29話
二人きりになった会合の間は、耳が痛くなるほど静まり返っていた。
他の家臣たちは、張り詰めた空気を察して気を利かせ、速やかに退室していった。引き違いの窓の向こうには、濃密な夕暮れの闇がすぐそこまで迫っている。
長卓を挟み、真っ正面から向かい合って座る。リデル・バートンと、ラムズ・ドーヴィル。
沈黙を先に破ったのは、老練なる重臣のほうであった。
「して、話とは何にございますか」
その声音は、いつもと何一つ変わらなかった。どこまでも静かで、重々しく、一切の底を見せない深い声。
「出ていく前に、最後の仕事を済ませたいだけだ」
リデルは、短く、そして一切の敬語を排した冷徹な声で答えた。
ラムズはそれを聞いて、老いた目元をわずかに細めた。
「ならば、存外に簡単な話でしょう」
低く呟きながら、ラムズは平然と上着の懐へと手を入れた。
彼が取り出し、長卓の上に置いたのは、一挺の短銃であった。
一般的なものより精巧な護身用。金属部分は鈍く光り、隅々まで完璧に手入れが行き届いている。日頃から暗殺を警戒して持ち歩いていたものか、あるいは、この瞬間のためにあらかじめ用意していたものか。
ラムズは、その短銃を長卓の木目の上で静かに滑らせた。
そして──その黒い銃口を、向けた。
ただし、対面に座るリデルに向けてではない。
ラムズは銃口を、自分自身へと向けていた。
「銃口を真に向けるべき者に向け、引き金を引く。……それだけで、すべては綺麗に解決するでしょう」
静かな声だった。そこには死を恐れる哀願も、相手を試すような芝居も、あるいは引き際を演じる虚飾もなかった。ただ、冷徹な事実だけを淡々と述べる声音であった。
ラムズは自分に向けられた銃口から目を離さないまま、言葉を重ねる。
「ジョルジュ様の病状と、今後の公国の動乱を考えれば、バートン家の将来は決して盤石ではない。私がこのままこの領地に残れば、いずれあの家は私の手の内に収まる。……リデル様は、それを百も承知のはずだ」
「ああ」
リデルは、短く肯定した。
「分かっているさ」
ラムズはそこで初めて、銃口から目を離してリデルを真っ直ぐに見据えた。
「ならば、なぜ私をここで処刑しないのです」
リデルは卓上の短銃を、一度だけ冷ややかに一瞥した。それから、視線をラムズの濁った瞳へと戻す。
「お前をここで排除するのは、私の本意ではない」
「……何と言われました?」
「むしろ、その逆だ。俺がこの領地を出ていった後──バートン伯爵家の生殺与奪は、すべてお前に一任する」
部屋の空気が、完全に凍りついた。
ラムズは、言葉を失ったようにしばらくの間ピクリとも動かなかった。老獪な頭脳をもってしても、目の前の少年が放った言葉の真意が、瞬時には理解できなかったのだ。
やがてラムズは、卓上の短銃を静かに懐へと戻すと、値踏みするような目でリデルを凝視した。
「一体どのような風の吹きまわしで」
「単純なことだ。時に、お前の頭脳と政治的力量は、公国の重臣であるフランク・ロングードやドン・ヴィステルに何ら引けを取らない。私はそう見ている」
ラムズの瞳の奥が、わずかに、しかし確実に揺れた。
「買い被りが過ぎますな」
「そうは思わない。お前がこれまで一伯爵家の家臣という小さな枠に甘んじていたのは、単に機会がなかったからだ。そして──」
リデルは身を乗り出し、残酷な事実を突きつけた。
「──何より、お前自身の『詰めの甘さ』ゆえだ」
ラムズは、反論しなかった。
「父上に対する忠誠心なのか、それともお前自身の臆病な性分なのかは知らない。だが、その気になれば、お前はいつでも我が家を乗っ取ることが可能だった。それほどの力量がありながら、お前は動かなかった」
「重ね重ね、買い被りが過ぎる」
「かもしれないな。だが、私の見立てはそうだ」
リデルは窓の外へと一度、視線を投げた。夕暮れの黄金は消え去り、夜の濃い青が世界を支配し始めている。
「これからの乱世は、今までの比ではないほどに苛烈極まるものになる。帝国は内側から崩壊し、公国同士が互いを喰らい合い、諸外国もこの機に介入するだろう。その地獄の中で生き残れるのは、より有能で、より容赦のない者だけだ」
「左様。ですな」
「バートン家も同じだ。俺がいなくなった後、この家を生かすも殺すも、すべてはお前次第になる。そのための力も牙も、お前はすでに持っているはずだ。ならば──好きに使うがいい」
ラムズは卓の上で深く指を組み、声音を一段と低く沈めた。
「……一つ、確認させていただきたい」
「言ってみろ」
「もし、私が我が身の野心のために、なりふり構わず動いた結果として──」
老重臣は、冷酷な光をその目に宿して言い放った。
「──ジョルジュ様やシャルロット奥方が、その過程で命を落とすことになっても、本当に構わないと?」
部屋に、恐ろしいほどの沈黙が落ちた。
リデルは微じろぎもせず、ラムズの目を真っ正面から射抜いていた。
「構わない」
至って静かに、少年は答えた。
「ただし──」
次の瞬間、リデルの瞳の奥に宿る光が、完全に変質した。室内の温度が、一気に底まで削り落とされる。
「その時は、お前を殺す。死んだ方がマシだと、十分に苦痛と後悔を与えた後にな」
それは、虚勢を遥かに超えた、絶対的な「宣告」であった。
ラムズはその言葉の重圧を真っ正面から受け止め、しばらくの間、彫像のように動かなかった。
それから──老いた顔の口元が、ゆっくりと、歪に吊り上がっていった。
それは、笑みであった。
リデルがこれまでこのバートン邸で見てきた、計算された温和な微笑でも、社交上の冷徹な笑みでも、勝利を確信した時の嘲笑でもない。
己の魂の本質を突かれ、腹の底からこぼれ落ちてしまったような、剥き出しの笑みであった。
「……とんだ我儘な糞ガキめ」
「ああ、その通りだ。俺は我儘なガキさ。それについては否定しない」
低く、しかしどこか愉しげな響きを孕んだ声だった。
リデルはその侮蔑の言葉を向けられても、不快そうにするどころか、あっさりとそれを認めてみせた。
二人はしばらくの間、互いの魂を覗き込むようにじっと見つめ合っていた。
この一年半というもの、二人は常に互いの腹を探り合い、騙し合ってきた。
そのすべての泥沼のような足跡を経て、二人は今、この不可逆的な信頼関係が成り立っていた。
決してこの先も交わる事のないものではあるが。
リデルが、静かに椅子から立ち上がった。
「この乱世、お前の器が本物なら、再び私たちは相対する事になるだろう。その時、俺も本気で相手をしてやる」
ラムズもまた、ゆっくりとその大柄な身体を立ち上がらせた。
その老いた両目には、もはや隠しようのない、ギラギラとした純粋な闘志が宿っていた。老獪な重臣が、人生のすべてを賭けた計算も年齢も、そのすべてを脱ぎ捨てた時の──牙を剥いた一匹の獣の目であった。
「……喜んで」
短く、しかし地響きのような重みのある言葉だった。
「その日を首を長くして、お待ちしておりましょう。──リデル様」
静かに頭を下げた。
それが二人の怪物の、しばしの別れであった。




