24話
ヴェーデル公との決着から、一ヶ月の月日が流れた。
バートン邸の会議の間は、久しぶりに晴れやかな空気に満ちていた。
長卓を囲む顔ぶれはいつもと変わらない。当主ジョルジュ、重臣のラムズ、ガルヴェ、そして執事長テレンス。だが、その表情には、これまでの重苦しい会合とは明らかに異なる活気があった。
「まったく、あの子というやつは本当に……」
ジョルジュが、珍しく穏やかな笑みを浮かべながら呟いた。病による激しい咳き込みの間隔も、この一ヶ月でわずかに和らいでいるように見えた。
「まさか、わずか一ヶ月でヴェーデル公を完全に屈服させるとは、一体誰が想像できたか」
「ローズヴェル公の傘下において、今回の功績は飛び抜けて際立っております」
テレンスが手元の書類に目を落としながら、熱を帯びた声で続けた。
「武功という意味では、文句なしの第一勲功者。これに伴い加増される領地の規模によっては、バートン家は一気に公王家にすら匹敵する力を……」
「いや、さすがにそれは言い過ぎだが……それに近い話ではあるな」
ガルヴェも珍しく破顔し、嬉しそうに深く頷いた。
「ヴェーデル旧領の一部、リヴィル領の安堵はもちろんのこと、国境沿いの要地が二つか三つは最低でも加増されるはずだ。あるいは、我々の想像を超える破格の恩賞になるかもしれん」
大幅な領地加増──その魅惑的な言葉が、会議の間に心地よく漂っていた。
リデルは長卓の端に静かに腰掛け、大人たちの弾んだ会話に耳を傾けていた。しかし、自ら口を開くことはなく、ただ時折、退屈そうに窓の外の景色を眺めているだけだった。
「約束の刻限でございます」
護衛のコールが部屋の入り口に姿を現し、厳かに告げた。
「ローズヴェル公直属の使者殿がご到着されました」
「……通せ」
ジョルジュが満足げに背筋を正した。
現れた使者は、四十前後と思しき、落ち着いた身なりの男だった。胸元にローズヴェル公爵家の立派な紋章を佩いた男は、長卓の前に立つと、恭しく持参した書状を取り出した。
「ローズヴェル公よりバートン伯爵家への宛行状を、謹んでお伝えいたします」
感情の起伏を排した静かな声で、書状の読み上げが始まった。
会議の間にいる全員が、息を潜めてその言葉に固さに固唾を呑んだ。
しかし、その読み上げは思いのほか短かった。
「──以上をもって、ドールン村の安堵を正式に認め、これをバートン伯爵家の管轄とする。ローズヴェル公」
使者が静かに書状を下ろした。
刹那、部屋を支配したのは、あまりにも重い静寂だった。
「……失礼ですが」
ガルヴェが、困惑を隠せない様子で声を絞り出した。
「続きは……まだございますか?」
「いえ、恩賞に関して以上でございます」
使者は平然と、淡々と答えた。
「ドールン村の……安堵、それだけなのですか?」
「はい」
再び、冷ややかな沈黙が会議の間に降りた。ドールン村とは、リヴィル領の隣にある小さな寒村であり、人口は五百にも満たない。人口三万のリヴィル領や、それよりも遥かに膨大な人口をヴェーデル直轄領と比べるまでもない小領であった。
「そんな、馬鹿な……おかしいではないか!」
テレンスがたまらず椅子から立ち上がりかけた。
「ヴェーデル公を屈服させた第一勲功者への報酬が、村一つの安堵だけなどと……。武功にまったくつり合ってないではないか……」
「その書状、見せていただけますか」
別の家臣が焦燥を滲ませて使者に促した。使者はわずかに眉をひそめたものの、拒むことなく書状を差し出した。
受け取った家臣が貪るように目を走らせ、隣の家臣がそれを覗き込む。ガルヴェもまた身を乗り出して確認した。
──しかし、そこには本当にそれ以上の文言は記されていなかった。
「これは、いくら何でも……」
「あまりにも理不尽だ」
「我が方の武功に対して、恩賞が小さすぎる!」
