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30話

ヴェーデル公国へと向かう馬車の中、リデルは長椅子の向かいに座る二人の部下に視線を向けた。

激動のバートン領時代を共に生き抜いてきた、コールとリーフィアである。

 

「一つ、聞いておきたいことがある」

 

規則正しい馬車の揺れと蹄音がしばらく続いた後、リデルが静かに口を開いた。

 

「バートン伯爵家を廃嫡され、領地を追われたこの俺に付き従って、本当に後悔はないのか?」

 

車内に満ちていた沈黙を、リーフィアの凛とした声が明快に塗り替えた。

 

「もちろんでございます、リデル様。最初からその覚悟にございました。実家の両親にも事前に大筋は伝えてあります。父も母も、私の選択を誇らしく思うと、笑顔で背中を押してくれました」

 

「反対はされなかったのか」

 

「ええ、全く。リデル様にお仕えすることこそ、私の生涯において最も価値ある仕事になると。私自身、もう何年も前からそのように心を決めておりますから」

 

リーフィアは、いたずらっぽく、しかし揺るぎない信頼を込めて微笑んだ。

リデルはその言葉を受け、愛おしそうにわずかに目を細めた。

 

「コールは、どうだ」

 

「私も、リーフィアと同じ気持ちにございます」

 

コールが即座に、しかし噛み締めるように答えた。

 

「元より、私には失うべきものなど何一つありませんでした。地方のしがない小役人の家に生まれ、大した出世の望みもなく、帳簿をめくるだけの日々……。そんな私を泥中から見つけ出し、引き上げてくださったのはリデル様です。あの時の御恩は一時たりとも忘れたことはありません。リデル様がどこへ赴こうと、地の果てまでお供いたします。それだけでございます」

 

馬車の中に、温かくも厳かな時間が流れる。

リデルは二人を見つめ、決して得難い「真の臣下」の存在に、素直に頭を下げた。

 

「……そうか。ありがとう」

 

「リデル様……」

 

「今の俺には、その忠義に見合うだけのものをすぐには返せない。だが、その言葉は深く胸に刻んでおく」

 

リデルは視線を、馬車の窓の外へと向けた。流れる景色はすでにバートン領のそれではない。

 

「ヴェーデルの宰相とは名ばかりの、いわば棘の筵だ。俺はこの国にとっての異邦人であり、つい先日まで刃を交え、この国を滅亡の淵へと追いやった張本人だからな。現地の有力者や旧臣どもにとって、俺のような小倅が突如として上に降ってくるなど、不愉快極まりないはずだ」

 

「それは……」

 

「だからこそ、気心が知れ、なおかつ腹を割って話せる有能な人間が傍にいてくれることは、今の俺にとって何よりも心強い」

 

リデルはそう言ってから、ふと何かを思い出したように、口元をわずかに緩めた。

 

「いや、そうだな。もう二人、同じように頼るべき存在がいたことを失念していたよ」

 

その時、馬車の外から御者の威勢のいい声が響いた。

 

「リデル様! 間もなくヴェーデル公都に到着いたします!」

 

「ああ、分かった」

 

リデルは馬車の窓枠に手をかけ、外の様子を窺うように顔を出した。

前方に、重厚な石造りの公都の城門が見えてきた。

その門の前には、数十名の守備兵の先頭に、並んで立つ二人の人影があった。

一人は、銀色の細剣を腰に佩いた少女。長い髪を夕風に揺らし、凛とした眼差しでまっすぐにこちらを凝視している。ミナ・リヴィルであった。

もう一人は、上質な外套をだらしなく羽織り、相変わらず軽薄な笑みを浮かべている男。ジャック・ルードである。

ジャックが馬車の接近に気づき、大袈裟に手を振った。

ミナはその隣で、呆れたように小さく溜め息をつく。

 

「相変わらず、分を弁えぬ軽い男だな。これから我らの宰相となられるお方に対して」

 

「おっと、俺は新宰相閣下の右腕筆頭候補だからね。これくらいの親密さは当然の特権さ」

 

馬車がゆっくりと城門の前で停止し、リデルが静かに地を踏んだ。

 

「待たせたな、二人とも」

 

「いや、待ってないぜ。我らがヴェーデル公国の新しき宰相閣下を、城門までお出迎えに上がったまでさ」

 

ジャックが軽快に笑いながら歩み寄る。

ミナも一歩前に出て、武人らしく一礼した。

 

「リデル殿。長旅、ご苦労にございました」

 

「ああ。しかし、まさかお前たち自らが出迎えてくれるとは思わなかった。驚いたよ」

 

リデルは二人を見つめ、率直な感想を口にした。

「当然だろ」ジャックが肩をすくめる。「新しい宰相が着任早々、知った顔が一人もいないんじゃ、心細くて泣いちまうかもしれないからな」

 

