109話
軍議の翌日──。
ノルド山脈を越えて、バートン軍の先鋒部隊がクロンド近郊へと到達した。
その数、およそ二万。
対するクロンドには、アーキバス伯の軍勢を欠いたとはいえ、一万六千の兵勢が留まっていた。
数のみで言えば十分に対抗し得る規模であった。
しかし、ラングレー公をはじめとする本領貴族たちは、前日の軍議で決定した通り、頑なに「籠城」を主張し続けていた。
その軍議で威勢よく籠城を宣言した当人であるロイド・ラングレーは、今や一人自室の中をあてもなく徘徊していた。
日が沈みかける外のように、彼の気持ちは暗かった。
「……どうしてこうなった……ッ!」
苦々しく、弱音を吐き散らす。
「どうして……こんなことになってしまったのだ……ッ!!」
部屋を行き来する足取りは定まらない。
彼の描いていた筋書きでは、今頃自らは栄光の渦中にいるはずであった。
前年、グランツの帝都進出の呼びかけに応じようとした実父を排除した際、ロイドは揺るぎない自信に満ち溢れていた。
自分ならばラングレー家をより強大にし、より輝かしい未来へ導くことができる──そう固く信じて疑わなかったのだ。
リガニア大公が挙兵し、女神教聖母派がそれに続いた時も、完璧な「勝ち馬」に乗ったと確信していた。
グランツ陣営に対する多方面からの攻勢が始まり、帝都へ向けて破竹の勢いで進撃していた頃、ロイドは自らの栄光に満ちた未来を疑うことなど一度たりともなかった。
しかし──あの「グランツ」が彼の前に現れた。
そこから、すべての歯車が暗転していった。
リガニア軍の追撃を振り祓い、返り討ちにしたグランツの前に、ロイド率いる軍勢はなすすべもなく一蹴された。
初陣にして、這々の体で潰走する羽目となったのだ。
災難はそれだけではない。七月にバートン家による大規模な反攻が始まると、倍近い兵力を擁していたにもかかわらず、味方の貴族たちが次々と寝返っていった。
戦線はたちまち崩壊し、ノルド山脈以南の広大な領地を、あっという間に失うこととなった。
そして絶対の忠義を誓っていたはずのアーキバス伯にまで裏切られ、ついには本拠地クロンドにまで敵勢が押し寄せる事態となったのだ。
「……どうすればいい……」
ロイドは頭を抱えて呟いた。
前日の軍議でバヨネッタ伯が放った怒声が、脳裏にへばりついて離れない。
籠城など正気の沙汰ではない──バヨネッタ伯の言う通り愚策なのかもしれない。しかし、他にどのような手立てがあるというのか。
優秀な貴族将校たちは、前年の過酷な戦いの中ですでに死に絶えていた。今残っているのは、安全な後方に引きこもっていたおかげで生き残れた無能な面々ばかりだ。たとえ兵数が同等であろうと、修羅場をくぐり抜けてきた百戦錬磨のバートン軍に勝てる道理など存在しないのだ。
(……和平交渉を模索すべきか……?)
融和派であった父を交渉の場に立て、手元にある「人質」を用いれば、あるいは……。
だが、ロイドはその甘い考えを即座に打ち消した。
敵の最高司令官代理を務めるリデルという男は、敵対する者に対して慈悲など一切見せぬと聞き及んでいる。聖なる霊峰すら容赦なく焼き払った冷酷な男だ。何度も背き、徹底して抗い続けた自分たちの命を保障する道理など、あの男に存在するはずもなかった。
それかいっそのこと、御期待に背くことになるが、なりふり構わずあの御方に助けを求めるべきか。
いや、駄目だ。そんな事をしても状況は一層悪化するだけだ。あの御方に睨まれたら最後、それこそティーガル辺境伯以外は皆悲惨な最後を迎えたではないか。
(……やはり、籠城しかない……ッ!)