会議の間に、激しい落胆と困惑の怒号が広がっていった。数秒前まで部屋を包んでいた祝祭の輝かしい空気は、跡形もなく霧散していた。
「使者殿」
それまで沈黙を守っていたラムズが、静かに口を開いた。
「この書状に、続きの文面はないのでしょうか。あるいは、別の書状が……」
「──ございます」
使者は無表情のまま、懐からもう一通の書状を取り出した。
ラムズがそれを恭しく受け取り、丁寧に開く。しかし、その鋭い眼光が最初の一行を捉えた瞬間、ぴたりと動きが止まった。
「……なんと、これは」
冷静沈着なラムズの声に、珍しく抑えきれない動揺の響きが滲み出た。
「どうした、ラムズ。何と書いてある」
ジョルジュが怪訝そうに問いかけた。
ラムズは答える代わりに、重々しい手つきでその書状を長卓の上に滑らせた。ジョルジュが身を乗り出して手を伸ばし、その内容に目を走らせる。
会議の間に、再び深い静寂が降りてきた。だが今度は、先ほどの困惑とは明らかに質の異なる、凍りつくような戦慄の静寂だった。
書状には、容赦のない文言でこう記されていた。
『バートン伯爵代行リデル・バートンは、ローズヴェル公の事前許可を得ることなく、独断にてヴェーデル公領への軍事行動を主導した。この件につき、重大な「命令違反」の疑いあり。速やかにその釈明を行うため、ローズヴェル公都へ参上すべし』
家臣の一人が震える手で書状を引ったくり、信じられないといった様子で声に出して読んだ。
「本当に……本当にそう書いてある……」
誰かが呆然とした声を漏らし、会議の間は一気に蜂の巣をつついたような騒ぎに包まれた。しかし、その喧騒の渦中にあっても、リデルだけはただ静かに窓の外を眺め続けていた。その整った横顔に、驚きや動揺の色は微塵もなかった。
「ふざけるな……っ!」
ジョルジュの激昂した声が、会議の間に鋭く響き渡った。
普段は病のせいで細く弱々しいその声が、この瞬間だけは父親としての凄まじい怒りの力を帯びていた。彼の震える手が、卓上の書状をぐしゃりと握りしめる。
「我がバートン家に未曾有の武功をもたらした息子に向かって、命令違反などと……! しかも恩賞がドールン村の安堵だけとは、一体いかなる横暴か!」
ジョルジュは興奮のあまり、激しく咳き込んだ。いつもなら妻のシャルロットがすかさず駆け寄って宥めただろうが、あいにくこの場にいるのは家臣たちだけだった。
「私が自ら公都へ乗り込む! 直接ローズヴェル公に物申してやる。リデルの成し遂げた偉業は、決して命令違反などではない。この圧倒的な結果こそが、すべてを証明しているではないか……!」
無理に立ち上がろうとしたジョルジュだったが、激しい咳の発作に襲われ、再び椅子へとへたり込んでしまう。
「ジョルジュ様」
ラムズが静かに、しかし毅然とした口調で呼びかけた。
「どうかお静まりください」
「止めるな、ラムズ! 今回ばかりは引き下がれるか──」
「お怒りは重々ごもっともです」
ラムズは主君の言葉を、穏やかに、しかし明確な拒絶の意志を以て遮った。
「ですが、どうか冷静に戦況をお考えください。ローズヴェル公がこの書状において求めているのは、あくまでリデル様ご本人による『弁明』です。ここでジョルジュ様が公都に乗り込まれれば、周囲の目には、息子の不始末を隠蔽するために親がしゃしゃり出てきた、という醜悪な構図に映りかねません」
「だから、失態などではないと言っている!」
「我々バートン家の人間は皆、そう確信しております。ですが、主君たるローズヴェル公の視点に立てば、事前の許可を得ない独断専行の軍事行動は、たとえ結果がどうあれ、権力体勢の秩序そのものに対する不遜な挑戦と受け取られかねないのです」
ラムズは冷徹に書状へ視線を落とした。
