応じる。
「記録が残っているということは、表向きは正規の手続きを踏んでいるのだな」
「ああ。人数は四名。だがな、その身のこなしにただならぬ違和感を覚えた国境の衛兵が、目ざとく俺のところに報告を上げてきた。そこで俺の伝手を使って、その手の『裏稼業』に精通している男を、奴らの滞在先へ潜入させたんだ」
ミナが息を潜めて、その言葉の先を待つ。
「……それで、何者だったのだ」
ジャックは、わざと一拍の間を置いた。
「──『赤手組』だ」
刹那、室内の空気が氷結した。
「……赤手組だと?」
ミナの声が一気に低く殺気を帯びる。
「見間違いではないのか」
「ああ。潜入させた奴も、昔その末端で泥仕事を手伝わされた経験があってな。奴らが放つ独特の血生臭さは見間違えようがない、と断言していやがった」
──赤手組。
その悪名高き暗殺組織の名は、リデルとて深く記憶に刻んでいた。連合帝国の黎明期より闇に蠢いてきたとされる、暗殺専門の秘密結社、暗殺ギルドである。依頼主の秘匿、そして標的の確実なる排除。その徹底された組織力と、異常なまでの任務達成率の高さから、大陸各地の権力者たちが政敵を葬るために密かに利用してきた、闇の怪物たちである。
「依頼主は、誰だ」
「不明だ。それこそが奴らの商売の生命線だからな。どれほど金を積もうが、依頼主の素性が表に出ることは絶対にない」
「目的は」
「正確な裏付けは取れていない。だが──」
ジャックは、その目をリデルへと向けた。
「このあまりにも都合のいいタイミングでヴェーデルへ潜り込んできたんだ。お前が新たな宰相として、この地に足を踏み入れるその瞬間に合わせてな」
部屋のなかに、重苦しい沈黙が居座る。
「つまり」ミナが、静かに、しかし確信を込めて言葉を継いだ。
「奴らの標的は──リデル殿、ということだな」
「ほぼ間違いねえと、俺は踏んでいる」
ジャックは不機嫌そうに腕を組んだ。
「考えてみれば、当然の話だ。十三歳のガキが異国の宰相に就くという衝撃的な噂は、すでに帝国中に知れ渡っている。お前の存在を不快に思う連中は、何もヴェーデルの旧臣だけじゃない。女神教派の人間、ローズヴェル公国内の反グランツ派、あるいは隣国の他勢力……。リデル、この乱世において、お前の首を欲しがる理由を持つ奴らなど、それこそ腐るほど存在するのさ」
リデルは、その不吉な報告を、椅子に深く腰掛けたまま静かに聞いていた。
その表情は、不気味なほどに凪いでいた。
しかし、その瞳の奥底だけは──昼間、城門前でジャックから囁かれた瞬間と全く同じ、あの底冷えのする冷徹な光を宿していた。
「分かった」
リデルは、短く応じた。
「情報の続報が入り次第、すぐに私に回せ」
「当然だ。だが、一つだけ忠告しておくぜ」
「何だ」
「赤手組の暗殺は、決して正面からは仕掛けてこない。どこから、いかなる手段で牙を剥くか、事前に察知するのは不可能に近い。警戒を怠るなとは言うが、過度に萎縮すれば、それ自体が命取りの隙になる」
「知っているさ」
「……知っている、だと?」
「ああ」
リデルは、静かに椅子から立ち上がった。
「まえの時も、これと似たような有象無象に何度も狙われた経験があるからな」
ジャックはその一言の真意を測りかね、怪訝そうに眉をひそめたが、少年の底知れぬ雰囲気に圧されてそれ以上は追及しなかった。
「とにかく、今夜は細心の注意を払え。歓迎の宴が引いた後は、信頼できる身内だけで固まって行動するんだ」
「そうしよう」
ミナが腰のグラディアの柄へ、そっとしなやかな手を添えた。
「私は、今夜からリデル殿の護衛として影に就く」
「助かる。だが──」
リデルは、少女の凛とした横顔を見つめた。
「あまり無理はするなよ、ミナ。お前にはお前が守るべき領地と領民がいるはずだ」
「リヴィル領の統治は、現在は完全に安定している。ここで新宰相の盾となることこそが、今の私の果たすべき役割だ」
リデルはそれ以上、彼女の頑なな決意を拒むことはしなかった。
「では、大広間へ戻ろう。これ以上席を外せば、邪推を生む」
三人は再び、冷涼な廊下へと足を踏み出した。
閉ざされた扉の向こうからは、未だ楽師たちが奏でる華やかな旋律が、微かに響き続けていた。




