17話
重苦しい沈黙が、二人の間に落ちた。
ミナは、リデルの放った「敬意を表します」という言葉を、心の中で何度も反芻していた。それは決して、勝者が敗者をあざ笑うような社交辞令には聞こえなかった。だが、その誠実そうな響きが、逆に彼女の矜持をひどく逆撫でした。
「一つ、聞かせてください」
ミナは溢れ出そうとする感情を抑え、冷徹な声を絞り出した。
「城下町への略奪は――あなたの指示ですか」
リデルは、迷うことなく即答した。
「そうです」
一言だけだった。見苦しい言い訳も、自己弁護のための前置きも、何一つなかった。
ミナの奥歯に、ギリ、と力がこもる。
「……『女神聖約』をご存じのはずです」
「無論、知っています」
「正当な対価を支払わない徴発は、明確な聖約違反です。略奪は、たとえ戦時であっても固く禁じられている。高貴なる貴族として、領主として、当然弁えているはずの鉄則です」
ミナの声は、努めて静かだった。だがその静寂は、水面下の激流を辛うじて封じ込めている決壊寸前の堤防に過ぎなかった。
「ええ、重々承知しています」
リデルは、相変わらず抑揚のない声音で応じた。
「その上で、命じました」
「なぜ!」
「それが、最も血を流さずにこの戦闘を終わらせる方法の一つだったからです」
その答えは、あまりにも率直で、合理的すぎた。
悪びれる様子など欠片もない。後悔も、自責も、弁解もない。ただ、己の選択した最適解を、冷厳な事実として述べているだけだった。
「あなたは……」
ミナの声が、絶望に小さく震えた。
「人の痛みを、ただの計算式としか見ていないのですか」
「違います」
リデルは、ここで初めてわずかに間を置いた。
「計算式に変えなければ、もっと多くの人間が死んでいた。どちらの選択が道徳的に正しいかは、私には判断できません。ただ、私が提示できる選択肢の中で、最も死者が少ない道を選んだ。それだけのことです」
完璧に筋の通った、反論の余地のない理屈だった。だからこそ、ミナには到底許せなかった。
その時、リデルが右手を静かに前に差し出した。
「それから、もう一つ」
淡々とした声が、次の要求を告げる。
「降伏の証しとして、聖剣『グラディア』の引き渡しをお願いしたい」
後ろに控える守備隊の間から、地を這うようなざわめきが沸き起こった。
グラディア。初代皇后が建国戦争で振るったとされる伝説の聖剣。ミナがまだ十二歳の時、天啓の儀で「剣聖」のスキルを発現させたその日に、皇帝から直々に下賜された至宝である。それはリヴィル家の絶対的な象徴であり、ミナ自身にとっては、己の存在意義そのものだった。
「……」
ミナは、目の前に差し出されたリデルの手を凝視した。
拳を握りしめるでも、傲慢に掌を上に向けるでもなく、ただ静かに差し出された手。
――そして、彼女は気づいた。
その手が、小刻みに震えていることに。
ほんのわずかな、かすかな震えだった。傍らに立つ老臣ネビドでさえ、見落としたかもしれない。だが、五感が研ぎ澄まされた剣聖の目には、確かにそれが映っていた。
(これは……)
ミナの思考が、一瞬だけ停止した。
リデルは今、あえて己の弱さを晒しているのではないか――ミナの脳裏に、そんな思いがよぎった。
手を震わせながら、それでも引っ込めようとしない。むしろ、震えたまま差し出し続けることで、「私とて平然とこれを奪うわけではない」「この要求がどれほど残酷か分かっている」と、言葉ではなくその身体で示しているように見えた。
敗者の誇りを、一方的に踏みにじるためではない。
