25話
ローズヴェル公王家──。
かつて群雄が割拠した大諸国時代において、西方領域の絶対的な雄として君臨し、ベルドルナ皇帝家と大陸の覇権を激しく競い合った希代の名門である。その版図は現在の三倍を超え、最盛期には周辺諸国から「西領覇王」とまで称され、畏怖されていた。
しかし、近年の凋落ぶりは目を覆うものがあった。
家督継承のたびに勃発する凄惨な権力抗争が、実に五代連続で続いたのだ。先代が世を去るたびに兄弟従兄弟が血で血を洗う殺し合いを演じ、勝ち残った者が灰燼に帰した焦土の上に立つという愚行を繰り返した結果、かつて誇った強大な国力は着実に、そして致命的に摩耗していった。
現当主グランツ・ローズヴェルに至っては、そもそも正当な後継者候補の列にすら名のなかった、四番目の妾の子に過ぎない。領内の二大巨頭であるロングード侯爵家とヴィステル侯爵家が、長年の抗争で疲弊した各陣営を都合よく取り込むために神輿として担いだ上、現在の不釣り合いな玉座に座らせたという歪な経緯があった。
ゆえに世間ではもっぱら、当主グランツは「両侯爵家が操る都合の良い傀儡王」と噂されている。
もっとも、リデルは、そのような出所の怪しい風聞だけで人間の本質を決めつけるほど愚かな男ではなかった。
───
公都シェルリンデの巨大な城門を潜り抜けたのは、陽光が傾き始めた昼下がりのことだった。
リデルは、付き従うリーフィアと数名の少数精鋭のお供を引き連れ、街道から賑やかな城下町へと馬を進めた。
「随分と賑わっているな」
リデルは馬上から、興味深そうにそう呟いた。
以前、諸々の政務で立ち寄った際よりも、明らかに街を行き交う人々の数が膨れ上がっていた。何より奇妙だったのは、その顔ぶれの多様さだった。
輝く銀髪に深い碧眼を宿した北方民族。陽に焼けた深い褐色の肌を持つ南方の民。独特の装束をまとった東方の遊牧民と思しき者たち──。かつて、ベルドルナ朝連合帝国は、それぞれの民族の居住地域を厳格な法によって区分していたが、中央政府の崩壊に伴って流民化した人々が、生きる場所を求めて各地へ溢れ出しているのだ。
同行していたバートン家のお供の一人が、馬の歩調を合わせながら不快そうに眉をひそめた。
「……到底、一国の公都とは思えぬ無様な有様ですな。異民族の流民がこれほど街中に溢れかえっているとは」
男は吐き捨てるように冷酷な言葉を重ねた。
「ローズヴェル公王家の統制力が完全に失墜している証拠でしょう。このような無秩序な人口流入を黙認するなど、嘆かわしい限りだ」
リデルは、その硬直した言葉に肯定も否定もしなかった。
代わりに、活気に満ちた街の様子を、その鋭い観察眼でじっくりと見渡した。
確かに異民族は多いが、路頭に迷う浮浪者の姿は思ったよりも極端に少なかった。
見れば、誰もが各々の荷物を運び、活気ある屋台を構え、力仕事に汗を流し、あるいは年季の入った職人風の道具を抱えて歩いている。言葉が互いに通じなくとも、必死の身振りと手振りでたくましく交易を営む若者がいた。軒先を借りてささやかな露店を営む老人がおり、通りを塞ぐ石畳を黙々と掃除する少年がいた。
「無秩序、とは少し違うな」
リデルは静かに、しかし確信を込めて言った。
「見てみろ。巷に溢れているはずの浮浪者が驚くほど少ない。彼らは皆、ここで何らかの生業や役割を見つけ、自立して生きているように見える。これは公王家が、この膨大な人口を極めて高度に統制しているという証左ではないか?」
「しかし、このように異民族を無計画に受け入れれば、いずれ治安が……」
「もちろん、その懸念はある。だがもし彼らが、他国を捨ててまでローズヴェル公王という存在に一縷の希望を見出し、この地に集っているのだとすれば──その神輿に座る人物は、我々が考える以上に大器かもな」
お供の男は、反論の余地を失ったように不満げに口を閉ざした。
