18話
トルデラン砦陥落とリヴィル領制圧を受けて、バートン家の君主ローズヴェル公からは「砦固守」の命令のみしか届かなかった。
しかしリデルは占領支配を既成事実化すべく、彼の手によって、統治は驚くほど迅速に軌道へと乗せられた。
砦の制圧からわずか三日後、リヴィル領全域に新たな布告が出された。内容は極めてシンプルだった。
一つ、向こう半年間の租税を全面的に免除する。
一つ、窃盗、暴行、放火、無断の徴発を行った者は、その身分を問わず即座に極刑に処す。
提示されたのは、その二条のみだった。
だが、この簡潔な布告がもたらした効果は絶大だった。
未だ略奪の恐怖が生々しく残るリヴィル領民の間に、「バートン家は法を違えない」という驚きと評判が、広がり始めたのだ。
一方で、布告に違反した者への断罪には一切の容赦がなかった。領民であれ、バートン軍の兵士であれ、法の下に完全な平等が敷かれた。酒に酔った勢いで民家に火をかけようとしたバートン軍の兵士二名が、リデルの手によって即座に公開処刑された時、リヴィル領民よりもバートン軍の兵士たちの方が、その底知れぬ恐怖に芯から震え上がったほどだった。
「飴と鞭」――前世の独裁でも、今世の戦乱でも、占領統治の要諦は変わらない。
問題は、その支配を完全に定着させるための時間が、果たして自分たちに残されているかどうかだった。
「リデル様」
執務室へと転用した砦の一室に、コールが入ってきた。その表情は、普段よりも明らかに硬い。
「報告がございます」
「聞かせてくれ」
「ヴェーデル公の陣営が、我が軍に向けて動き出しました。『ルード騎士団』が、このリヴィル領に向けて進軍を開始した模様です」
リデルは山積みの書類から、静かに目を上げた。
「ほう。あの、ルード騎士団か」
「はい。団員はおよそ五十名と小規模ながら、全員が戦闘スキルを保有する少数精鋭の集団です。元々は無名の存在でしたが、二年前のローズヴェル公王との国境紛争において、その名が各地に知れ渡ることとなりました」
コールは手元の報告書に目を落としながら、張り詰めた声で続けた。
「二年前、国境を越えようとしたローズヴェル軍三千に対し、ヴェーデル公に傭兵として雇われていたルード騎士団はわずか五十名で逆撃を敢行、これを完璧に撃退しました。団長のジャック・ルードは、軽薄で掴みどころがない男と評されていますが、戦場における才覚は本物との情報が入っております」
「知っている。それのおかげで、国力に劣るヴェーデルはロズヴェルとの勢力均衡に成功したと記憶している」
リデルの淡々とした返答に、コールが言葉を継ぐ。
「正確には、補給路と指揮系統の遮断と徹底した攪乱戦によって敵の士気を内側から崩壊させたため、実際の直接戦闘は最小限だったようですが。どちらにしろ、三千を敗走させるその手腕は本物です」
「そうだな」
リデルは椅子の背にもたれかかり、小さく息を吐いた。
「コール、よく調べてくれた。つまりお前は、この男を最大限に警戒すべきだと進言したいわけだな?」
「はい。正直に申し上げまして」
コールは真っ直ぐにリデルの瞳を見返した。この一年で、彼はこの年少の主君の前で無用な遠慮をすることが、どれほど愚かであるかを叩き込まれていた。
「我が軍はフリンテの破壊力とリデル様の知略をもって、圧倒的な兵力差と地の利を覆して緒戦を制しました。しかし、相手がわずか五十の精鋭であり、かつこちらの背後や補給線を執拗に狙う戦法を得意とするならば、先の峡谷戦のような待ち伏せは通用しません。何より、五十という小規模な数は、こちらの監視網の隙間を縫うように動くには、もっとも適した規模と言えます」
「正しい見立てだ」
リデルは短く頷いた。
「もう一つ、懸念がございます」
コールが言葉を切り、わずかに間を置く。
