3話
あれから一ヶ月。予測は概ね的中した。
ローズヴェル公からの督促は書状止まりで、督促団が来る気配はなかった。他の家臣に金を無心するのに忙しく、それどころではないのだろう。
帝室の使者も、ガルヴェが握らせた金貨5枚ほどの「小遣い」で満足して帰っていった。結局、どこの派閥の使者だったのかは判然としないままだ。
外交の懸案を棚上げにしたリデルは、その間に別の作業へ没頭していた。
夜、執務室の机には山のような帳簿が積まれていた。10年分の徴税記録、土地台帳、家臣団への封土記録。リーフィアが茶を運んでくるたびに、その山はむしろ増えていく。
「リデル様、もう日付が変わります」
「あと少しだ」
リデルはページをめくる手を止めなかった。
数字は嘘をつかない。嘘をつくのは常に人間だ。前世で何百もの汚職官吏を処刑台に送った経験が、12歳の脳内で即座に異常を検知する。
バートン伯爵領の7割は家臣団の封土であり、残り3割がバートン家の直轄領。封建制度としてはありふれた割合だが、問題はその3割の徴税額だった。
(直轄領からの納税率が、いくら何でも低すぎる)
収穫高と実際の納品記録を照らし合わせる。通常なら4割が相場の税率が、帳簿上は2割そこそこしか届いていない。消えた2割の理由は「不作」「鼠害」「運搬による損耗」などと記載されていた。
(古典的すぎるな)
前世でも嫌というほど見た手口だ。管理を任された役人や税吏が、税金を横領し私腹を肥やす。
計算板を弾き、10年分の「消えた税額」を合算したリデルは、思わず低く笑った。
「リデル様?」
リーフィアが心配そうに声をかける。
「いや、なんでもない。少し呆れただけだよ」
消えた税の総額は、バートン家の年間維持費の数年分に達していた。これだけあれば、インフラ投資も領地の開拓も容易だったはずだ。だが現実の財政は常に火の車だった。
一方で、リデルは家臣領の報告書を開く。
筆頭家老ラムズ・ドーヴィルの領地は、この10年で人口が2割増え、新たな用水路が3本も引かれ、街道まで整備されていた。
それだけではなく、ラムズ領は税率が低く、免税措置もある。対して直轄領は、表向きの税率は他の領地と大差ないものの、様々な「臨時の追加負担」が課され、実質的な搾取が続いていた。そう、先の追加軍役や貢納のような急な出費のためだ。
(人と金が、直轄領からラムズ領へ流れるよう設計されている)
それも、10年単位で、誰にも気づかれないほど緩やかに。
リデルは帳簿を閉じ、椅子に深く背を預けた。
(実に見事だ)
単なる横領ではない。直轄領を計画的に「やつれさせ」、その間に自領を肥え太らせる。時間をかけてバートン家を内側から食い尽くす構造だ。しかも、直轄領の徴税担当者の半数以上が、過去15年の間にラムズの推薦で任命されていた。
病床の当主、幼い後継者、空洞化した直轄領、肥え太る家臣。
すべての駒が、ひとつの絵を描くために配置されている。
前世で自らも数々の「絵」を描いてきたリデルには、その完成形がはっきりと見えた。
あと数年でバートン家は財政破綻し、立ち行かなくなる。その時、誰が「やむなく」全権を委ねられることになるか。答えを出すまでもない。
「リーフィア」
「はい」
「明日、領内の視察に出る。直轄領の村をいくつか回りたい」
リーフィアが目を瞬かせた。
「視察、ですか。ラムズ様には……」
「いや」
リデルは静かに帳簿を重ねた。
「今回は、誰にも伝えないでくれ。領民の『生』の暮らしを見たいんだ」
燭台の灯りが、12歳の少年の顔に、冷酷で不敵な笑みを浮かび上がらせた。
───
翌朝、夜明け前に屋敷を出た。
リデルとリーフィアは、行商人の格好をしていた。古びた外套に、薄汚れた荷車。中には日用品らしき雑貨が詰め込まれているが、これもラムズに知られぬよう、リーフィアが商人街で個人的に買い集めたものだ。
「お似合いですよ、リデル様」
「君もな。さ、行こうか」
リーフィアは髪を布で覆い、頬には煤を擦り付けている。本来の彼女を知る者なら、誰も気づかないだろう。
馬車で半日。直轄領の中でも、もっとも記録上の「不作」が多い村のひとつへ、二人は到着した。
最初に目に入ったのは、畑だった。
地平線まで続く農地は、本来であればこの時期、青々とした穂が風に揺れているはずだ。だが、目の前に広がるのは、土がひび割れ、雑草が伸び放題になった区画と、かろうじて作物が育っている区画が、まばらに混在する光景だった。灌漑用の水路は土砂で半分埋まり、水の流れすら淀んでいる。