リーフィアは馬上から、そっとリデルの横顔を窺った。その理知的な双眸は、賑わう人々を眺めながらも、すでにその先にある本質を見据えているようだった。
───
公国の王城門前にて、一行は厳格な衛兵たちに迎えられた。
その応対は極めて丁重であり、辺境の伯爵家に対する明確な敵意も、あるいは『背天者』たる少年への侮りも一切感じられない。出迎えの衛兵長は礼儀正しく一礼を捧げると、滞りなく一行を城の奥深くへと案内し始めた。
しかし、幾重もの壮麗な廊下を渡り、ある角を曲がったところで、先導していた衛兵が不意に足を止めた。
「──リデル・バートン様。誠に恐れ入りますが、これより先は、お一人でのご案内となります」
その冷徹な宣告に、背後にいたリーフィアが即座に鋭い一歩を踏み出した。
「お断りします。私はリデル様の護衛。どのような場であれ、主君の御身を守る義務が──」
「リーフィア」
リデルが、静かな声でそれを制した。
「構わないよ」
「ですが、リデル様。この先には……」
「一人で行く。ここで待っていなさい」
リーフィアは悔しそうに口を閉ざした。だが、その引き締まった表情には、主君の身を案じる明確な不満と警戒が残っていた。リデルは彼女を振り返ることなく、促されるまま衛兵の背を追って歩き出した。
さらに長い回廊を進み、案内された最奥の部屋の重厚な扉の前で、衛兵は深く一礼してその場を去った。
リデルは躊躇うことなく、その巨大な木扉を押し開けた。
室内は、圧倒されるほど広大だった。
壁面にはローズヴェル家の誇り高き紋章が深く刻まれ、巨大な窓からはうららかな昼の陽光が差し込んでいる。そしてその光の境界に、三人の人物が静かに佇んでいた。
まず、向かって左側。
一人の大柄な男が、豪華な椅子の背もたれに傲然と腕をかけ、不遜に足を組んで座っていた。正確には「座っている」というよりも、その圧倒的な存在感で周囲の空間ごと「占領している」と表現すべき王者の佇まいだった。頑強極まる分厚い体躯に、数々の死線を潜り抜けてきたことを物語る傷だらけの顔。その鋭い目付きは、笑うでも怒るでもなく、ただ獲物の価値を測るようにリデルを凝視していた。
そして、向かって右側にもう一人。
こちらは対照的に細身の男であったが、その瞳に宿る特異な光は左の巨漢と酷似していた。頬には古い刃の傷跡が生々しく残っている。長い足を床へと投げ出し、片肘を肘掛けに預けながら、何かを弄ぶように絶え間なく指先を動かしていた。その指の動き一つをとっても、周囲を完全に舐めきった明確な余裕が満ち満ちている。
フランク・ロングード侯爵、そしてドン・ヴィステル侯爵──。
公国を実質的に支配する二大貴族は、初手からリデルに対する最低限の礼儀すら放棄していた。それは単なる傲慢によるものではない。「この場において、お前に対する無駄な儀礼は一切不要である」という、冷酷なまでのメッセージであった。
そして、正面。
逆光が差し込む窓際に静かに立っていた人物が、ゆっくりとこちらを振り向いた。
美しくも、どこか異質な雰囲気を纏う褐色の肌。父方の血筋は高貴なるローズヴェル家であるが、その母親は異民族の出身であると聞いていた。その特異な出自の証が、この神秘的な肌の色に現れている。そして何より目を引いたのは、その双眸が、妖しくも鮮烈な「真紅」に染まっていることだった。
年齢は、二十代の前半といったところだろうか。どこかまだ少年の若さが残る端正な顔立ちだが、その赤い瞳だけが、世界のすべてを見通しているかのように妙に落ち着払っていた。
グランツ・ローズヴェル──。
この公国の若き王が、リデルを射抜くように見つめた。
リデルもまた、その視線を怯むことなく正面から受け止める。
リデルが部屋の中央で静かに足を止めると、室内に満ちていた三人の視線が一斉に彼の一点へと集中した。
