26話
同じ頃、バートン領の辺境に建つラムズ邸の一室。
夜の帳が下りかけた頃合い、重厚な石造りの部屋には三人の男が集まっていた。
「父上、いよいよ潮目が変わりましたな」
ドズレ・ドーヴィルが、弾んだ上機嫌な声で言った。
三十代半ばの男だ。父ラムズの頑強な体格を受け継いだ大柄な体をしておきながら、その佇まいには父が持つ独特の凄みは微塵も宿っていない。広い部屋の空間をやや持て余すように腰掛け、ローズヴェル公から届いた書状の写しを嬉しそうに手の中で揺らしていた。
「あの『背天者』の小倅が、ついにローズヴェル公に呼び出されました。名目は命令違反の釈明などと言っていますが、実態は断罪でしょう。あれほど無謀な独断専行に及んだ以上、公王陛下がどう裁くかは火を見るより明らかです」
ドズレは、同意を求めるように父の顔を覗き込んだ。
「これからは昔のように、再び父上の天下です。奴が消えてしまえば、バートン本家の管理も以前のように我々の思い通りに戻せる。ドーヴィル家の時代が再び……」
しかし、ラムズはその言葉を聞いていなかった。
あるいは、耳に入ってはいても、聞く気がなかった。
老練な重臣はただ黙って杯を取り、それを口元へと運んだ。上質な葡萄酒が、静かにその喉を下りていく。
「……父上?」
手応えのない父の反応に、ドズレが戸惑いの声を上げた。
「本当に──」
その時、反対側の席から、確かな嘲笑を孕んだ声が上がった。
「兄上は、事の本質がまったく見えていない」
声をかけたキリル・ドーヴィルは、まだ十八歳だった。
ドズレとは腹違いの弟にあたるが、その鋭い顔立ちはどこか父ラムズの面影を強く残している。痩せた体に、少し据わった目。右手に酒瓶、左手にグラスを持ったまま、ゆったりと椅子の背もたれに身を預けていた。部屋には濃厚な酒の匂いが漂っていたが、その瞳だけは驚くほど冷徹に澄んでいた。
「キリル、貴様……!」
「兄上が今描いているのは、三年前の古い絵図ですよ。あの背天者がいなくなれば昔に戻る、と。しかしそれは、あの小僧がこの世から完全に排除されるという、都合のいい前提の上での話だ」
キリルは手元でグラスを傾けながら、淡々と続けた。
「そもそも、ローズヴェル公の本当の目的がどこにあるのか、兄上には見えていますか?」
「決まっているだろう! 事前の許可なき命令違反の──」
「単に命令違反の罪を問うためだけなら、書状一枚刑罰を伝えれば済む話だ。わざわざ本人を公都にまで呼び寄せる必要などどこにもない」
ドズレが、ぐうの音も出ずに口を閉ざした。
キリルは酒を一口含むと、不敵に笑った。
「グランツ・ローズヴェルという男は、その本質において完全な能力主義者だ。彼は血筋や家格はもちろん、この世界を支配するスキルの有無でさえも人を測らない。純粋に『その人間に何ができるか』という実力だけで人間を値踏みする」
「それは……」
「あの小僧の能力に対する評価など、グランツの頭の中ではとっくに終わっていますよ。結論も、おそらくは出ている。本音を言えば、今すぐにでも自分の右腕として引き抜きたいくらいでしょうね」
ドズレが、驚愕に目を見開いた。
「な……馬鹿なことを言うな! あれほどの命令違反を犯した大罪人を、右腕にするだと?」
「『命令違反』は単なる表向きの口実だ。その口実をあえて必要とする理由が、他にあるのですよ」
キリルは、酒瓶を長卓の木目にことんと置いた。
「──『女神教派』の不穏な動きを、父上は当然ご存じですね?」
静観していたラムズが、ここで初めて重い瞼を上げた。
「……ああ」
短く、地を幾分か這うような肯定だった。
キリルは先を続けた。
「保守的な女神教の司教たち、そして過去の熾烈な後継者争いでローズヴェル本家から弾き出された没落貴族の血縁者ども。この二者が手を組んで構成された『女神教派』は、今やローズヴェル公国における最大にして最悪の反グランツ勢力です」
「それは知っている!」
「では、その危険な派閥がなぜ今まで、表向きだけでも大人しくグランツに従ってきたのか。兄上はお分かりですか?」
ドズレは答えられなかった。
キリルは兄の無知を憐れむように、答えを待たずに言葉を重ねた。
「ヴェーデル公という巨大な『外敵』がいたからですよ。国内をまとめる上で、ちょうど良い塩梅の外圧というのは、最高の結束を生む。強すぎれば国が傾き、弱すぎれば内紛が始まる。ヴェーデル公領は、まさにその絶妙な位置にいた。グランツもまた、その均衡を政治的に利用していたのです」
キリルは声音をさらに低く沈めた。
「このままあと数年ほどダラダラと緊張状態を維持していれば、外敵への危機感から、女神教派も徐々にグランツの軍門に降らざるを得なくなる算段だったはず。慎重に、時間をかけて、国内の権力を完全に一つに束ねていく──それこそが、公王グランツの描いていた絶対の絵図だった。しかしあのバートンの小僧が、その緻密な絵図を根底からぶち壊した」
