23話
「忠を尽くすべき主君を、どうやら違えていたようです」
ミナは、静かにそう呟いた。
次の瞬間、彼女の身体はすでに動いていた。
聖剣『グラディア』が鮮烈な銀光の軌跡を描く。一歩、二歩──その踏み込みの神速さは、トルデラン砦の広場で見せたものと微塵も変わらない。残された衛兵たちが辛うじて剣を構えようとした時には、彼女はすでにその懐へと潜り込んでいた。
一閃。
切っ先ではなく剣の鍔で顎を正確に跳ね上げ、一人目の衛兵が崩れ落ちる。
返す刃を流れるような動作で鞘へと戻しつつ、今度はその柄頭で次の衛兵の鳩尾を深く突き刺した。衛兵は息を詰まらせ、そのまま膝から床へと崩れ落ちる。
そこへ、別の方向から二人の衛兵が同時に襲いかかった。
ミナはグラディアを瞬時に左手へと持ち替え、右手で片方の刃を受け流して軌道を逸らしつつ、深く腰を落として二人の隙間を滑るようにすり抜けた。勢い余った両者の頭が、互いに激しく激突する。
時間にして、わずか十数秒の出来事だった。
六名の精鋭衛兵は、例外なく床の上へと転がっていた。
誰も命は落としていない。だが、立ち上がれる者はただの一人もいなかった。
謁見の間に、息が詰まるような静寂が降りる。
「お、お前たち! 何をしているのだ!」
ロイが、動揺を隠せない重臣たちに向かって狂ったように叫んだ。
「戦え! 褒美ならいくらでも出してやる! あの者たちを取り押さえた者には、望む土地を好きなだけ与えてやるぞ……!」
「なあ、ロイ」
ジャックが、どこまでもゆったりとした口調でその絶叫を遮った。
「さっき俺に『リヴィル領への請求を諦めろ、さもなくばここで死ね』と言い放ったばかりだよな。それが今度は、都合よく『褒美はいくらでも出す』ときたもんだ」
ジャックは、冷ややかな視線で重臣たちをぐるりと見渡した。
「普通に考えてさ、そんな主君の言葉を誰が信じると思うかね? 俺なら絶対に御免被るけどな」
重臣たちは、誰も動かなかった。
一人が反射的に剣の柄に手をかけようとしたが、途中でその動きを止めた。また別の一人は、気配を消すように静かに一歩、後ろへと下がった。誰もが、今夜この謁見の間で起きた事態の決定的な意味を、それぞれの頭脳で冷徹に計算していた。
ロイの提示する約束がいかに信用に値しない空手形であるかは、先ほどのジャックへの仕打ちで完全に証明されている。おまけに、死んだはずのミナ・リヴィルは生きて目の前に立ち、バートン伯爵家の神童は捕虜の身でありながら自由に行動している。頼みの衛兵はすべて一瞬で無力化された。
──すべてが終わったのだと、誰もが察していた。
ゆえに、誰一人として動こうとはしなかった。
ロイは、縋るような目で重臣たちを見回した。
しかし、その救いを求める視線を受け止める者は、どこにもいなかった。
その時、コツン、コツンと、静かに響く足音が謁見の間に通った。
リーフィアを背後に従え、リデルがゆっくりと歩を進めていた。
急ぐ風でもなく、走るわけでもない。ただ、まっすぐに玉座の方へと向かって歩んでくる。その淀みのない足取りが、かえって周囲に凄まじい威圧感を与えていた。
ロイは、近づいてくるその姿を凝視した。
わずか十三歳の少年だ。背丈は自分の胸にすら届かない。武器らしいものも、今は何一つ手にしていない。
だが。
少年が近づいてくるにつれ、ロイの足からみるみるうちに力が抜けていった。
何も言い返せなかった。何の命令も下せなかった。本能的な恐怖から逃げ出そうとしたが、足がすくんで一歩も動かない。
そして、リデルがあと数歩という距離まで迫った、その瞬間。
ロイの膝が、あっけなく砕けた。
玉座の前に、偉大なるヴェーデル公が力なく崩れ落ちる。
肥大化したその巨体が、冷たい床の上で情けなく縮こまっていた。
「ひ……」
喉が恐怖で引き攣り、まともな声すら出ない。
リデルは、その目の前でぴたりと足を止めた。
そして、冷徹に見下ろした。
ロイは、目の前に立つ少年の顔を恐る恐る見上げた。そこには怒りも、昂ぶりも、あるいは勝者の侮蔑すらもなかった。ただガラスのように静かで、底知れない瞳が、客観的に自分を見下ろしている。
それが、ロイにとっては耐え難いほど恐ろしかった。
「ロイ・ヴェーデル」
リデルの声は、至って静かだった。
「今頃、各戦線において、我がローズヴェル公の軍勢が全面攻勢を開始しています」
リデルは、淡々と語り始めた。
「トルデラン砦の陥落により、ヴェーデル公領の国境防衛線は完全に崩壊しました。その報を受け取った我が主は、今こそが好機と判断し、傘下の全封臣へ総動員令を発令したのです。早ければ数日のうちに、この公都も我が軍の大軍勢によって包囲されるでしょう」
むろん、そのような事実はどこにもなかった。
ローズヴェル公は今もヴェーデルとの膠着状態を維持しているだけであり、全面攻勢などかけてはいない。だが、この極限状態の謁見の間において、その高度な嘘を見抜ける者など存在しなかった。
ロイは床に這いつくばったまま、ただリデルを見上げていた。
目の前の十三歳の少年が紡ぐ言葉の、どこまでが真実でどこからが虚飾なのか──それを精査し、判断する精神的な余裕など、もはやロイには残されていなかった。