「配慮に感謝する」

 

「お世辞はいいって。それより、まずは用意された邸へ向かおう。長旅で疲れているだろうし。今晩の歓迎会に備えて、休んでくれ」

 

「そうですね」ミナが先導する。


「リデル殿の屋敷は、城の南側に位置する宰相府に用意してある。こちらへどうぞ」

 

一行は城門をくぐり、公都の街並みへと入った。

道中、自然とリデル、ジャック、ミナの三人が並んで歩く格好になり、少し後ろをコールとリーフィアが従うように歩いた。

公都は想像以上に活気に満ちていた。一度は敗戦し臣従したとはいえ、人々の営みは力強く続いている。リデルが一時的な軍政の最中に布告した迅速な戦後処理や施策の余韻が、街の平穏を支えているようだった。

 

「街の様子はどうだ、ミナ」

 

「領民の動揺は完全に収まっている。特にリデル殿が指示された税制の刷新は、困窮していた民の心を完全に掴んだまま。あなたを救世主のように慕う者も少なくない」

 

「そうか」

 

「だが……旧ヴェーデル家の古参の臣下たちの中には、あなたを『侵略者の小倅』と呼び、快く思っていない者が大勢いるも確か。表立って口には出さないが、水面下では不穏な空気が漂ってもいる」

 

「当然だろうな。むしろ、それくらいの反発がなければ拍子抜けする」

 

ミナは少し驚いたようにリデルの顔を見た。

 

「リデル殿は……それでも全く動じる気配がありませんな」

 

「気にしていないわけではない。だが、最初からすべての人間に好かれようなどという甘い幻想は持っていないだけだ」

 

ミナは小さく、感銘を受けたように頷く。


「……相変わらず。ある意味、ブレないお方だ」

 

「お世辞を言っても始まらないさ」

 

しばらく歩いたところで、ミナが足を止めて振り返った。

 

「見えてきた。あの白い石造りの建物が、これからの宰相府、および宰相邸となります。まずは内部の構造をご案内いたしましょう」

 

ミナが先を歩き始め、コールとリーフィアもそれに続こうとした。

──その瞬間であった。

ジャックがすっとリデルの傍らに寄り、歩調を緩めた。

 

「……ちょっとだけ、耳を貸してくれ」

 

その声は極めて低く、いつもの軽薄な調子とは明らかに異なっていた。

 

「何だ」

 

「───」

 

ジャックがリデルの耳元に顔を近づけ、ごく短い言葉を囁いた。

その内容が何であるかは、傍目には全く窺い知ることはできない。

少し後ろを歩いていたリーフィアは、その一連の光景を鋭く見つめていた。ジャックが不穏な様子で耳打ちをしていることは分かったが、当然中身までは聞こえない。

だが──リーフィアの心を酷くざわつかせたのは、それを聞いたリデルの「顔」だった。

耳打ちが始まった瞬間こそ、リデルは普段通りの平然とした表情を崩さなかった。しかし、ジャックの言葉が進むにつれ、その顔から一切の感情が、じわじわと剥ぎ取られていった。

完全に、表情が消えたのだ。

口元の微かな笑みが失せ、瞳の奥からすべての光が引き波のように引いていく。代わりにその双眸に宿ったのは、もっと深く、もっと悍ましいほどに冷徹な「何か」であった。

それは、戦場で何万という兵の生死を冷酷に計算していた時の顔ではない。もっと個人的で、静かで、底の知れない怒りと険しさを孕んだ異様な表情だった。

リーフィアは思わず、その圧倒的な圧迫感に足を止めてしまった。

ジャックは耳打ちを終えると、さっと身体を離した。その顔にはいつもの軽薄な笑みが貼り付いていたが、目だけは一切笑っていなかった。

 

「じゃあ、詳しい話は今晩、歓迎会の合間を見て改めて」

 

ジャックは何事もなかったかのように、ミナたちの後を追って歩き出した。

リデルは、ほんの一瞬だけ、その場に縫い付けられたように静止した。

傍らに立つリーフィアには、その刹那の沈黙が、気が遠くなるほど長く感じられた。

やがて、リデルは何事もなかったかのように再び歩みを進めた。普段と変わらない、落ち着いた足取り。

だが、横から見る彼の輪郭は、石のように硬く強張っていた。

石畳を踏み鳴らす足音が、規則正しく、しかしどこか重々しく響く。

 

「リデル様。何かございましたか」

 

リーフィアはたまらず一歩詰め寄り、声を潜めて呼びかけた。

リデルは、振り返らなかった。

 

「──後で話す」

 

それだけだった。

そのあまりにも静かすぎる声の平静さが、かえってリーフィアの胸の奥底へと、拭い去れない冷たい不安の影を落としていった。

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