15話
激しい雷鳴が、峡谷の底へと降り注いだ。
閃光が走る。橙色の光点が、一瞬にして四百の線となり、眼下の敵軍へと吸い込まれていった。
たちまち、白い硝煙が高台を覆いつくす。
「次弾、装填を急げ!」
リデルは遠眼鏡を覗いたまま、冷淡に指示を飛ばした。
煙が風に流され、視界が晴れるのを待ちながら戦果を確認する。……倒れている人間の数は、思ったよりも少なかった。
(命中率が低いな。まだ訓練が足りていない)
頭の片隅で、冷静にその事実を記録した。しかし、今この瞬間に重要なのは打撃の数ではない。生き残っている者たちの心理反応だった。
峡谷の底では、二千の軍勢が見事なまでに右往左往していた。先頭の者は足を止め、後方の者は状況が分からず前を押し、列の中ほどは完全に押し潰されている。誰も、どこから、何によって攻撃されたのかを理解していなかった。怒号と悲鳴が入り混じり、指揮官たちの指示の声は完全に掻き消されていた。
「装填、完了にございます!」
右側から古参兵の声が飛んできた。
「撃て」
リデルは、ほぼ反射的に応じた。
再び、激しい雷鳴が轟く。
今度は硝煙が晴れるのを待つまでもなく、峡谷の底の空気が一変したのが分かった。
一度目の轟音で、兵士たちは「正体不明の何かが来た」と恐怖した。そして二度目の轟音で、「あの音が鳴ると、仲間が死ぬ」という絶対の因果を理解したのだ。
戦場において、それだけで十分だった。
リデルは遠眼鏡越しに、その崩壊の光景を眺めた。
武器を投げ出して逃げ惑う者。その場にうずくまって頭を抱える者。馬が狂ったように暴れ、騎兵が次々と落馬していく。将旗の周囲でさえ、すでに統率の気配は消え失せていた。
思わず、口元が歪む。
自分でも性格の悪い笑みだと思ったが、抑えることができなかった。どれほどの大軍であろうと、未知の恐怖と大混乱の前には容易く烏合の衆と化す。効果は、控えめに言っても絶大だった。
精神的な崩壊というものは、数の論理を容易く凌駕する。
勝敗は、もはや決していた。
そう認識した瞬間、リデルの心は他人の事のように平静を取り戻し、周囲の兵たちへ視線を向けた。
三度目の装填を進める兵士たちの手元を一瞥する。
(遅いな)
装填の動作がまだぎこちない。手順を一つ一つ頭の中で確認しながら動いている者が半数近くいた。実戦経験が浅いのだから無理もないが、これでは敵に立て直しの隙を与えかねない。
(領地に帰ったら、訓練の頻度を倍にする必要がある)
峡谷の底では、まだ混乱が続いていた。だが、その中にあって、かろうじて隊列を立て直そうと足掻いている集団が見えた。将旗の付近、敵の本陣だ。
「もう少しで装填完了します!」
「ああ」
リデルは遠眼鏡を下ろした。
「装填が完了しだい射撃。もう二射したのちに着剣。俺の合図に合わせ、総員突撃を敢行する」
それは、食事の前に手を洗えとでも告げるような、極めて日常的で淡々とした口調だった。
───
一方、峡谷の底では、もはや指揮という概念そのものが消滅しつつあった。
一度目の轟音で前衛が足止めされ、二度目で明確な死者が出ていると全員が理解した。そして三度目の雷鳴が轟いた瞬間、峡谷の両岸から迫りくる「見えない死」への恐怖が、敵兵たちの本能に完全に刻み込まれた。
弓矢とも、魔法とも違う。音だけが先に来て、その直後に衣服や甲冑ごと肉体が弾け飛ぶのだ。どこを向けば安全なのか、どこに隠れれば生き残れるのか、誰にも分からなかった。
「ど、どこから狙われている!?」
「左だ! いや、右からも来ているぞ!」
「逃げろ! 戻れ!」
怒号が飛び交うが、先頭はまだ前へ進もうとし、後方は後ろへと退こうとする。狭隘な峡谷の道だ。逃げようにも互いがぶつかり合い、折り重なるようにして凄惨な圧死の混乱が生まれていた。
