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14話

峡谷の両岸、岩肌に張り付くように身を潜めた二つの部隊は、夜明けの光の中で微動だにしなかった。

右の高台にはガルヴェ率いる二百、左の高台にはリデル率いる二百。峡谷の入り口から出口まで、死角なく射線が通るよう、一晩かけて配置を終えていた。

狙いは、隊列の中腹だ。

 

二千の軍勢が峡谷に差し掛かれば、必然的に縦長の行軍になる。先頭と殿軍は互いの状況が見えない。そして通常の指揮官なら、その中腹に身を置くものだ。先頭では奇襲に対して脆弱すぎ、後方では腰抜けと謗られて兵の士気に響くからだ。そこへ両岸から火器による一斉射撃を浴びせれば――敵将がいるであろう中腹は、対応の暇すら与えられずに壊滅する。

理屈としては、完璧だった。

問題は、それが実行されるまでの時間だ。

リデルの隣で、リーフィアが岩に身を寄せ、息を殺していた。周囲の反対を、「主を守るのが私の役割です」という一言で押し切ってついてきた少女は、今も短剣を握りしめ、真剣な目で峡谷の下を見つめている。

 

「リーフィア」

 

「はい」

 

「怖いか」

 

声は、ほとんど唇の動きだけだった。リーフィアは、少し間を置いてから答えた。

 

「……少し」

 

「そうか」

 

それだけだった。リデルは前方に視線を戻した。

部隊全体に、重苦しい沈黙が漂っていた。フリンテを構えた兵士たちは、岩の陰に体を押しつけ、息を潜めている。誰も、余計な音を立てない。立てられないのだ。

ただ一人を除いて。

リデル・バートンだけが、岩の縁に腰を落ち着け、まるで待ち合わせにでも来たかのような体で、峡谷の入り口を眺めていた。

その様子を、傍らのリーフィアが、こっそりと目の端で捉えていた。

 

(この御方は……本当に、怖くないのだろうか)

 

四百対二千。どれほど地の利があろうと、初めて戦場に出た農兵上がりにとっては、絶望的な格差だった。なのに、あの少年はただ平然とそこにいる。まるで、結末を最初から知っているかのように。

もちろん、知っているわけではなかった。

 

(最悪の場合を、数えてみるか――)

 

リデルは岩の縁に身を置きながら、内心で静かに算段を弾き続けていた。

フリンテの初弾多くが外れる確率。一斉射撃のタイミングにズレが生じた場合。敵が予想より素早く反撃してきた場合。

考えればきりがなかった。

戦場とは、偶然と摩擦が支配する世界であり、最も計算が通じない事業の一つである。

前世でも、今世でも、リデルはそれを痛いほど知っていた。知っているからこそ、誰よりも多くの「最悪の想定」を、脳内で転がし続けた。

思慮深い人間特有の習性だ。一つの都合のいい結論に安住せず、あらゆる可能性に目を配る。それが、「泰然自若」と呼ばれる外面の裏に隠された、彼の実態だった。

 

要するに、彼は小心者なのだ。

他の者が「こうなるはずだ」と腹を括った後も、リデルだけはまだ「いや、もしこうなったら」と考え続ける。その思考のサイクルが、端から見れば「揺るぎない大器」に映るというのは、皮肉以外の何物でもなかった。

それでも。

リデルは今、この場にいた。

四百の命運を手の中に握りながら、自ら前線の高台に陣取って、敵の到着を待っている。前世でも、そうだった。一介の革命兵士だった頃、他の者が後方に下がろうとするとき、リデルは必ず先頭にいた。

周囲はそれを、立身出世のための意図的な英雄的行動と解釈した。後にリデルが権力の頂点に上り詰めていったことで、その解釈は「英雄の原点」として語り継がれた。

 

だが、実態は違う。

単純に、彼は戦争が好きなだけなのだ。

それは、リデル自身が最も明確に理解していることだった。

根回しが全てを決する政治闘争とは別の、血と硝煙と死の匂いが充満し、あらゆる計算が崩れ去り、それでも生き残るための知恵と判断を振り絞り続けるあの感覚――戦場だけが持つ、純粋な緊張と高揚。

それが好きだった。

人道的な観点から言えば、おそらく異常だった。何万もの死を冷静に計算式に変え、それでも「面白い」と感じてしまう自分の内側を、リデルは澄んだ目で認識していた。

前世では、最後まで治らなかった悪癖。そして今世でも、おそらく治らない。

その事実を、彼は特に悩まなかった。悩む意味がないからだ。戦争が好きな人間がいる、それだけのことだ。ただ、その「好き」を正当化する言葉を、他者に向けて口にしたことは一度もなかった。

 

「来た」

 

リーフィアの、極めて小さな声だった。

峡谷の入り口に、先頭の旗が現れた。ヴェーデル公の紋章。その後ろに続く、縦長の行軍の列。

規則正しい足音が、峡谷の岩壁に反響して増幅される。二千という数が、音として、空気として、高台まで伝わってきた。

部隊の緊張が、一段、上がった。

誰かの息が小さく乱れた。誰かの手が、フリンテの銃床を、わずかに強く握り直した。

リデルは、動かなかった。

敵の先頭が、自分の眼下を通り過ぎていく。一人、十人、五十人。まだ撃たない。狙いは中腹だ。敵将の本隊は、そこにいる。

 