村の入り口に近づくと、農具を担いだ老人とすれ違った。
その鍬は、刃の部分が欠け、柄には何カ所も縄が巻かれて補強されている。新調する金がない、という何よりの証拠だった。
そして、何より目を引いたのは――村人たちの目だった。
道行く者の誰もが、こちらを見ようとしない。リデルたちが「行商人」だと気づいても、近寄ってくる者も、警戒する者もいない。ただ、すれ違うだけだ。視線には、期待も、好奇心も、何もなかった。
(諦めた目だ。あの目を、前世で何度も見た)
長い圧政と貧困の末に、人がたどり着く目。何をしても変わらない、と心が学習した結果の目。
リデルも過去に何度か父と領地視察に同行したことはあるが、その時とは全く違う。しかし、記録の数字を見る限り、どちらが正確なのかは、今のリデルの中では明らかであった。
リデルは村の井戸端で、水を汲んでいた中年の女に近づいた。
「すみません、少しお話を」
女は顔も上げずに答えた。
「行商なら、何も買わないよ。なんせ金がないんだから」
「いえ、買い物じゃなくて……この畑、ずいぶん荒れていますね。いつ頃からこんな状態なんですか」
女は手を止め、初めて顔を上げた。皺の深さに対して、年齢はそう高くないように見える。三十代半ばといったところだろう。
「……あんた、よそ者だね。この辺りじゃ、珍しい質問だよ」
「旅の途中で、気になったんです」
女はしばらくリデルを見つめ、それから疲れたように笑った。
「もう十年以上だね。水路の修繕も、新しい農具の支給も、ずっと『来年』って言われ続けて、十年経った」
「十年……」
「うちは先祖代々ここで畑をやってきた自作農家でね。ジョルジュ様の時代も、税はきつかったけど、それでも我慢してきた。だって、ここはご先祖様が開いた土地だから」
ジョルジュ。父の名前が、村人の口から出た。
リデルは表情を変えず、続きを促した。
「我慢、というのは」
「今の当主様の頃は、税の取り方が荒っぽくてね。でも、皆言っていたんだ。『次の代になれば、きっと変わる』って」
女の目に、初めて何かが揺れた。
「リデル様、っていう若様が、優秀だって噂でね。貴族様たちの間でも評判がいいって聞いてた。あの方が当主になったら、この村も変わるんじゃないかって……みんな、それだけを楽しみにしてきたんだよ」
リデルは、黙って聞いていた。
自分の名前が、こんな場所まで届いていたとは思わなかった。期待、という形で。
「だけど」
女の声が、急に低くなった。
「先日の天啓の儀で、リデル様にはスキルがなかったんだろう」
リデルは、表情を変えなかった。変えてはいけない、と分かっていた。
「女神様にも見捨てられたって話だよ。背教者なんじゃないか、なんて言う人もいる。……もう、バートン家も終わりだね」
女は淡々と、何の感情もこめずに言った。怒りでも、嘆きでもなく、ただ「事実」を述べる口調だった。
その平淡さが、リデルの胸の奥に、何か硬いものを押し込んだ。
(終わり、か)
十年の沈黙の重みが、その一言に詰まっていた。期待を持つことすら、もう放棄している。それが、この村の――この領地の、現状だった。
「そう、ですか」
リデルは、それだけ答えた。
その時だった。
村の広場の方から、馬の足音と、複数の人間の足音が響いてきた。
「全員、広場に集まれ! 集まらぬ者は処罰の対象とする!」
怒声だった。
井戸端の女が、瞬時に顔色を変えた。手にしていた水桶を取り落とし、転びそうになりながら声のした方へ走り出す。村中の人々が、同じように家から出てきて、何かに引かれるように広場へと向かっていた。
リデルとリーフィアも、人波に紛れてその後を追った。
広場の中央には、馬に乗った男が一人。その後ろに、徽章をつけた役人らしき男が三人、書状を手にして立っている。村人たちが集まり終わるのを待って、役人の一人が声を張り上げた。
「お前たちに告げる! ローズヴェル公への軍役、並びに帝室への貢納のため、当領主代行リデル様のご命令により、本村に対し臨時徴税を実施する!」
広場が、凍りついた。
リデルの背筋にも、冷たいものが走った。
(私の、命令?)
そんな指示を出したことは、一度もない。
「リデル様のご命令により」――その一言が、広場中に響き渡っていた。村人たちの目が、一斉に虚ろになっていく。
女の言葉が、リデルの中で反響していた。
もう、バートン家は終わりだね。
リデルは、人波の中で、静かに役人の顔を見上げた。