キリルはまた酒を煽った。
「わずか一ヶ月でヴェーデルを完全に屈服させ、戦争を終わらせてしまった。誰の許可も得ず、十三歳の伯爵代行が独断で、しかもこれ以上ないほど鮮やかに」
部屋に、張り詰めた静寂が落ちる。
「これが何を意味するか。女神教派の連中がこの事態をどう受け取ったか、想像できますか、兄上?」
ドズレは完全に圧倒され、押し黙るしかなかった。
「グランツ・ローズヴェルは、教義において『女神殺しの一族』の血を引くとされる異端の王だ。そして今回の戦役で、神の祝福たるスキルを持たない『背天者』の少年が、神がかり的な戦果を挙げた。──『異端の王と背天者の怪物が、裏で結託して何かを企んでいるのではないか』と、保守派の連中が疑心暗鬼に陥るのは、政治の力学としてあまりにも自然な流れでしょう」
「だが、それは根拠のない邪推だろう!」
「邪推であろうとも、大衆の間に広まればそれが事実になる。それが政治というものですよ、兄上」
キリルはまっすぐにドズレを射抜いた。
「だからこそ、グランツはリデルに対して、表向きだけでも冷酷で厳しい対応を取らざるを得ないのです。理不尽に命令違反の罪を追及し、恩賞を寒村一つの安堵だけに渋り、公都へと強制的に呼びつける。そうやって女神教派の監視の目に対して、盛大なポーズを見せつけなければならないのですよ。『私はあの不気味な背天者を決して特別扱いなどしていない』とね」
ドズレの顔から、先ほどまで浮かべていた浅薄な自信が、じわじわと剥げ落ちて青ざめていった。
「……では、リデルは……どうなるのだ?」
「もし彼が処分されるとすれば、それは女神教派に対する『政治的な生贄』としてです。だが、グランツが本当にそこまで冷徹に彼を切り捨てるかどうかは、これから直接会って、その器を確かめてからの話でしょう。おそらくは、あの小僧の口から飛び出す言葉の価値によって、生かすか殺すかを決めるはずだ」
ラムズが、再び静かに杯を口へと運んだ。
「キリル」
「はい、父上」
「お前はどう見る。あの子供は、生きてここへ戻ってくるか?」
キリルは酒瓶を見つめ、少しの沈黙を置いた。
「……八分方は、生きて戻るでしょうね。グランツの合理的精神からして、あの傑出した小僧を単なる使い捨ての駒にするには、あまりにも惜しすぎる。ただ──」
キリルは酒瓶を持ち上げ、中身を軽く揺らした。
「ただ、このまま何事もなく無罪放免、とはいかないでしょう。まぁ、状況がどちらに転んだとしても、我々ドーヴィル家にとっては都合の良い展開になりますがね。違いますか、父上?」
ラムズはその問いかけに対し、何も答えなかった。
ただ、静かに、杯の底に揺れる深紅の液体をじっと見つめ続けていた。
───
水を打ったような沈黙が、謁見の間に満ちていた。
公王グランツが放った「今この場で死んでもらう必要がある」という冷徹な宣告の余韻が、未だに重く空気の中に停滞している。
しかし、リデルはしばらくその沈黙を崩さなかった。
慌てる様子もなく、ただ平然としていた。今の彼にとって、急いで言葉を並べ立てる必要などどこにもなかったからだ。
「──好機であったからです」
やがて、少年は至って静かにそう答えた。
それだけだった。そこには自己弁護の言い訳も、許しを請うための前置きも、一切存在しなかった。
「好機だと?」
右側に座るドン・ヴィステル侯爵が、その短い言葉に鋭く食いついた。不快そうに身体を前に乗り出し、それまで動かしていた指の動きをぴたりと止める。
「お前のその軽率かつ身勝手な独断専行のせいで、こちらが国内でどれほどの混乱を被ったか、少しでも理解しているのか? このローズヴェル公国内の情勢がいかに複雑で、繊細な均衡の上に成り立っていたか……。それらを一切考慮せず、子供の浅知恵で思いつきの戦争を仕掛けた結果がこれだ。それを今さら『好機だったから』の一言で済ませられると思っているのか!」
ドンの声には、今度は本物の圧力が宿っていた。先ほどまでの芝居がかった脅しとは明らかに異なる、一国の重臣としての本気の怒気であった。
しかしリデルは、その凄まじい威圧を真っ正面から受け止めながらも、視線を逸らさずにドンを見つめ返した。
「当然、女神教派に関わる国内の複雑な情勢も含め、すべてを考慮した上での行動にございます。結果としてこの一挙が、最終的にはグランツ陛下の大業に資するものであると確信しておりましたので」
刹那、部屋の温度がわずかに変わった。
左側に座るフランク・ロングード侯爵の目が、肉食獣のように細められる。
ドン・ヴィステルは、言葉を失ったように口を閉ざした。
