110話
時は前夜へと遡る──。
バヨネッタ伯はジェネルの招きに応じ、とある密室へと足を踏み入れようとしていた。
そこには、ノルド山脈での狙撃戦から帰還したばかりのカリムが、すでに静かに腰を下ろしていた。
「……正門を開放するだと!?」
ジェネルの提示したあまりに突拍子もない提案に、バヨネッタ伯は思わず驚愕の声を上げた。
「はい」
ジェネルは静かに頷く。
「それだけではありません。その後、バヨネッタ伯には手勢を率いて敵本陣めがけ、突撃を仕掛けていただきたいのです。……それも、できる限り派手に」
バヨネッタ伯は一瞬言葉を失った。しかし、長年の軍歴が即座にその意図を悟らせた。
「……なるほど。我らに『囮』になれと言うのだな?」
「然り」
ジェネルは淡々と言葉を継ぐ。
「この密談が成立次第、敵の包囲網が完成する前に、カリム隊長率いるゾルベ旅団五百名と私は密かに近郊の森へと潜入します。そして明日の夕暮れ時、バヨネッタ伯の突撃とタイミングを合わせ、敵本陣へと一気に浸透突破を図るのです」
「つまり……」
バヨネッタ伯は深く息を吐き、静かに言葉を繋いだ。
「我らが前線で派手に大立ち回りを演じている隙に、貴様らが敵の大将首を直接刈り取るというわけか」
「はい。成功すれば、この絶望的な盤面を一気に覆す大戦果となるでしょう」
「……もし失敗すれば?」
バヨネッタ伯が問う。
ジェネルはどこまでも穏やかに、にっこりと微笑んでみせた。
「我らが倒れ、主力を失い、正門すら開け放たれたラングレー公の降伏が早まるだけに過ぎません」
「……フッ、なるほどな」
バヨネッタ伯の口元に、自嘲混じりの皮肉な笑みが浮かんだ。
「どちらに転んだところで、無益な籠城による民草の犠牲だけは回避できるというわけか」
一拍の間。
「良かろう」
断固とした声で言い切った。
「どのみち、このまま手をこまねいていても破滅は免れん。この使い古した命、貴殿らの策のために使わせてやろう」
ジェネルが静かに深々と頭を下げた。
バヨネッタ伯は立ち上がり際、その肩をポンと軽く叩く。
「……しかし、惜しいものだな」
部屋を退出しかけ、ふと足を止めた。
「我ら愚かな本領貴族の中に、一人でも貴殿のような見識を持つ男がいたならば……このような惨状にはならなかったものを」
それだけを言い残し、バヨネッタ伯は部屋を後にした。
重い扉が閉まる。
室内に残されたのは、カリムとジェネルの二人だけであった。
束の間の沈黙が場を支配する。
「……いやはや、人を口説き落とすのが実に上手いねぇ」
カリムが軽薄に茶化すような声を出す。
「もしかしてあんた、案外いいところの坊ちゃんだったりするのかい?」
「いいえ」
ジェネルは短く、冷ややかに答えた。
「貴方と同じですよ」
一拍置き、自嘲を込めて告げる。
「ただの……人殺しを生業とする、救いようのないクズに過ぎません」
───
本陣前庭では、バヨネッタ伯の決死の突撃による熾烈な戦闘が繰り広げられていた。
その凄まじい喧騒の隙を縫うように、全く別の「影」が動いていた。
森林の輪郭に沿って、複数の影が滑るように進んでいく。
足音一つなく、気配すら殺し切っていた。
ゾルベ旅団の精鋭、そしてカリムとジェネルの二人は、敵の警戒網を秘密裏のうちにすり抜け、本陣左手わずか五百メートルの距離に位置する密林の中にまで進出していたのだった。
慎重に、隠密に。しかし電光石火の迅速さで。
バートン軍にその存在を察知された気配は、いまだ微塵もない。
異大陸においてその勇名を轟かせる「ゾルベ旅団」の本領発揮であった。
それも道理である。
王族を追放し貴族議会共和制へと移行したイスタッドにおいては、今や為政者の裁量一つで安易に正規軍を国外動員することができなくなっていた。その裏で、公には関わりのない国策傭兵集団を保有し、他国の紛争へと介入させる手法を多用していたのだ。
ゾルベ旅団に所属する者は一人として例外なく、イスタッド正規軍を除隊した手練れによって構成されていたのである。
中でも隊長を務めるカリムは、若き日は正規軍の大佐にまで上り詰めた傑物であった。
無謀な突撃命令しか下せぬ貴族出身の無能な上官を、射殺したという咎さえなければ、今頃は一軍を率いる将軍となっていてもおかしくない男だったのだ。
もっとも、カリム本人がそのような栄達を一切望んではいなかったが。
「……総員」
カリムが低く命じた。
普段の軽薄さは完全に消え失せ、一軍を統べる将のごとき威厳に満ちた声であった。
「よくやった。隠密による浸透突破はここまでだ。これより敵本陣への直接突入を敢行する」
旅団員たちが一斉に、無言で力強く頷く。
「目標は敵最高司令官、リデル・バートンただ一人。それ以外には一切目もくれるな」
カリムはさらに言葉を重ねる。
「奴の首を上げた後は、敵が混乱している隙に乗じて即座に戦域を離脱。そのまま敵の勢力圏を浸透突破しながら南下し、リガニア大公領へと逃げ込むぞ」
一拍のタメを置く。
「なかなかに厳しいピクニックになるが……リュシュトアでの砂漠横断に比べれば可愛いものだろう?」
旅団員たちの間から、押し殺したようなクスクスという忍び笑いが漏れた。
「あんたはどうする、兄弟?」
カリムは隣に立つジェネルに視線を向けた。
「頭はキレる上、当然のように俺たちについてくるその身のこなし……ただ者じゃないな。もしこのままついてくるってんなら、大歓迎だぜ」
ジェネルは少しの間、思考を巡らせた。
「……そうですね」
やがて、静かな笑みを浮かべて口を開く。
「あてもない流れ者暮らしにも少し飽きていたところです。……お言葉に甘えさせていただきましょうか」
「よしッ!」
カリムは満足そうに破顔した。
「それじゃあ、さっさと仕事を片付けて安全圏まで逃げ延びたら、盛大にあんたの歓迎会をやろうじゃないか」
そう言いながら、腰に差した鋭利な細身の剣を抜き放つ。
その切っ先を、木々の隙間から見える敵本陣へと向けた。
指令を受けた旅団員たちが、一斉に動き始める。
次々とカリムとジェネルの二人を追い抜き、森林から開けた大地へと躍り出ていった。
突撃のラッパなど存在しない。
士気を鼓舞する怒号すらもない。
開けた障害物のない地形を進みながら、敵に限界まで気づかれぬよう……ただ静かに、確実に、殺意を秘めた距離を詰めていく。
異様な緊張感に満ちた決死の突撃が、リデルたちが異変に気づかぬまま、ひそかに開始されたのだった。




