27話
公都を出て、しばらく馬を進めたところで、リーフィアが口を開いた。
「……それで」
その声は、いつもの落ち着いたものではなかった。
「リデル様は、自らを廃嫡にし、バートン家から追放するよう提案された、と」
「ああ」
「自分で」
「そうだ」
リーフィアは、しばらく黙った。馬の蹄音だけが、街道に続いた。
「……気でも狂われましたか」
静かな声だったが、中身は直球だった。
「随分と酷い言い方だな」
「酷くありません。誰もがそう言います」
リーフィアは、馬を並べてリデルの横顔を見た。
「バートン家は、リデル様が戻られる場所です。当主代行であり、お父上がご存命の間にその跡を継がれるべき方が、自ら廃嫡を申し出るなど。しかも今のバートン家は、リデル様なしでは立ち行かない状況にある。それをご自分でご存知のはずなのに」
「知っている」
「では、なぜ」
「処分が執行される前に、何とかするよ」
「そういうわけでは」
リーフィアは、引かなかった。
「ともかく。ローズヴェル公は、それを追認されたのですか」
「沙汰は追って出す、と言われた」
「追って、ですか」
「ああ」
リーフィアは、前を向いた。しばらく黙って、馬を進めた。それから、再び口を開いた。
「リデル様」
「何だ」
「もしや今回も、何か起死回生の策を練っていらっしゃるのでは」
リデルは、少し間を置いた。
「ない」
「……え」
「策はない。今回ばかりは、向こうの出方次第だ」
リーフィアが、目を見開いた。
「策が、ない?」
「ない」
「リデル様が、策なしで動かれることが……」
「珍しいか」
「非常に」
リデルは、短く笑った。
リーフィアは、その笑みを見て、かえって眉をひそめた。
「……それが不思議なのです」
「何が」
「策がないとおっしゃっている。処分がどうなるか分からないとおっしゃっている。なのに、リデル様は今日、随分と上機嫌でいらっしゃいます」
街道の両脇に、夕暮れの光が伸びていた。
「そんなにか」
「はい。非常に」
リデルは、遠くに目を向けた。まだ薄く残る光の中に、公都の輪郭が遠ざかっていくのが見えた。
「グランツ・ローズヴェルという人間を知れたからだ」
静かな声だった。
「陛下を、ですか」
「ああ。俺以外のすべてを平等にするために君臨する、と言った。あれは本物の言葉だった」
リーフィアは、黙って聞いていた。リデルは前世の思い出まで遡って思い出す。
「これまで、様々な人間を見てきた。権力を求める者、金を求める者、安全を求める者。それぞれに理由があって、それぞれに嘘をついて、それぞれに動いている」
リデルは、手綱を緩く持ち直した。
「だが、自分の欲でも、恐怖でもなく、ただ『平等にするために頂点に立つ』などという、そんな荒唐無稽なことを、本気の顔で言える人間に会ったのは、久しぶりだった」
「……それが、上機嫌の理由ですか」
「自分の運命を預けるに値する人間に会えた」
リデルは、それだけ言った。
「そういうことは、なかなかない」
リーフィアは、しばらくその言葉を聞いていた。
それから、静かに息を吐いた。
「……リデル様は、本当に変わった方ですね」
「そうか」
「はい。普通の人間は、自分の命運が定まっていない状況でそんなに穏やかにしていられません」
「そうかもしれない」
「不安ではないのですか」
「ないと言えば、嘘になるな」
リデルは、あっさりと認めた。
「ただ、そこまで悪い結果にはならないはずだ。多分」
夕暮れの残光が、二人が進む街道を鮮やかな金色へと染め上げていく。
リーフィアは、隣を行く少年の横顔を盗み見た。
確かに、彼は上機嫌だった。具体的な策もなく、自らの処分も定まらず、それでいて、どこか魂が満たされたような気高い顔をしていた。
リーフィアには、その領域の感覚はまだ完全には理解できなかった。
だが、理解はできなくとも、その揺るぎない横顔を見つめていると、胸の奥を占めていた不安が不思議と薄らいでいくのを感じる。
──そしてそれが、側近としてはまた少し腹立たしかった。
「……領地に帰ったら、まずはこの一連の顛末を報告せねばなりませんね」
「ああ、そうだな」
「ジョルジュ様も、腰を抜かさんばかりに驚かれるでしょう」
「そうだろうな。親父殿には苦労をかける」
「母上様は、驚くのを通り越して激怒されるかと」
「……それは、少しばかり心配だな」
戦場でも不敵だったリデルが、ここで初めて困ったように眉を下げ、表情を曇らせた。
リーフィアはその人間らしい反応に、小さく、悪戯っぽく笑った。
「では、少しでもお怒りが静まるような報告の仕方を、一緒に考えるとしましょうか、リデル様」
「助かる。ぜひ頼むよ」
二人は夕暮れの黄金に染まる街道を、馬を並べて静かに進んでいった。
───
リデルが退室した後、謁見の間には三人が残った。
しばらく、誰も口を開かなかった。
先に沈黙を破ったのは、ドンだった。
「……まったく」
