16話
二日後の夜明け、トルデラン砦の見張り台から、堰を切ったような歓声が上がった。
「増援だ! ヴェーデル公の旗が見えるぞ!」
その叫びが城壁を伝播していくにつれ、静まり返っていた砦内に次々と明かりが灯っていく。
東の山道から現れた一団は、確かにヴェーデル公の紋章旗を掲げていた。兵力はざっと五百から六百ほど。その先頭が、砦を包囲するバートン軍の背後に向けて進軍を開始した。
「今だ! 今こそ打って出るべき時です!」
城壁の上で、兵士たちの熱気が一気に沸騰する。
「挟み撃ちにするんだ! 前から増援、後ろから我らが押し包めば、バートン軍に逃げ場はない!」
「略奪の報いを受けさせてやれ!」
この二日間、砦の守備隊が積み上げてきたものは忍耐だけではなかった。城下から漂う不気味な煙の臭い、逃げ込んできた領民が語る凄惨な略奪の様子――子供の泣き声や老人の絶望が一つひとつ積み重なり、今や激しい憎しみの燃料と化していたのだ。
ミナ・リヴィルもまた、例外ではなかった。
城壁の上から見事な増援の旗を確認した瞬間、彼女の中で張り詰めていた糸が弾けた。二日間、歯を食いしばって抑え込んできた激情が、一気に解放される。
「ネビド」
「はっ」
「出撃するわ」
老臣は一瞬だけ目を細めたが、今度は止めなかった。
「……御意。お供いたします」
ミナは家宝である聖剣『グラディア』の柄を強く握りしめ、城門へと向かった。
守備隊三百が、一斉に砦から飛び出す。
夜明けの薄光の中、ミナを先頭に兵士たちがバートン軍の包囲陣へと突撃する。前方の増援が圧力をかけ、後方から自分たちが包み込めば、敵は完全に退路を失うはずだった。事実、包囲軍の後方部隊が狼狽し、混乱し始めるのが見えた。
(いける!)
確信した、その瞬間だった。
「ミナ・リヴィルだな。覚悟!」
バートン軍の遊撃兵五名が、横合いから猛然と飛び出してきた。
だが、ミナの身体は考えるより先に動いていた。
グラディアが鋭い光を放つ。一閃、二閃。向かってくる白刃を、完璧な軌道で弾き、流し、切り返す。「剣聖」のスキルが極限まで高める感覚の世界では、敵の突撃すら水の中を泳ぐかのように緩慢だった。
五名の兵士が、次々と血飛沫を上げて地に伏せる。
時間にして、十秒とかからぬ神速の業だった。
「お嬢様……!」
「凄まじい剣技だ……!」
周囲の守備隊からどよめきが上がる。その歓声が、軍全体の士気をさらに押し上げた。最高指揮官であり領主である剣聖が先頭で戦っている。この一撃には、誰もが「勝てる」と肌で信じ込ませるだけの説得力があった。
ミナは血のついた刃を一振りして払い、前方へと鋭い視線を向けた。
ヴェーデル公の増援部隊が、さらに近づいてきている。その先頭が、こちらに向かって進軍の速度を上げてくる。
(今こそ、合流を――)
その思考が結ばれるより早く、ミナの直感が警鐘を鳴らした。
何かが、おかしい。
増援部隊の進路が妙だった。バートン軍の包囲陣を突き崩すのではなく――一直線に、自分たち守備隊へと向かってきている。
ミナの足が、不意に止まった。
「な……?」
次の瞬間、迫りくる増援の先頭から、鼓膜を震わせる轟音が響き渡った。
凄まじい閃光。橙色の光点。
ミナのすぐ右隣を走っていた兵士が、悲痛な叫び声を上げて崩れ落ちた。
「何だ、今の音は……!?」
「増援からだ! 奴ら、味方じゃない!」
ヴェーデル公の旗を掲げたはずの軍勢が、今まさに、呆然とする守備隊に向けて一斉に銃口を揃えていた。
ミナは一瞬、自分の目が捉えている現実を拒絶した。
ヴェーデル公の増援。しかし、彼らが武器を向けた相手は、救うべき味方だった。その事実が意味する最悪の答えが脳に届くまで、数秒の猶予を要した。
(――罠だ)
理解した瞬間、ミナの全身が凍りついた。
自分たちは砦を出てしまった。守備隊の主力は今、遮蔽物のない城外にむき出しになっている。後方の砦は兵が出払ってがら空きだ。そして正面の「偽の増援」は、容赦なくこちらに銃口を向けている。さらに、混乱を装っていたはずのラムズ率いるバートン包囲軍が、いつの間にか組織的に動き直し、後方を完全に塞ぎつつあった。
前後から、完璧に挟み撃ちにされている。
「お嬢様、どうされますか!?」
「退路が……退路が塞がれています!」
守備隊の兵士たちが、浮足立ちながらミナへと視線を集めた。二日間、砦の中で頑なに積み上げてきた士気が、この一瞬で瓦解しかけている。勢いのまま飛び出してきた猛犬が、目に見えない鉄壁に激突して呆然自失としている――そんな、壊滅寸前の大混乱だった。
ミナは奥歯を噛み締めた。
(落ち着け。まだ、まだ終わっていない……!)
