22話
その報せが届いたのは、昼過ぎのことだった。
ヴェーデル公爵領の居城、その奥に位置する執務の間。当主ロイ・ヴェーデルは届けられたばかりの書状を受け取り、貪るように読み始めた。
最初の数行に目を走らせた瞬間、その顔色が劇的に変わる。
だが、それは驚愕や動揺ではなかった。
湧き上がるような、どす黒い歓喜だった。
「ほう……ほう、素晴らしいッ!」
ロイは激しく書状を卓へと叩きつけた。今度は怒り狂ってのことではない。全身を突き動かすような興奮のあまりだった。
彼はその内容を、狂喜に満ちた目で何度も確認した。
書状にはこう記されていた。
『ルード騎士団は戦力の過半数を失う大打撃を被りながらも、トルデラン砦の奪還に成功。さらにバートン伯爵軍との交戦において、敵当主ジョルジュ・バートン、および重臣ラムズ・ドーヴィルの抹殺に成功せり。指揮系統を完全に喪失したバートン軍は空中分解。なお、その激戦の最中、ミナ・リヴィルは戦死。戦利品として、次代の不穏分子たるリデル・バートンの生け捕りに成功した』
ロイは書状を握りしめたまま、その肥大した巨体を揺らして立ち上がった。
「ジャックの奴め、やりおった! 実に見事にやりおったぞ!」
傍らに控えていた侍従が、主君の顔色を窺いながらおそるおそる口を開いた。
「おめでとうございます、ロイ様。これで我が方の戦局は大きく……」
「うるさい、集中しているから黙っとれ!」
ロイは鬱陶しそうに手を振って侍従を黙らせ、再び書状へと視線を落とした。
ジャックに提示した褒美の約束は、当然覚えている。リヴィル領主の座と、ミナ・リヴィルの身柄。それが条件だった。
だが、肝心のミナ・リヴィルは戦死した。
つまり、約束の半分は物理的に履行不能となったわけだ。
当主ミナを失ったリヴィル領は、いまや正当な統治者のいない「無主の地」と化している。本来であれば、そのままジャックへと分与される手はずだったが――。
(実に都合が良い! ようやく余の元にも勝利の女神が微笑んできたわ!)
ロイの歪んだ頭脳の中で、冷徹な利害計算が急速に回り始めた。
ミナが死んだことで、ジャックへの約束の片方は消滅した。そして今、ジャックは手持ちの戦力の過半数を失い、本人も瀕死の重傷を負っているという。
つまり、用済みの駒として切り捨てるには、これ以上ない最高のタイミングだった。理由はいくらでもこじつけられる。ミナの不審死に絡めればいい。
『お前はリヴィル領の獲得を確実なものにするため、乱戦のどさくさに紛れてミナを暗殺したのではないか。剣聖のスキルを持つ彼女が、不意打ちや騙し討ち以外で容易に死ぬはずがない』とかなんとか。
そこまで思考を巡らせ、ロイの口元に陰湿な笑みが浮かんだ。
ミナ殺害の容疑を引き合いに出し、リヴィル領の引き渡しを断固として拒否する。もしジャックが反発すれば、不敬罪としてその場で誅殺する大義名分が立つ。逆に、ジャックが恐怖して大人しく従うのであれば、それはそれで好都合だ。いずれにせよ、肥沃なリヴィル領はすべてヴェーデル家の直轄領として回収できる。
しかも、生け捕りにしたというリデル・バートン。バートン伯爵家の次代を担うはずだった『小さな賢人』。人質として幽閉するもよし、ローズヴェル公王との取引材料にするもよし、あるいはローズヴェル領に楔を打ち込むための傀儡として利用するもよし。使い道はいくらでもある。
すべてが、面白いほど自分に都合よく転がってきた。
「侍従」
「はっ」
「ジャック・ルードが帰還次第、即座に謁見の間へと通せ。余自らが直接、最高の褒美を授けてやると伝えよ」
「承知いたしました。それではいつ頃に……」
「今夜でも明朝でも構わん。奴が城門を潜り抜け次第、衣服を着替える暇も与えず、すぐに連れてこい」
侍従は深く一礼し、足早に部屋を退室していった。
ロイは三度、書状に目を落とした。
念願のリヴィル領。バートン家の神童という最高の人質。そして、使い潰して厄介払いできるジャック・ルード。
一つの戦果から、同時に三つの収穫が見込めるのだ。
「ふっ、なかなか上出来ではないか」
ロイは機嫌よく独りごちた。
謁見の間の準備を整えるよう別の配下に命じながら、彼の頭はすでにその先の領土拡大の算段へと向かっていた。