ドン・ヴィステルは、背もたれに深く倒れながら、天井を見上げた。
「能力が超一流というのは、最初から分かっていた。報告書を読めば誰でも分かる」
指が、また動き始めた。
「だが、度胸まで超一流とは、恐れ入ったな。自分から廃嫡と追放を提案してくるとは、普通の人間には思いつかない発想だ。いや、思いついても、実行できない」
「同感だ」
フランク・ロングードが、組んでいた腕を解いた。
「あの少年は、今日この場に来た時点で、我々の思惑をすべて察知していた。女神教派の問題も、グランツの立場も、俺たちがこの場に同席している理由も。すべてを読んだ上で、ここに来た」
「そうだ」
「それで、あの廃嫡の提案だ」
フランクは、腕を組み直した。
「廃嫡されれば、バートン家には罪が及ばない。個人として追放されれば、ローズヴェル公の公式な臣下ではなくなる。つまり、女神教派の監視の目から外れる。そして同時に、グランツが自由に使える駒になる。一石三鳥だ」
「あの若さで、あの完成度か」
ドンが、細い目をさらに細めた。
「末恐ろしいな、本当に」
「ああ」
フランクは、窓際に立つグランツに視線を向けた。
「当然、こちらとしては味方に引き込みたい。あれほどの人間を敵に回せば、後々厄介なことになる。だが」
フランクは、少し間を置いた。
「しかし。キレすぎるのも、考えものだ」
「グランツ」
ドンが、公王の名を呼んだ。
「提案だが、このまま断罪してしまうのも一つの手ではないか。あの少年が自ら廃嫡を申し出た。それを受け入れ、そのまま処分という形にすれば、女神教派への示しにもなる。それに」
ドンは、指を止めた。
「あれほど頭が回る人間は、扱い方を誤れば刃が自分に向く。早いうちに、という考えもある」
グランツは、答えなかった。
窓の外を見ていた。
「グランツ」
フランクが、今度は静かに促した。
「その判断は、お前に任せる。だが、俺たちとしての意見は言わせてもらった」
グランツは、ゆっくりと振り返った。
その赤い目が、二人を見た。
「──俺の手に余る、と。二人はそう言いたいのか」
地を這うような、静かな声だった。
「そうは言っていない」
「そう言いたかったのだろう、フランク」
フランクは否定せず、ただ沈黙をもって答えた。
グランツは、かすかに口元を歪めて不敵に笑った。
「……あれほどの才能を恐れ、御しきれぬからと断罪するような矮小な器なら、どのみち俺はこの過酷な戦乱の時代を勝ち抜くことなどできん」
その言葉は短かったが、一国の王としての絶対的な威厳と覚悟に満ちていた。
「処分は、予定通りのものを下す」
「……分かった」
フランクが、立ち上がった。ドンも、同じように体を起こした。
「ただ、グランツ」
フランクが、扉の前で振り返った。
「俺たちの懸念は覚えておいてくれ。あの少年は、今は小さい。だが、時間が経てば、また別の話になる」
「ああ、覚えておく」
「ならばいい」
二人は一礼すると、厳かな謁見の間を後にした。
重々しい扉が、静かに閉まる。
広大で贅を尽くした部屋に、公王グランツ一人が残された。
窓の外には、いよいよ夜の闇が迫っていた。公都シェルリンデの街並みが深みのある橙色に染まり、家々や異民族の露店には夜を待つ灯火がぽつぽつと灯り始めている。
グランツは窓際に立ったまま、その変わりゆく光景をただ眺めていた。
それから、愛おしむように低く呟いた。
「リデル・バートン……」
その名前は、静まり返った広い部屋の空間へと静かに吸い込まれていった。
グランツはゆっくりと目を閉じた。
『女神殺し』という異端の呪われた血を引き、どれほどの孤独と冷徹さの中で、この孤独な玉座を守り続けてきたか。周囲からは操り人形と蔑まれながら、誰にも本心を打ち明けられず、ただ『平等』というあまりにも過酷な理想だけを胸の奥底に秘めて戦ってきた。
──その剥き出しの理想を告げて、嘲笑わなかった人間が、今日、この玉座の前に初めて現れたのだ。
それも、わずか十三歳の少年という姿をして。
グランツは、もう一度その名を唇に乗せた。
「リデル・バートン」
今度の呟きには、先ほどとは違う、確かな熱が籠もっていた。
それから、真紅の目をカッと見開き、窓の外の夕暮れに向かって、静かに告げた。
「女神よ」
それは祈るような殊勝な声ではなかった。むしろ、深い皮肉をたっぷりと含んだ、しかし同時に、確かな歓喜が滲む声音だった。
「お前が俺の血筋に消えない呪いを刻み込んだことを、今でも心の底から恨んでいる」
一陣の夕風が、窓の外を通り過ぎ、王の髪を揺らした。
「だが、今日この日だけは、お前に感謝の礼を言おう」
グランツは、公都の遥か先──リデルが向かった、バートン領の方角へと視線を走らせた。
「──俺と同じ時代に、これ以上ない最高の同志を配してくれたことを」
謁見の間に、深い静寂が満ちていく。
街を包んでいた黄金の光はゆっくりと薄れ、公都は静かに、しかし確かな熱を孕んだまま、夜の闇へと沈んでいった。