窓際で微動だにしていなかったグランツの、その真紅の瞳の奥に宿る光が、微かに変化した。
「──もう良い、ドン」
グランツが、静かに命じた。
「しかし、陛下……!」
「もう良いと言っている。この男の真意は、今の言葉でお前も十分に理解できたはずだ」
繰り返された声は同じように静かであったが、今度は明確な拒絶と終わりを告げる王の威厳に満ちていた。ドンは悔しげに口を閉じ、不満を隠さないまま椅子の背もたれへと深く凭れ直した。
グランツは、視線をリデルへと戻した。
「では聞こう、リデル・バートン。お前は今回の重大な命令違反について、自分自身にどのような処罰を下すのが適当であると考える?」
リデルは、ほんの少しだけ間を置いた。
「その問いにお答えする前に、一つ、私からお伺いしてもよろしいでしょうか」
「何だ」
「──グランツ様が、ご不快でなければ、という前提ですが」
グランツは真紅の目を細めた。
「構わない。聞いてみろ」
リデルは座ったまま、真っ直ぐに公王を見つめた。
「この果てなき戦乱の世において、グランツ様は一体、何を目指していらっしゃるのですか」
その不遜極まる問いに、フランクが財を成した大貴族らしく、呆れたように小さく鼻を鳴らした。
ドンは再び、不気味にその指先を動かし始める。
グランツはそのあまりにも真っ直ぐな質問を受け、しばらくの間、何も答えなかった。
「……その質問に、一体何の意味がある」
「私は今日、この場でグランツ様に『何者であるか』を問われています。であるならば、私もまた、己が仕えるべき主君であるグランツ様が『何者であるのか』を正確に知りたい。それだけのことです」
謁見の間に、奇妙なほど張り詰めた静けさが降りてきた。
フランクとドンが、驚きを隠せずに互いに目を見合わせる。わずか十三歳の少年が、公国の絶対権力者に向かって「お前の本質を教えろ」と要求しているのだ。この場の空気が読めていない狂人なのか、あるいは──。
グランツは一度だけ窓の外の広大な公都に視線を向け、何かを振り切るように、再び口を開いた。
「ただ、頂点に君臨するだけだ」
それは、飾り気のない静かな声だった。
「──俺以外のすべてを、平等にするためにな」
その凄絶な言葉が、部屋の隅々にまで厳かに広がっていった。
リデルは、グランツの顔をじっと見つめていた。
その言葉には、一切の虚飾がなかった。凡百の王が口にするような、甘ったるい大義名分の匂いなど欠片もしない。民のためでも、国のためでも、神のためでもない。ただ「自分以外のすべてを平等にする」という、剥き出しの狂気と理想がそこにはあった。
不意に──リデルの口元に、微かな笑みが浮かんだ。
今日、この緊迫した部屋に足を踏居入れてから、彼が初めて見せた本物の笑みだった。それは計算された政治的なお調子でも、臣下としての礼儀のための取り繕いでもない。前世の記憶が呼び起こす、かつて生きた「七十年分の経験」の中で、目の前の男が紛れもない『本物の器』であると確信した時にだけ浮かぶ、至高の笑みだった。
「……決心がつきました」
リデルは、静かな声で言った。
「決心だと?」
「はい。今回の命令違反について、私が考える最も適切で、最も合理的な処分をお伝えいたします」
リデルは深く腰掛け直すと、その小さな背筋を美しく正した。
「今回のトルデラン砦における独断専行は、我がバートン伯爵家の意志によるものではございません。父ジョルジュも、我が家の家臣団も、事前の計画には一切関与しておらず、何も知らされていませんでした。これはひとえに、私個人の独断と責任による行動にございます」
フランクの目が、わずかに鋭さを増した。
「ゆえに──」
リデルは言葉を区切ることなく、一気に核心を告げた。
「私めの、バートン伯爵家からの廃嫡、および領地追放処分。これこそを、我が身に下されるべきしかるべき処罰として提案いたします」
その瞬間、謁見の間全体の時間が完全に静止した。
ドンが、その指の動きを完全に止める。
フランクが、今日初めてその巨大な身体を椅子から引き起こした。
「……廃嫡、だと?」
「はい。バートン家に罪はありません。主君の命を背いた罪があるのは、ここにいる私一人だけです。私を家から完全に切り離し、罪人として追放することで、バートン家は命令違反の咎から完全に免れることができます。そして家を追われた私個人は、もはやローズヴェル公国の公式な臣下ではなく──グランツ様に対して、全く別の形で力を尽くすことが可能となる」
リデルはそこで言葉を切り、不敵な笑みを深くした。
グランツは、射抜くような視線でじっと少年を見つめ続けていた。
その真紅の瞳は、目の前に佇むスキルなしの『背天者』が、一体どれほど底知れない怪物をその内に飼っているのかを、深く確かめるように凝視していた。




