20話
中央棟の廊下を、ジャックは音もなく進んだ。
二階の突き当たり。目指す部屋まで、あと数メートル。
彼は扉の前で足を止めた。
扉の隙間から、ランプの微かな光が漏れている。
ジャックは壁に身を寄せ、呼吸を整えた。そして、隙間から室内を覗き見る。
ランプの光に照らされた、小さな背中が見えた。机に向かって座っている。その背格好からして、まだ子供だ。
リデル・バートン。
その背中を見ただけで、すべてを理解した。
待っている。彼は分かっていて、待っているのだ。哨戒兵の不自然な少なさ、砦の異常な静寂、そのすべてが、自分をこの一点に誘い込むための舞台装置だった。
ジャックは、一瞬だけ思考を巡らせた。
そして、躊躇なく扉を開けた。
鍵はかかっていなかった。まるで、あらかじめ客を招き入れるかのように。
ジャックは、自分の家の扉を開けるかのような自然な動作で、執務室へと踏み込んだ。
「……まさか、堂々と正面から入ってくるとは思わなかったな」
背を向けたまま、少年が言った。
驚いて振り返る気配すら見せず、ただ素直に驚いたといった声音だった。やがて、ゆっくりと椅子が回転し、リデルがジャックの方を向いた。
その手には、銃身を切り落とし、短く改造されたフリンテが握られていた。
「末恐ろしいクソガキめ」
ジャックは静かに言った。
罵倒のつもりだったが、自分でも分かるほど、その声には称賛の色が混じっていた。
「ありがとう」
リデルは、その言葉を率直に受け取った。
「ヴェーデル公の命令か」
「そうだよ」
ジャックは、部屋の中を一瞥しながら答えた。伏兵の気配を探る視線だったが、表向きはあくまで自然な所作を保っていた。
「褒美に何を貰うつもりだ」
「このリヴィル領の領主の座。それから、ミナ・リヴィルちゃんの旦那役さ。ヴェーデル公のお墨付きでね」
「なんだ。領主になりたいのか」
「ああ、そうさ」
ジャックは、はっきりと答えた。
「この乱世を利用して、成り上がってやる。貧農の倅でも、腕と頭さえあれば、この時代は上に行ける。由緒正しき血筋で、剣聖のスキルを持つ配偶者がいれば、なおのこと最高だ」
ジャックは肩を竦めた。
「そのために、悪いが死んでもらうぜ。リデル・バートンくん」
外套の内側から、剣が抜かれた。
細身の、よく手入れされた刃が鈍く光る。
「そのフリンテについては知っている。峡谷での戦いも、生き残りから話を聞いた。威力も速度も、大体のところは把握している」
ジャックは剣先をリデルに向けながら、一歩踏み込んだ。
「だが、弾道さえ読めれば、避けるのは難しくない。スキルで強化されたこの身体なら、なおさらね」
それは、半分は本心だった。
そして、半分は虚勢だった。
フリンテそのものは、別の戦場でその轟音と威力を耳にしていた。遠くから放たれる弾丸の速度と破壊力は冗談ではないと理解している。だが、実際に正面から相対するのは、これが初めてだった。本当に避けきれる保証など、自分自身どこにもない。もし被弾すれば、スキルで強化された肉体をもってしても、無事では済まないだろう。
しかし、そうした計算や不安は、表情には一切出さなかった。
リデルは、そのジャックを見つめながら、ふっと笑った。
それは、すべてを見透かしたような笑みだった。
「お前の相手は、私じゃない」
その言葉と同時に、執務室の後方――壁際の暗がりから、影が動いた。
ジャックの視線が、反射的にそちらへと向く。
ランプの光が、影の顔を照らし出した。
ジャックは、その顔を見た瞬間、流石に言葉を失った。
───
少し前。東棟の廊下。
部下の五人は、ミナが幽閉されている部屋の前に辿り着いていた。
見張りの兵士は二人。彼らにとっては何の問題もない。
合図もなく、部下たちのうち二人が同時に動いた。首筋への正確な一撃。兵士たちは声も上げられずに崩れ落ちた。
先頭の部下が、奪った鍵を使って扉を開けた。
「ミナ・リヴィルだな。助けに来たぞ」
部屋の奥に、背を向けた人物がいた。
窓際に座り、ランプの光に照らされた、美しい長髪。
その肩が、わずかに動いた。
「……ありがとうございます」
落ち着いた声だった。
「ですが」
その人物が立ち上がりながら、言葉を続けた。
「申し訳ありませんが、貴方達にはここで捕まってもらいますよ」
振り返りざま、隠されていた刃が一閃した。
先頭の部下が反射的に後退する。しかし、刃は彼の手首を薄く切り裂いていた。
「なっ……!」
部下たちは、その顔を見て動きを止めた。
噂に違わぬ美女。だが、ミナ・リヴィルではなかった。
「私はリーフィア。バートン家の侍女にして、リデル様の護衛です」
少女は短剣を構えたまま、毅然とした声で名乗った。その瞳には、恐怖の色の欠片もない。
「どうぞ、遠慮なくかかってきてください。貴方たちを早く片付け、あの女と共にいるリデル様の元へ、一秒でも早く駆けつけなければならないので」
───
整った顔立ち。光を弾く銀色の刃。
そして、その手に握られた剣は、普通の得物ではなかった。
細身ながら、見る者が一目で分かる、神代の意匠を持つ一振り。
聖剣グラディア。
「……」
ジャックの口がわずかに開き、そして閉じた。
助けに来たはずのミナ・リヴィルが、静かにそこに立っていたのだ。
東棟の幽閉部屋ではなく、ここに。リデルの執務室の、暗がりの中に。しかも、没収されたはずのグラディアを手にして。
「……話は全部聞いていたぞ。まさか、ロイ・ヴェーデルが、我が家が先祖代々受け継いできた土地を、このような流れ者に渡そうとしていたとはな。挙げ句の果てに、私の身すらも、か」
ミナは同様に、敵意のこもった視線をリデルにも向ける。
「気に食わないが、お前の言う通りだった。決心はついた。貴様の傘下に加わろう。だから、約束は果たしてもらうぞ」
「ああ。リヴィル領とその領主の地位は、これまで通り君のものだ。それに変わりはない。この命に代えても、ローズヴェル公に認めさせてみせるよ」
すべてを察したジャックは、余裕のない笑みを浮かべた。
すべては、この小僧のお見通しだったのだ。ジャックがリヴィル領を求め、ロイ・ヴェーデルがそれを認めたこと。そしてそれを正当な所有者であるミナに打ち明け、彼女を惑わし、そしてその裏付けのため自分たちの動きは利用されたのだ。ミナを自らの陣営に引き込むために。
「……まったく、趣味が悪すぎだぜ。リデル・バートンさんよ」