たとえ絶望的な状況であろうと、時間を稼ぎ、奇跡の到来を待つ──それ以外に道はないのだ。
自分の判断は間違っていない、と心の中で必死に言い聞かせた。
まさにその時、激しい音を立てて扉が跳ね開いた。
「き、急報ッ!! し、正門が……ッ!」
「正門がどうしたッ!? まさか敵襲かッ!?」
ロイドが怒声を上げて割り込む。
「い、いえッ!」
駆け込んできた部下は、肩を大きく上下させながら叫んだ。
「正門が……味方であるバヨネッタ伯の手勢によって、内側から開け放たれましたッ!!」
───
クロンドの巨大な正門が、軋みながら開き始めた。
その異常な光景は、陣を構えて対峙していたリデルたちの目にもはっきりと留まった。
「……降伏のつもりでしょうか」
ガルヴェが不審そうに困惑の声を漏らす。
「いや、違う」
リデルは即座に否定した。
「全軍! 直ちに戦闘配置に就け! 敵が突っ込んでくるぞッ!!」
リデルが叫んだ直後、正門から怒号とともに騎兵と歩兵の大群が雪崩を打って躍り出てきた。
その数、およそ五千。
その先頭で身を躍らせていたのは、バヨネッタ伯であった。
「馬鹿な……ッ! 捨て身の玉砕のつもりか!?」
ガルヴェが吠える。
「敵の狙いは、この中央本陣である可能性が極めて高い! 中央の部隊は全力で敵を食い止めろ! クロンドを包囲中の左右両翼は急ぎ集結させ、突撃してくる敵の側面と背後を挟み撃ちにせよッ!!」
ガルヴェの口から、矢継ぎ早に命令が飛ぶ。
的確で無駄のない采配であった。
リデルは自らが口を挟む隙すらないと悟り、戦術指揮官としてのガルヴェの卓抜した能力を深く再評価した。
しかし同時に──嫌な予感がリデルの胸を激しく締め付けた。
「……リーフィア。こちらへ来てくれ」
「はっ」
リーフィアが即座に傍らへと寄る。
リデルは彼女の耳元に身を寄せ、静かに何かを囁いた。
言葉を聞くにつれ、リーフィアの表情が徐々に曇り始める。
「……しかし、私めの使命はリデル様のお命をお守りすることにございます」
「ああ。……だからこそ、リーフィアには『万一』に備えてもらいたいのだ」
───
その頃、本陣の前面では壮絶な激突が始まろうとしていた。
バヨネッタ伯率いる軍勢は、騎士団のように「戦闘スキル」を保持する強力な個体が揃っているわけではなかった。槍兵と弓兵が主体の構成であり、部隊としての突破力はお世辞にも高いとは言えない。だがバヨネッタ伯は、それを巧みな用兵術と戦術的配置によって補おうとしていた。
対するバートン軍は、整然とした横隊陣形を形成していた。
グランツ陣営において最も銃火砲の普及率が高く、高品質かつ均一な装備を誇るバートン軍の真骨頂である。彼らは「反転行進射撃」の体勢を整え、敵の接近を待ち構えていた。先込め式銃の弱点である再装填の遅さを、隊列を順番に入れ替えることでカバーする戦法であった。
バヨネッタ伯の軍勢が、まさに有効射程の直前にまで肉薄する。
その瞬間──バヨネッタ伯の鋭い号令が響き渡った。
前進していた軍勢が真ん中から割れるように、左右へと急展開したのだ。
直後、バートン軍側から射撃の号令が下された。
無数の雷鳴が戦場を揺るがし、もうもうたる煙とともに血煙が上がる。
しかし──期待されたほどの打撃を与えることはできなかった。
敵軍勢が左右に散開したことで、中央に位置していた銃兵部隊の火力が分散し、遊兵化してしまったのだ。
これこそが「戦列歩兵」の構造的な弱点であった。
巨大な肉の要塞とも言うべきこの陣形は、正面から押し寄せる大集団に対しては絶大な威力を発揮するものの、機動力をもって細かく小回りを効かせる相手に対しては、その長大な陣形がかえって仇となり、後手に回ってしまう。
数斉射ののち、隊列の両端において敵兵が取り付き、凄惨な近接白兵戦が勃発した。
「ぬうっ! 敵の将……やりおるわッ!!」
ガルヴェが唸るように感嘆の声を漏らす。
「リデル様! 直ちに前線へと赴き、自ら指揮を執るお許しをッ!」
「ああ、許可する」
ガルヴェは愛馬を駆り、前線へと疾走していった。
各所で凄まじい白兵戦が展開される。
兵器の性能や兵力差を考慮すれば、バヨネッタ伯の戦いぶりは賞賛に値する見事なものであった。
しかし──善戦もここまでであった。
バートン軍の将兵は銃兵主体とはいえ、日頃から徹底した銃剣術の訓練を積んでいたのだ。白兵戦においても敵に対して対等以上の立ち回りを見せていた。
「押せぇッ! 押せぇッ!!! 大将首は目の前だぞッ!!」
バヨネッタ伯は声を限りに味方を鼓舞し続けた。
自らも剣を抜き放ち、白兵戦の渦中へと飛び込もうとした──まさにその時であった。
──タァンッ!
乾いた冷たい銃声が、戦場に一発だけ響き渡った。
バヨネッタ伯の脳天を、一発の弾丸が正確無比に貫通していた。
豪胆を誇った男は、断末魔の叫びをあげることすら許されず、泥土の上へと前のめりに倒れ伏したのだった。
しかしその目は、光を失うその瞬間まで前の敵を見ていた。
──かりそめの勝利に驕るがいい。貴様らは我らの術中に嵌ったのだ。
彼は声にならない声で、嗤った。
──先に地獄で待つぞ。リデル・バートン。