互いに傷を背負い合うことで、降伏という屈辱の儀式から、できる限りの泥を拭い去ろうとしている。それが、この底知れない少年の、不器用なりの「誠意」なのだと、ミナは解釈した。
胸の奥で、何かが静かに軋んだ。
略奪への怒りは消えない。この少年を許せるかと問われれば、答えは今も拒絶だ。
それでも――目の前の少年は、ただの冷血な怪物ではない。
ミナは、グラディアの柄にゆっくりと手をかけた。
重厚な音を立て、鞘ごと腰から抜き取る。
その重みを、もう一度だけ手の中で確かめた。十二歳のあの日、皇帝の手から直接授けられた瞬間の、あの誇らしくも厳かな感触が、今も掌の奥に焼き付いているようだった。
ミナは聖剣を、リデルの差し出した手へと、静かに委ねた。
震えていた手が、しっかりと剣を受け止める。その震えは、まだ止まっていなかった。
「……確かに、受け取りました」
リデルが、低く厳かに言った。
「リヴィル殿。この剣は、必ず貴殿の元へお返しします」
ミナは、答えなかった。
返すに値する言葉が、見つからなかったのだ。ただ、真っ直ぐにリデルの瞳を見返した。
その深淵のような瞳の奥にあるものが、冷徹な計算なのか、それとも真実の誠意なのか、今のミナにはまだ判別がつかなかった。
分からないまま、ミナは一歩、静かに後ろへと退いた。
トルデラン砦を巡る激闘は、こうしてバートン軍の完全なる勝利という形で、ひとまずの幕を下ろした。
───
数日後。ヴェーデル公の居城、重厚な大広間。
「あの砦ひとつすら死守できんとは、何のための軍だ! 何のための家臣団だ!」
ロイ・ヴェーデル公爵の怒声が、天井の高い石造りの空間に激しく反響した。
バチン、と音を立てて卓を叩く強烈な一撃に、居並ぶ臣下たちは一斉に肩を竦めた。五十がらみの肥大した体躯に、血走った眼光。ロイ・ヴェーデルという男は、「怒号」と「恐怖」こそが最大の統治手段であると信じて疑わない暗君だった。
「トルデランを失えば、我が領の国境線は丸裸も同然だぞ! ローズヴェル軍がこの機に乗じて攻め込んできたら、一体どこで食い止めるつもりだ!」
居並ぶ臣下たちは、一様に重い沈黙を保っていた。
その沈黙は、単なる主君への恐怖からくるものではなかった。誰もが、内心では冷徹な引き算を行っていたのだ。帝国の混乱が各地に波及している今、動かせる余裕のある兵などどこにもいない。トルデランを奪還するために下手に動けば、その隙に己の直轄地が他勢力に。下手をすれば味方からも脅かされる。
ゆえに、誰も進んで手を挙げようとはしなかった。
「貴様ら、余の言葉が聞こえんのか! それとも、この期に及んでローズヴェルの軍門に下る裏切り者でもいるのか!? そのような不届き者がいれば前に出よ、余自らがこの手で叩き斬ってくれるわ!」
空虚な脅し文句だった。そこにいる全員が、それがただの虚勢だと理解していた。だが、その理解が、かえってこの場の空気をより一層冷え込ませる。主君の言葉が空論だと知りながら、誰もそれを指摘せず、ただ嵐が過ぎ去るのを待つ。それこそが、斜陽を向かえつつあるヴェーデル公爵家という器の、哀しき限界だった。
沈黙の時間が、じりじりと引き延ばされていく。
その時だった。
広間の最末席から、一つの手が、静かに、だが迷いなく上がった。
その動作があまりにも自然で、場に満ちていた張り詰めた緊張感と不釣り合いなほど落ち着いていたため、最初は誰もが目の錯覚かと思ったほどだった。
「不肖。この拙者めが向かいましょう」
声は、低く、どこか楽しげで穏やかだった。
ロイは、不機嫌そうに目を細めて末席を睨みつけた。