リデルは、流れるような所作で深く頭を下げた。
「ご召喚に従い、参上いたしました。バートン伯爵が嫡子、リデル・バートンにございます」
恭しく形を整えながらも、必要以上に卑屈に平伏することはしない。臣下としての最低限の礼の形を維持しつつ、それ以上でもそれ以下でもない毅然とした態度だった。
「ほう……」
右側に座るドン・ヴィステル侯爵が、地を這うような低い声を漏らした。
その細身の身体から発せられたとは到底信じられないほど、不気味な重みを孕んだ声音だった。彼は弄んでいた指の動きをぴたりと止め、リデルを値踏みするようにじっくりと睨み据えた。
「いい度胸だな、小僧」
その声は一見すると穏やかであったが、室内全体の空気を凍らせるほどの凄まじい威圧が滲んでいた。明確な、静かなる脅迫だった。
「主君たる公王閣下の許可なく戦線を独断で拡大し、挙句の果てに何食わぬ顔で『参上いたしました』と抜かすか。結果として上手くいったから良いものの、一歩間違えて失敗していれば、本家をも巻き込む大惨事になっていたのだぞ。その大罪、どう落とし前をつけるつもりだったのだ? ええ?」
左側に座る大柄な男、フランク・ロングード侯爵が、鼻から退屈そうに息を吐き出した。
「ドン、相手はまだ子供だ。そう寄ってたかって詰めてやるな」
それはヴィステルの過激な言動を軽くたしなめる言葉であったが、続く声音には、むしろ先ほど以上の鋭利な刃が仕込まれていた。
「──だが、いずれにせよ『命令違反』という重大な犯罪事実が変わるわけではないがね」
フランクの冷酷な眼光がリデルを捉える。その傷だらけの厳つい顔に、一切の笑みはなかった。そこにあるのは、獲物の罪を淡々と確認する執行人の目だった。
リデルは、二人の大貴族を静かに見つめ返した。しかし、どちらの辛辣な言葉に対しても、即座に言い訳を並べ立てるような真似はしなかった。
やがて──窓際に佇んでいた人物が、静かにその口を開いた。
「よく来てくれた」
グランツ・ローズヴェルの声は、予想に反して極めて透き通っており、静かだった。二人の獰猛な大貴族が放つ圧倒的な重圧の中にあって、むしろその静寂さが異様に浮き立って聞こえるほどの、底知れない落ち着きを秘めた声。
その真紅の瞳が、リデルの存在をまっすぐに射抜いていた。
「座ってくれ」
部屋の中央には、リデルのために用意された椅子が、ぽつんと一脚だけ置かれていた。
リデルは促されるまま、その椅子へと静かに腰を下ろした。
グランツは窓際から一歩も動かず、立ったまま彼を見下ろしている。だが、その立ち姿には、周囲の二大貴族が放つ浅薄な威圧とは全く異なる「何か」が宿っていた。傲岸な侯爵たちとは一線を画す、もっと深く、静かで、決して揺らぐことのない確かな精神の重心が、そこには存在していた。
「単刀直入に問おう」
グランツは淡々と言い放った。
「私への事前の報告や許可を一切経ることなく、ヴェーデル公都で起こした行動の真意。それをお前の口から聞かせてもらいたい」
広大な部屋に、水を打ったような完全な静寂が落ちる。
「そして──」
グランツは言葉を区切ることなく、そのまま続けた。
その声は、最初から最後まで微塵も揺らがなかった。激しい怒りに震えるわけでもなく、卑劣に脅しをかけるわけでもない。ただ、冷徹極まる絶対的な事実を宣告するだけの、静かなる王の声だった。
「これから紡ぐ答えの如何によっては、リデル・バートン。──お前には、今この場で死んでもらう必要がある」
フランク・ロングードが、楽しげに小さく鼻を鳴らした。
ドン・ヴィステルは、再び退屈そうにその指先を動かし始める。
リデルは、正面に立つグランツをただじっと見つめ返していた。
その妖しく輝く真紅の瞳が、まっすぐに、逃さぬように少年のすべてを凝視していた。