その卑劣な計画の中に、命を賭して戦った部下を騙し討ちにするということへの後ろめたさなど、微塵も存在しなかった。
───
重厚な歓声と静寂が交錯する中、謁見の間の大きな扉が左右へと開かれた。
最初に姿を現したのは、ルード騎士団長ジャック・ルードだった。
その姿は、痛々しいほどに満身創痍だった。
かつて仕立ての良かった上質な外套は泥と乾いた血に汚れ、至るところが刃で切り裂かれて惨めに破れている。右腕には幾重にも包帯が巻かれ、その白い布地には生々しい赤い染みが滲んでいた。何より目を引いたのは、右目を完全に覆う痛々しい布だった。深く濡れた赤黒い血が、じわりと布地に広がっている。
その彼の後ろを、一人の子供が俯きながら歩いていた。
リデル・バートン。見れば、その両手は太い縄で厳重に縛られており、顔を伏せたまま、怯えるようにジャックの足跡を追っている。さらにその後ろには、深いローブで完全に顔を隠した二人の部下が、監視を兼ねるように従っていた。
玉座に君臨するロイは、その無残な有様を見下ろし、内心で満足のいく笑みを噛み殺した。
(やはり瀕死か。これ以上ないほど好都合だ)
「ジャック・ルードよ、よくぞ生きて戻った!」
ロイは意図的に、慈悲深げな温かみのある声を響かせた。
「ご報告申し上げます、ロイ様」
ジャックは痛みに耐えるように顔を歪めながら、その場に片膝をついた。その一連の動作すら、限界を迎えた肉体を無理に動かしているように見えた。
「我がルード騎士団は、半数以上の同胞を失う凄惨な死闘の末、トルデラン砦の奪還に成功いたしました。バートン伯爵家の当主ジョルジュ、ならびに重臣ラムズを確実に討ち果たし、バートン軍は完全に崩壊。また、お約束通り、リデル・バートンの身柄をこうして確保して参りました」
謁見の間を埋める重臣たちの間に、どよめきと囁き声が広がっていく。
「よくやった。大戦果である」
ロイは鷹揚に頷いた。
「はっ。なれば、事前に交わした約束の件、お色直しをいただく前に、どうかご決断を」
「あぁ、その件なのだがな……」
ロイの声から、先ほどまでの温かみがふっと消え失せた。
「ミナ・リヴィルが戦死したと聞いたぞ」
「……はい。激しい混戦の中、不運にも」
「激しい混戦の中、だと?」
ロイはわざとらしく眉を寄せ、不快感を露わにした。その悪辣な演技は、傍目には十分すぎるほど真に迫っていた。
「『剣聖』のスキルを宿す者が、正面からの純粋な戦闘で容易に命を落とすとは到底考えられん。不穏な野心に駆られたお前が、リヴィル領を確実に我が物とするために、ドサクサに紛れて彼女を闇討ちにしたのではないか?」
謁見の間に、凍りつくような静寂が落ちた。
「……そのような不名誉な事実は、断じてございません」
ジャックの声が、低く押し殺したようなものに変わる。
「ならば、それを証明できる確たる証拠はあるのか?」
「証拠は……ございませんが、生き残った私の部下たちがその一部始終を証言いたします」
「信用に値せんな。身内の身勝手な証言など、何の手がかりにもならん」
ロイは冷酷に手を振った。
「したがって、約束していたリヴィル領の引き渡しは一切認めん。高貴なるミナ・リヴィル殿を殺害した疑いのある大罪人に、その領地を明け渡すわけにはいかないからな」
ジャックはしばらくの間、拳を握りしめたまま沈黙していた。
やがて、ゆっくりと顔を上げた。
その目には、大粒の涙が光っていた。
「ロイ様……ッ!」
ジャックの声が、激しく震えた。
謁見の間にいた重臣たちが、思わず息を呑んで顔を上げる。あの常に不敵な薄笑いを浮かべていた飄々たる伊達男が、衆目の前で公然と涙を流しているのだ。
「私は……我がルード騎士団は、半数以上の仲間を失いました! 生き残った者たちも、このように傷だらけです。それでも公爵家への忠義を果たし、約束を守るために這うようにしてここへ戻ってきた! それに対する報酬が、この謂れなき仕打ちですか……っ!」
声の震えは、さらに悲痛さを増していく。
「ミナ・リヴィル殿を暗殺するなど、私には……私には、そのような滅相もない……っ!」
ジャックは両手で顔を覆い、その肩を小刻みに激しく揺らした。
その痛々しい姿に、重臣たちの間にいたたまれない居心地の悪い空気が漂い始める。顔を伏せる者、いたたまれずに視線を逸らす者。主君のあまりにも理不尽な横暴に対する同情と不信感が、静かに、しかし確実に広がっていくのが分かった。