(もう少し。あと少しだ)

 

内心では、最悪の想定がまだ回り続けていた。だが、その声は、どんどん小さくなっていった。

代わりに、別の感覚が、静かに満ちてくる。

戦場だけが持つ、あの感覚が。

先頭をスルーし、敵の中腹が差し掛かったころ、遠くに将旗が見え始めた。

 

「総員、詰め方始め」

 

普通の声だった。

命令というよりは、食事の準備でも告げるような、日常的な口調だった。傍らのリーフィアが、思わず目を丸くする。

だが、その声は確実に、双子の念信使いを通じて岩肌を越え、峡谷の反対側へと届いていた。

双子の兄弟は、大抵の場合、「大声で届く距離と大して変わらない」と揶揄される念信スキルを持っていた。役立たずと呼ばれてきたそのスキルを、リデルは一年前から密かに評価していた。大声が出せない場面では、沈黙の連携を可能にする。それだけで、今日この場においては、何物にも代えがたい価値があった。

フリンテを構えた兵士たちが、音もなく、照準を峡谷へと定め始める。

リデルは静かに頭を上げ、遠眼鏡を覗いた。

眼下に広がる行軍の列。先頭の歩兵集団はすでに自分たちの真下を過ぎ、中腹が峡谷の最も狭い地点に差し掛かっていた。

遠眼鏡の視野の中に、それは明確に映っていた。

旗を中心に固まった、明らかに他と異なる騎兵集団。周囲より馬の数が多く、装備も重い。その中心に、黒い甲冑の人物がいる。

 

(指揮官だ。間違いない)

 

距離を、頭の中で計算し始めた。

フリンテの有効射程。風向き。高低差による弾道の変化。今の角度から撃てば、どの地点に着弾するか。

 

(七十メートル、いや、八十か。少し遠い)

 

もう少し引きつけた方がいい。

最悪の想定が、また頭を持ち上げ始めた。

敵が峡谷の中ほどで立ち止まった場合。斥候を先行させていた場合。敵軍にも念信使いがいて、すでに何かを察知していた場合。

 

(いや、今更か)

 

リデルは、その声を静かに踏みつけた。

考え始めたら止まらなくなるのは、昔からの自分の悪い癖だ。前世で革命の最前線に立っていたあの頃も、いつもそうだった。飛んでくる銃弾の中で、「もし今この瞬間に敵の増援が来たら」と脳内で計算し続けていた。周囲は自分の姿を見て「狂った度胸を持つ男」と解釈したが、ただ考えることを止められなかっただけだ。

 

(そして今も、同じだ)

 

十三歳の体で、岩の縁に頭だけを出し、遠眼鏡を覗いている。

気づけば、内側が昂ぶっていた。

あの感覚だ。戦場だけが与えてくれる、あの、抑えようのない高揚。計算が限界まで走り続け、それでもなお制御しきれない偶然の海に飛び込む、この感覚。

 

(前世の老いた体では、もう感じられなくなっていたのに)

 

血が速く回る。感覚が鋭い。恐怖も、昂ぶりも、前世の最晩年には鈍りきっていたそれが、全部、鮮明に――あの若い頃に味わった充足が蘇っている。

 

(いや、違うな。なんの因果か、今の俺には、動く若い身体があるんだ)

 

思わず、口元が緩んだ。

それは、作られた微笑みではなかった。純粋に、この状況の皮肉さを面白いと感じた、ごく個人的な表情だった。

隣のリーフィアが、その表情に気づいた。

恐ろしい数の敵を前に、笑みを浮かべる十三歳の少年。普通であれば狂気の沙汰だが、なぜかその顔を見た瞬間、リーフィアの胸の奥の何かが、ゆるりと解けた。

周囲の兵士たちも、おそらく同じだった。指揮官が笑っている。あの落ち着いた少年が、今この場で、かすかに笑みを浮かべている。理由は分からない。だが、それだけで、固まっていた息が、わずかに動いた。

リデルは、それに気づいていなかった。

遠眼鏡の中の騎兵集団が、じりじりと近づいてくる。

六十メートル。五十五。五十。

 

(もう少し。あと十メートル引きつければ、全員の銃が届く)

 

指が、岩の縁をわずかに叩いた。一度、二度。

その時。

遠眼鏡の中の騎兵集団が、突然、動きを止めた。

馬が乱れる。数人が、振り返るような動作をした。まるで、後方で何かが起きたかのような。あるいは――何かに、気づいたかのような。

一瞬だった。

その一瞬に、あらゆる計算が、脳の中で同時に走った。

 

「撃て!」

 

その声は、先ほどの「総員、詰め方始め」とは、まったく別物であった。

次の瞬間、峡谷の両岸から、雷鳴が降り注いだ。

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