そこに立っていたのは、三十前後と思しき一人の男だった。よく手入れされた、仕立ての良い洒落た外套を羽織っている。整った容姿の端々に、どこか飄々とした、掴みどころのない薄笑いを貼り付けていた。席次から見ても、この場ではもっとも格下の部類に属する男だ。
「誰だ、貴様は」
「『ルード騎士団』団長、ジャック・ルードと申します」
男は膝を折ることもせず、ただ、形ばかりの軽い一礼をしてみせた。
臣下の数人が、わずかに眉をひそめる。ルード騎士団――規模こそ小さいが、その精強さと圧倒的な機動力は、ヴェーデル公領内でも一目置かれている傭兵崩れの集団だ。だが、その団長であるジャック・ルードという男は、これまで滅多に公の場に姿を現さない曲者として知られていた。
「ジャック・ルード……」
ロイは、その名を値踏みするように口の中で転がした。
「貴様らなら、バートンに奪われたトルデラン砦を奪還できると言うのだな?」
「はは、容易い御用で」
「ほう! 他の腰抜けどもとは気概が違うようだな。良い、望む褒美を言ってみろ」
ロイの声から、先ほどまでの凶暴な怒気が綺麗に霧散した。窮地において自ら進んで泥を被る者が現れた、というその事実だけで、これほどまでに機嫌を変える男なのだ。
ジャックは、顎に手を当てて少し考える素振りを見せた。それが計算され尽くした演技であることは、その場にいる者の目には明白だったが、誰も水を差すような真似はしなかった。
「では、二つほど、条件をいただけますかな」
「言ってみろ」
「一つは――リヴィル領主の座を、拙者に」
広間に、鋭いざわめきが走った。
リヴィル子爵家。トルデラン砦とその周辺一帯を治めていた名門であり、現当主のミナ・リヴィルは今、バートン軍の捕虜となっている。つまり、当主不在となったその肥沃な所領を、丸ごと我が物としたいという不遜な要求だった。
「そして、もう一つは」
ジャックは、意図的にわずかな間を置いてから、不敵な笑みを深めて続けた。
「ミナ・リヴィル本人を、我が妻として」
今度のざわめきは、先ほどの比ではなかった。あまりの強欲さに、周囲の臣下たちが色めき立つ。
ロイは一瞬、その男の真意を測るように目を細めた。――だが、次の瞬間には、豪快に破顔していた。
「ハハハハ! 気に入った、実に入り組んだ野心だ!」
ロイが再び激しく卓を叩いた。今度は怒りではなく、極上の玩具を見つけたかのような、満足げな爆笑だった。
「良いだろう! トルデランを奪い返し、あの剣聖の娘を生きて連れ帰ってみせろ。さすればリヴィル領も、あの娘の身体も、まとめて貴様にくれてやる!」
「寛大なる御決断、感謝に堪えませぬ」
ジャックは、再び軽薄とも取れる仕草で頭を下げた。
「早速、狩りの準備に取り掛かるといたしましょう。それでは」
広間の重厚な扉を抜け、誰もいない長い回廊に出た瞬間、ジャックの足取りが目に見えて変化した。
先ほどまで玉座の前で見せていた、場に合わせたような緩慢さは一切消え失せている。広い歩幅で、軽快に、それでいて靴音一つ立てずに廊下を滑るように進んでいく。上質な外套の裾が、その俊敏な動きに合わせて鋭くたなびいた。
薄暗い回廊の途中で、ジャックは独り言のように、低く、愉しげに呟いた。
「――囚われた美姫を助けに行く、気高き騎士、か」
その形の良い唇に、凶悪なまでの笑みが浮かんでいた。
「悪くない筋書きだ。実に見栄えがする」
その冷酷な笑みが、どこまでが本気で、どこからが狂言なのか。静まり返った石造りの壁には、それを解き明かす答えなど何もなかった。
外套が一度、大きく風を孕んで翻り、静かに闇へと消えていった。