だが、ロイだけはそれを見て、醜悪に口元を歪めていた。
(泣き喚いているか。所詮は卑しい傭兵崩れ、惨めな奴め)
内心の愉悦を完璧に隠しながら、ロイは傲然と立ち上がった。
「泣くな、見苦しい!」
ロイの宣告は、容赦なく冷徹だった。
「お前には二つの選択肢をくれてやる。一つ、リヴィル領への不当な請求を今すぐ諦め、今後もヴェーデル家の下僕として犬のように働くこと。二つ、不敬の罪でこの場で惨めに死ぬことだ。さぁ、どちらかを選べ」
謁見の間が、完全に静まり返った。
あまりの暴挙に、重臣の一人が抗議のために口を開きかけたが、ロイの凶暴な視線に射すくめられ、すぐに言葉を飲み込んで俯いた。
ジャックは床を見つめたまま、しばらくの間、微動だにしなかった。
やがて――。
「……はぁ」
静寂を引き裂くような、深く、そして完全に呆れ果てた溜め息が響き渡った。
ゆっくりと、ジャックが顔を上げた。
確かに目元には涙の跡があった。だが、その瞳からは、先ほどまでの悲愴感や絶望といった色が、跡形もなく綺麗に消え去っていた。
「茶番劇も、この辺りで切り上げとくかね」
ジャックは実になめらかな動作で、無造作に立ち上がった。先ほどまで傷の痛みに耐えていたはずの姿勢は、嘘のように完璧な直立へと変わっている。全身の痛みを堪える素振りも、いまや完全に消失していた。
「お前がクズとは知っていたが、まさかここまでとはね。恐れ入ったよ、ロイ」
敬称が、完全に消え失せていた。
「ジャック……貴様、何を……っ!」
「それから、だ」
ジャックは、何事もないように後ろを振り返った。
それに応じるように、これまで怯えて俯いていた子供が、ゆっくりと顔を上げた。
「リデルの旦那、そろそろよろしいのでは?」
「あぁ。これ以上は時間の無駄だな」
縄で固く縛られていたはずの両手が、いつの間にか完全に自由になっていた。リデルは手首に巻き付いていた縄を無造作に床へと落とし、静かな歩調で前に出た。
「この愚王のくだらない三流芝居に付き合うのも、もう終わりにしよう」
その声は、まだ幼さの残る少年のものだった。だが、謁見の間の空気を一瞬で支配し、完全に塗り替えるには、それで十分すぎるほどの威厳に満ちていた。
「な、何だと……っ!?」
「貴様ら、一体何者だ……っ!」
重臣たちが一斉に色めき立ち、大混乱に陥る。
「衛兵ッ! 出会え! その不届き者どもを今すぐ叩き斬れっ!」
ロイが狂ったように絶叫した。
謁見の間の左右の扉から、完全武装した精鋭の衛兵たちが一斉に駆け込んでくる。数は六名。全員が戦闘スキル持ちである。
だが。
真っ先に向かってきた先頭の二人を迎撃したのは、背後に控えていたローブの影だった。
ローブをまとった人物の一人が、地を滑るような神速の踏み込みで前に躍り出る。襲いかかる衛兵の鋭い剣撃を素手で軽々と受け流し、その隙だらけになった首筋へ正確無比な当て身を叩き込んだ。衛兵は悲鳴すら上げられず、泥人形のように床へと崩れ落ちる。
その激しい風圧で、人物の頭部を覆っていたローブが肩へと滑り落ちた。
美しいが、どこか冷徹な少女――リーフィアが、そこに毅然と立ち塞がっていた。
残された衛兵たちが、今度は包囲を狭めるように別方向から一斉に突撃しようとする。
だが、その進路を遮るように、もう一人のローブの人物が立ちはだかった。
ゆっくりと、その深いフードが取り払われ、人物が静かに顔を上げる。
「……っ!? 貴様、それは……っ!」
ロイの目が、今度こそ限界まで大きく見開かれた。
銀色の気高き刀身が、室内のランプの光を浴びて、まばゆいほどの閃光を放つ。
戦死したはずのミナ・リヴィルが、その手に聖剣『グラディア』を握りしめ、凛とした姿でそこに立っていた。
「死んだのでは……なかったのか……っ!」
ロイの声が、恐怖で激しくかすれた。
「ご覧の通り、私は健在です」
ミナの声は、どこまでも静寂だった。そこには激しい怒りよりも、むしろ哀れむような、冷徹な落ち着きが宿っていた。
謁見の間に残された衛兵たちは、その圧倒的な存在感を前に完全に戦意を喪失し、一歩も動けなくなっていた。
ロイ・ヴェーデルは玉座の前で、ただガタガタと無様に震えながら、立ち尽くすことしかできなかった。