「ルード騎士団がヴェーデル公の厳命で動いているとするならば、その目的はトルデラン砦の奪還だけにとどまらないはずです。捕虜となっているミナ・リヴィル殿の奪還、あるいは――」
「――こちらの首、だろうな」
リデルは視線を窓の外へと向けた。灰色の石壁の向こうに、リヴィル領の険しい山並みが夕闇に溶け込んでいく。
「それほどの戦上手が動いているのなら」
独り言のように、リデルは低い声を紡いだ。
「すでに先手を打たれていると考えるのが自然だ」
「先手、ですか?」
「それほど老獪な男が、わざわざ進軍の情報を行軍の通りに流すはずがない。五十名程度なら、軍の動きを完全に隠匿することなど造作もないはずだ。我々にこの報告が届いた時点で、それはジャック・ルードが意図的に流させた欺瞞情報か、あるいは今まさに別の致命的な動きをしながら、我々の意識を逸らすための陽動とみるべきだ」
コールの顔から、一瞬にして血の気が引いた。
「では……今届いたこの報告自体が、すでに奴の罠の一部だと?」
「可能性はある」
リデルは静かに立ち上がった。
「ミナ・リヴィル殿の幽閉部屋の警護を、今すぐ倍に増員しろ。それから、砦の外周および補給路の哨戒パターンを、今夜から完全に不規則な変則シフトに切り替える。同じ時刻に同じ場所を巡回するような、予測しやすい動きはすべてやめさせろ」
「はっ、直ちに!」
「コール」
去ろうとする背中に、リデルが声をかける。
「焦る必要はない。ただ、一瞬の油断もするな」
「御意に」
コールは深く頭を下げ、弾かれたように部屋を飛び出していった。
一人残された執務室で、リデルは窓外の闇を見つめた。
(ジャック・ルード、か。面白い)
前世の記憶が、静かに告げていた。戦場において、最も警戒すべき相手は、圧倒的な兵力を持つ者ではない。少ない駒で、最大の効果を引き出す発想を持つ者だ。
そして、そのような人間が狙う最優先の標的は、いつだって組織の重心――すなわち、自分たちの首に他ならない。ジョルジュか、ラムズか、あるいは自分か。そのどれかなのは明白だ。
なぜならリデル自身もまた、前世の血生臭い革命の戦場で、全く同じ戦法を何度も愛用してきたからだ。
───
リヴィル領の中心街に佇む、薄暗く古びた酒場。
夕刻の店内は、それなりに熱気を持った客で満たされていた。占領されてからまだ日は浅かったが、半年間の租税免除の布告が出されて以来、領民たちの表情には明らかな安堵の色が混じり始めていた。
その喧騒から離れた隅のテーブルに、六人の男たちが陣取っていた。
いずれも旅人風の、実に入り込みやすい目立たない身なりをしている。荷物は最小限で、武器らしきものは見当たらない。だが、彼らの瞳の奥に宿る光だけは、酒場の弛緩した空気とは明らかに一線を画する、獰猛な鋭さを秘めていた。
「しかし、驚いたな」
一人が、周囲に聞こえないよう声を極限まで落とし、杯を傾けながら言った。
「領民どもが、こうも早く新しい支配者に懐くとは思わなかったぞ」
「ああ。バートン伯爵家、か」
別の男が、皮肉げに鼻を鳴らす。
「当主のジョルジュ、それに腹心のラムズとやら。俺たちの無能な雇用主よりは、遥かに頭が回るらしい」
くくっ、と不穏な笑いが漏れる。
「おい、ロイの阿呆に聞かれたら、その瞬間に首が飛ぶぞ」
「こんな敵地の中まで来られるわけがないだろ、あの小心者の暗君が。己の無能を隠すために罵倒と恫喝しか能がないから、家臣や領民の心が離れるんだ。バートンの連中は、その辺の心理を実によく心得ている」
「なるほど、ジョルジュもラムズも、相当なやり手ということか」
その間、テーブルの中央に座る男だけは、一言も発していなかった。
目深に帽子を被り、顎から下だけを晒している。その目元は深い影に隠れ、運ばれてきた杯には未だほとんど口をつけていない。
「違うね」
男が、短く遮った。