「た、助けてくれ……!」
ロイの声が、情けなく震えた。
「命だけは……命だけは助けてくれ! 土地でも金でも、望むものは何でも差し出す……!」
その濁った瞳に、哀れな涙が浮かぶ。
リデルは、その醜態を冷ややかに見つめた。
「見苦しい」
静かに、しかし明確な拒絶を込めて言い放った。
「泣くな。みっともない」
ロイは、弾かれたように口を閉ざした。
その言葉は、激しい罵倒などではなかった。ただ動かしようのない事実として淡々と告げられた声だった。だからこそ、ロイの身体をより一層深く縮こまらせた。
リデルは視線を上げ、謁見の間全体を冷徹に見渡した。
「皆さんに、二つの選択肢を提示します」
それは、背後に控える重臣たちへ向けた宣告でもあった。
「一つ。ロイ・ヴェーデルは直ちに退位を宣言し、ローズヴェル公への全面的な臣従を表明すること。その場合、貴方の身の安全は完全に保証します。また、この場にいらっしゃる重臣の皆様の所領についても、最大限の安堵を約束するよう、私からローズヴェル公へ強く働きかけましょう」
誰も口を開かない。重臣たちは固唾を呑んで次の言葉を待った。
「二つ。もしこの提案を拒否されるのであれば、ローズヴェル公の軍勢はヴェーデル公領を徹底的に踏みにじり、破壊し尽くすでしょう。そして、その手始めとして──」
リデルは、リーフィア、ジャック、そしてミナへと、順に視線を巡らせた。
「この部屋にいる全員の息の根を止めることなど、ここにいる三人がいれば造作もないことです」
謁見の間に、重苦しい沈黙がドサリと落ちた。
重臣たちは、自分たちがどれほど危険な状態にあるか理解していた。精鋭衛兵六名を十数秒で無力化した剣聖ミナの神技を。飄々としながらも極めて有能で陣営第一の戦果を挙げ続けてきたジャックの本領を。そして、縛られた捕虜のフリをしてこの本丸へ悠然と乗り込んできた、この悪魔的な少年を。
計算は、誰の頭の中でもまったく同じ答えを弾き出していた。
重臣の一人が、静かに口を開いた。
「ロイ様」
低く、しかし断固とした声だった。
「……前者をお選びいただくべきかと存じます」
「な、何だと……貴様、この私を敵に売るつもりか!」
「売るのではありません」
その重臣は、冷ややかに視線を伏せながら言った。
「もし後者を選ばれるというのであれば、我々はまず、その手前にて──」
言いかけて、言葉を濁した。だが、その意図はあまりにも明白だった。
別の重臣が、無言のまま腰の剣の柄へと手をかけた。
それを見て、周囲の数人もまた、促されるように同様の挙動を取る。
言葉に発せられることはなかった。だが、ロイには痛いほど理解できた。
これまで自分を支えてきたはずの忠実な重臣たちが、今この瞬間、主君との無理心中など「まっぴら御免だ」と判断したのだ。もしここで自分が拒否の姿勢を示せば、彼らはローズヴェル軍の手を煩わせるまでもなく、自らの手で主君の首を撥ねるつもりなのだ。
ロイは、その冷徹な視線を一人一人から浴びせられた。
誰の瞳にも、もはや忠誠の色など欠片も残っていない。
そこにあるのは、ただ己が生き残るための「生存の計算」だけだった。
ロイの身体が、さらに小さく、惨めに縮み上がった。
しばらくの間、誰もが息を潜め、誰も何も言わなかった。
やがて──ロイは、力なく床に両手をついた。
そして、ゆっくりと頭を下げた。
深く、深く。一国の主たるヴェーデル公が、わずか十三歳の少年の足元で、額を床の石畳へと擦りつけるようにして平伏した。
「……分かった」
掠れた、力のない声だった。
「お前の言う通りにする。退位も、臣従も、何でも書面に残そう……」
謁見の間に、張り詰めていた重臣たちの長い安堵の息が漏れた。
───
かくして。
数年間にわたって泥沼の膠着を続けてきたローズヴェル公とヴェーデル公の激闘は、リデル・バートンが戦端に介入してから、わずか一ヶ月という驚異的な短期間で決着の刻を迎えた。
対外的には、大戦による決着ではなく「ヴェーデル公ロイの自発的な退位と、ローズヴェル公への臣従」として記録された。凄惨な決戦の果てではなく、謁見の間における静寂なる降伏劇として。
だが、その一連の動向の裏の真実を見抜き、凝視している者たちがいた。
神聖なる帝国の未曾有の混乱期において、封臣たる公王たちが互いの領土を削り合っている。その渦中に、スキルを持たない『背天者』であり、弱小伯爵家の代行に過ぎない十三歳の少年が単身で乗り込み、わずか一月で公国一つを完全に屈服させたのだ。
その驚天動地の噂は、瞬く間に諸国へと広まった。
尾ひれがつき、誇張され、時に歪んで曲解されながらも、大陸中を駆け巡った。
そして、それは新たな歴史の奔流を生み出していく。
少年の存在を深く警戒する者が現れた。
その才能を陣営に取り込もうと画策する者が現れた。
都合のいい道具として利用しようとする者が現れた。
そして──芽のうちに確実に排除しようと牙を研ぐ者が現れた。
リデル・バートンという名が、この果てなき乱世の地図へと、いまや決して消えない狂気と共に深く刻み込まれた。
それは、より巨大で、より過酷な、新たなる大嵐の静かな始まりに過ぎなかった。