「非常に申し上げにくいことですが……リデル様が多大なる武功を挙げられたのは紛れもない事実です。しかし同時に、当初下されていた『トルデラン砦の固守』という厳命を無視し、独断でヴェーデル公への策略を展開されたこともまた、動かしようのない事実。ならばその釈明は、やはりリデル様ご自身が公都へ赴いてなされるのが、臣下としての筋というものでございましょう」
重苦しい沈黙が会議の間を包んだ。
「ラムズ殿……っ!」
不意にガルヴェが激昂し、激しく長卓を叩いた。
「貴殿は一体、どちらの味方をしておられるのだ! リデル様のご活躍がなければ、我が家はとうに敗北し、詰んでいたのだぞ。それをまるで他責にするかのような物言い……命を救われ、多大な功績を立てた当人に対して、あまりに薄情が過ぎるのではないか!」
「私は薄情で言っているのではありません。今後の我が家のための『筋』を申し上げているのです」
「筋など聞いて呆れるわ! 貴殿はいつもそうだ、都合の悪い展開になると決まってそうやって──」
「──ガルヴェ」
低く、しかし驚くほど透き通った声が、二人の言い争いに割り込んだ。
室内の全員が、一斉に声の主へと視線を向ける。
長卓の端から、リデルが静かに立ち上がっていた。
「二人とも、落ち着いてくれ」
その声音は信じられないほど穏やかだった。沸騰しかけていた会議の間の空気を、一瞬にして冷やし、鎮める不思議な力を持っていた。
「リデル様……」
「ガルヴェ、私を庇おうとしてくれる気持ちはありがたい。だが、ここで感情的に場を荒立てたところで、何の解決にもならないよ」
リデルはガルヴェを宥めると、その視線を冷徹な合理主義者であるラムズへと移した。
「それに、ラムズの言うことにも一理ある」
「リデル様、ですが……!」
ガルヴェがなおも食い下がろうとしたが、リデルは小さく手を挙げてそれを制した。
「私が今回の件において、主君であるローズヴェル公の事前許可を得なかったのは紛れもない事実だ。『戦況が急を要し、許可を得る時間がなかった』という弁明はいくらでもできるが、正規の手続きを無視したという事実そのものは否定できないからね」
リデルはもう一度だけ窓の外の景色に視線を走らせ、それから、未だ怒りに震える父へとまっすぐに向き直った。
「父上」
「……何だ、リデル」
ジョルジュの声にはまだ割り切れぬ怒りが含まれていたが、あまりにも冷静な息子の佇まいに、どこか圧倒されているようだった。
「私は公都へ赴きます」
「リデル、しかし……!」
「私が行くべきなのです。自分が主導したことの顛末は、自分自身で説明するのが最も合理的だ」
リデルは淡々と、しかし確信に満ちた口調で続けた。
「それに、ローズヴェル公がわざわざこのような書状を送りつけてきた真意は、単なる命令違反の追及だけではないはずです」
「……どういう意味だ?」
「これは『召喚』であり、一種の『値踏み』ですよ。公は私を直接その目で見て、測り直したいのです」
会議の間に、再び息の詰まるような沈黙が降りた。
「スキルを持たない『背天者』の小僧が、独断でヴェーデル公を屈服させた。それが、ローズヴェル公の目にどう映るか。脅威か、あるいは——使える駒か」
リデルは卓上の書状を冷ややかに一瞥した。
「どちらにせよ、この呼び出しから逃げ回ったところで意味はありません。ならば、自ら公都へ乗り込み、直接腹を割って話した方が手っ取り早い」
ジョルジュは、言葉を失ったようにしばらくの間、我が子の顔をじっと見つめていた。やがて、その肩からすべての力が抜けたように、力なく椅子へと身体を沈めた。
「……分かった。くれぐれも気つけて行くがいい。お前には、いつも苦労ばかりかけて本当にすまないな」
絞り出すような、父親としての寂しげな一言だった。
リデルはただ、静かに深く、頷いて見せた。