その声は極めて低音だったにもかかわらず、なぜかテーブル全体の空気を一瞬で凍りつかせた。
「違う、とは?」
「ジョルジュはただの瀕死の病人だ。ラムズという男も、実務家としては悪くないが、ここまでの統治を即座に組み立てられる器じゃない」
帽子の男は、杯の縁を指先でゆっくりとなぞりながら続けた。
「税の免除という甘い飴を配りながら、同時に法の違反者への処罰の手を抜かない。一切の曖昧さがない。しかも、占領した側の自軍の兵士を、見せしめとして同じ法で裁いてみせた。それらは、本来は兵士らの激しい反発を招く自殺行為だ。士気の低下、下手をすれば反乱に繋がる。それなのに、バートン軍にはその兆候が一切ない。つまり、その命令を下した者が、味方から絶対的に心酔されているか、あるいは、骨の髄まで恐れられているかだ。もしくは両方か」
配下たちは誰も口を挟めず、ただ息を呑んだ。
「法は万人に等しく適用される――それは、底知れない恐怖による統制と、圧倒的な公正さによる統制の完全な融合だ。これを短期間の占領地で平然とやってのけるのは、並の為政者じゃない。支配の裏表を、骨まで知り尽くした経験者の仕事だ」
「経験、ですか。しかし、ジョルジュにもラムズにも、そこまでの器量は……」
「だから、奴らではないと言っているだろう」
帽子の男が、ようやく顔を上げた。
酒場の煤けた明かりの中に、あまりにも整った顔立ちと、獲物を狙う猛禽のような底光りする瞳が現れる。
「俺はこの二日間、町に潜伏して両者を遠くから徹底的に観察した。ジョルジュは馬車から降りることすらままならぬ重病だ。ラムズという男も有能だが、これほど冷徹かつ緻密な法を立案できるほどの繊細さは持ち合わせていない」
「では、一体誰が……」
「バートン軍の心臓が、もう一人、あの砦の奥にいる」
男は、帽子の鍔を指先でわずかに押し上げた。
「噂には聞いていたが、実物を見るまでは半信半疑だったよ。だがこの二日で確信した。スキルを持たぬ『背天者』と各地で嘲笑されているようだが――あれは本物の化け物だ」
「……リデル・バートン、ですか」
テーブルが、静まり返った。
「十三歳の小僧が、これだけ緻密な支配を完全に行っている。先の峡谷での迎撃戦も、実質的に奴が指揮を執っていたとみて間違いない。戦術眼も、内政手腕も、どちらも超一流だ」
「一流、と言われましても、相手はまだ十三の子供でしょう?」
「だからこそ、最高に面白いんじゃないか。まぁ、これから殺すから関係ないがね」
男は、ようやく杯の酒を喉へと流し込んだ。
団員の一人が、緊張の面持ちで身を乗り出した。
「ジャック団長、ということは……」
帽子の男――『ルード騎士団』団長ジャック・ルードは、空になった杯を静かにテーブルへと置いた。
「ああ。俺たちが最優先で叩くべきは、あの『小さな賢人』、リデル・バートンただ一人だ」
その口調は、まるで明日の天気を語るかのような気軽さだった。
「首さえ獲れば、残りはただの烏合の衆だ。楽勝さ」
「ですが、警護は相当に厳重かと思われますが」
「今日の昼過ぎから、砦の巡回パターンが完全に切り替わっている」
ジャックは、淡々と事実を告げた。
「俺がすでにこの街に滑り込んでいることを、あの小僧は察したんだろう。じつに勘が良い。だが――」
彼の形の良い口元に、残虐で愉しげな笑みが浮かんだ。
「察した上で、俺がどこから、どうやって首を獲りに来るかまでは、まだ見えていないはずだ」
テーブルに、再び重苦しい沈黙が降りる。
「明日の夜、仕掛ける。それで俺はめでたく、このリヴィル領の新しい領主様だ。次にここで飲む時は、極上の祝宴を開こうぜ、野郎ども」
ジャックは再び帽子の鍔を深く下げ、闇の中へとその視線を埋没させた。
周囲の激しい喧騒が、何事もなかったかのように、再び酒場を包み込んでいった。