グラディアを構え直し、必死に戦況を整理する。だが、三百の歩兵に対し、正面の偽増援と後方の包囲軍を合わせれば、敵の数は八百から九百。強引な中央突破はただの自殺行為に等しかった。砦へ撤退しようにも、背後はすでに包囲されている。
そして何より――兵士たちの顔に、すでに絶望の色が濃かった。
このまま無理に戦いを選べば、待っているのは凄惨な一方的虐殺だけだ。守備隊司令として、領主として、それだけは絶対に看過できなかった。
正面の部隊が、ふいに動きを止めた。
一転した不気味な静寂。
最前列の兵士たちが左右に整然と分かれ、その中央に一本の道が生まれる。
次いで、高らかに二つの将旗が並んで掲げられた。――ヴェーデル公王家、そしてバートン伯爵家の紋章旗だ。
その旗の傍らを、一人の人物がゆっくりと歩いて前へ出てきた。
少年だった。
外套は戦場の埃と硝煙で薄汚れており、剣は腰の鞘に収められたまま。馬にすら乗っていない。ただ徒歩で、将旗の隣を平然と歩き、守備隊の前に姿を現したのだ。
その顔を見た瞬間、ミナは思わず目を細めた。
若い。自分よりも明らかに年下だ。あどけなさの残る顔立ちだが、その瞳だけが、血臭漂う戦場にはおよそ不釣り合いな、深淵のような落ち着きを湛えていた。
少年は、静まり返る守備隊の全員に行き渡る声で、淡々と名乗った。
「バートン伯爵家当主ジョルジュ・バートンが息子にして副官、リデル・バートンと申します」
声には怒気も、勝利の昂ぶりも、驕りすらもなかった。ただ、冷徹な事実を告げるだけの声音。
「トルデラン砦守備隊の皆さんに、無条件降伏と武装解除を申し入れます。直ちに武器を捨てて投降した者の身の安全は、我がバートン家の名と、女神アレクシエルの御名において完全に保証いたします」
守備隊の間に、激しいどよめきが走った。
「降伏だと……!」
「ふざけるな! 領地を蹂躙した奴らに、なぜ屈しなければならない!」
「だが、あの二つの旗が並んでいるということは、ヴェーデル公の増援はすでに……」
敵味方の声が錯綜する中、ミナはただ静かに佇んでいた。
(戦えば、確実に押し潰される)
感情を排した冷徹な理性が、そう告げていた。守備隊の精神は、すでに限界を迎えている。
「ネビド」
傍らの老臣が、一歩寄り添ってきた。
「……お嬢様。お考えは、すでに決まっておられるようですな」
「ええ」
ミナは、愛剣グラディアをゆっくりと鞘に収めた。
周囲の兵士たちが、ハッと息を呑む。
「お嬢様……! 我々のことは気にせず、どうかお逃げください! 剣聖のスキルを持つ貴方様なら、単身での突破は可能なはずです!」
「そうです! どうか生きて再起し、我々の無念を晴らしてください!」
「ありがとう、みんな」
ミナは悲痛な声を上げる兵たちへ、酷く優しく、そして哀切に満ちた微笑みを向けた。
「だけど、もう決めたの。私はリヴィル領の主よ」
ミナは前を向き、凛とした声を戦場へと轟かせた。
「トルデラン砦守備隊司令、ミナ・リヴィルはここにいる!」
彼女は兵たちを掻き分け、毅然とした足取りで一歩前へと踏み出した。
リデルと名乗った少年が、将旗の隣に佇んだまま、静かに彼女を待っている。
近づくにつれ、少年の顔がより鮮明に視界へ入ってきた。
噂に聞く話とは、まるでかけ離れた存在だった。報告書にあった「思慮深く有能な麒麟児」という言葉すら、生ぬるい。
これほどの策を弄し、完璧な勝利を目前にしながら、目の前にいる少年には、傲慢な昂ぶりも、一切存在しなかった。
ただ、そこにいた。
値踏みするでも、見下すでもない。しかし、その絶対的な虚無の瞳が、ミナには酷く不快だった。
どうせこうなることは、最初からすべて決まっていた。
少年の佇まいの端々から、そんな不遜な確信が透けて見えるような気がしたからだ。
二人は数メートルの距離で、真っ向から対峙した。
ミナは背筋を限界まで伸ばし、リデルを正面から見据えた。
「……リヴィル子爵家当主にして、トルデラン砦守備隊司令、ミナ・リヴィルです。私と我が部下は、降伏を受け入れる用意があります」
声が、わずかに震えていた。悔しさと、怒りと、それを押し殺そうとする誇り高き意地が、すべて混ざり合った震えだった。
リデルは、その少女の姿を静かに見つめ、ゆっくりと右手を胸に当てた。
「貴殿の迅速な決断と、部下の命を救ったその勇気に、深い敬意を表します、リヴィル殿」