将旗の周囲では、黒い甲冑を纏った将が馬上で必死に声を張り上げていた。
「落ち着け! 全員、盾を掲げろ! 盾を――」
その叫びは、無慈悲な四度目の轟音にかき消された。
橙色の光点が、密集した騎兵集団へと正確に降り注ぐ。
将のすぐ隣で、副官の頭部が、兜ごと爆発するように弾け飛んだ。音もなく、その男は馬から転り落ちていく。
「りょ、療術兵を!」
誰かが悲鳴を上げたが、助けに向かう者などいなかった。誰もが自分の命を守ることで精一杯だった。
別の方向からも、耳を覆いたくなるような絶叫が上がった。
「足が、俺の足がない……!」
弾丸を直撃された兵士が、地面を転げ回っていた。金属の甲冑ごと、膝から下が完全に吹き飛んでいる。凄まじい勢いで噴き出す血の海の中、男は泥にまみれて子供のように泣きわめいた。
「誰か、誰か助けてくれ……!」
その悲痛な叫びが、まだ立っている者たちに与えた精神的打撃は、一斉射撃そのものよりも大きかった。
死んだ者は、もう物言わぬ肉塊だ。だが、死にきれなかった者は、泣き、叫び、懇願する。その声が、戦場に渦巻く恐怖を濁流となって可視化させた。見えない死よりも、目の前にある生々しい苦悶のほうが、人間の精神を速く叩き壊す。
将旗の周囲に残っていた最後の統率が、音を立てて崩壊していった。
一人の兵が、恐怖に耐えかねて踵を返した。
それで、すべてが終わった。
一人が逃げれば、隣の者が逃げる。それが波及し、一瞬にして崩壊のドミノが完成する。完璧な壊走が、今まさに始まろうとしていた。
その時。
峡谷の空間に、恐るべき新しい戦音が響き渡った。
地を震わせるような、人間の雄叫び。
高台の上から、四百の軍勢が一斉に駆け下りてきたのだ。岩肌を、斜面を、滑り、跳びながら、抜き放たれた白刃を朝日に入り乱れさせている。フリンテを持つ者はすでに銃口に剣を突き立て、槍を構えた者はその穂先を真っ直ぐに突き出していた。
峡谷に反響するその荒々しい咆哮は、斉射の轟音とはまた異なる、より原始的な「死」という恐怖を呼び起こした。
黒い甲冑の将は、恐怖に狂いかけた愛馬を、ぎりぎりのところで御した。
まだだ、まだ逃げるな。将としての矜持が、辛うじて彼を踏みとどまらせる。
だが、視線を斜面の先へと向けた瞬間、将の身体は硬直した。
斜面を獰猛に駆け下りてくる集団の先頭に、一人の少年がいた。
外套を翻し、剣を抜き、足場の悪い岩だらけの急斜面を、まるで平地であるかのように滑らかに駆けてくる。距離が縮まるにつれ、その顔がはっきりと見えてきた。
まだ十三歳ほどの、あどけなさの残る少年だ。
しかし――その表情が、あまりにも異常だった。
怒っているわけではない。怯えているわけでもない。狂乱に興奮しているわけでも、凄惨な光景に哀れんでいるわけでもなかった。
ただ、笑っていた。
目の前で繰り広げられる地獄の混乱を、崩れゆく敵軍を、無様に逃げ惑う兵士たちを前にして、その少年はまるで、長年親しんだ愛着ある場所にでも戻ってきたかのように――心底から、愉しそうに笑いながら突撃してきていた。
(……化け物だ)
将の脳裏に、その一言だけが浮かび上がった。
幼い頃、亡き母から何度も聞かされたおとぎ話。女神アレクシエルが討伐したという、異界の残虐な怪物サルターン。目の前の少年は、その悍ましい怪物の化身にしか見えなかった。
馬がついに限界を迎えて激しくいななき、暴れた。将は、もはや手綱を引くことすらしなかった。
視界が混沌と横へ流れていく中、あの少年の歪んだ笑顔だけが、将の意識の底に最後まで鮮烈に焼きついていた。
その恐るべき表情は、彼が最期の瞬間を迎えるまで、決して変わることはなかった。




