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108話

「──徹底的に構造を調査させろ。複製が可能であるなら、最優先で研究に当たらせるのだ」

 

扉の奥から、リデルの毅然とした声が漏れ聞こえていた。

リーフィアが静かに扉を開けると、リデルと引き締まった表情で言葉を交わしていた部下が、布に包まれた細長い物体を抱え、彼女へ一礼して部屋を出ていった。

 

「ラムズの容体はどうだ」

 

リデルが先に問いかけた。

リーフィアはハッと身を正し、重い心地で答える。

 

「はい。軍医らの手によって傷口を塞ぐ処置こそ完了いたしましたものの、意識はいまだ戻っておらず、著しい失血も重なり予断を許さぬ状態にございます」

 

「そうか……」

 

リデルは短く呟いた。

 

「……申し訳ございません」

 

リーフィアは深く頭を垂れ、声を絞り出す。

 

「私めが身を挺してお二人をお守りすることもできず……それどころか、お命を狙った賊を取り逃がしてしまうとは……」

 

「過ぎたことだ」

 

リデルは静かに、しかし断固とした口調で首を振る。

 

「それに。リーフィアのおかげで手に入ったものもある」

 

リデルは窓の外のクロンドの方向を見た。

 

「先ずは目先の問題を片付ける。我々も直ちに立ち、ガルヴェの先鋒部隊を追う。クロンドのモグラ(本領貴族)どもに、引導を渡すぞ」

 

───

 

西の主要街道を敵に突破されつつあるとの報がもたらされるや否や、本拠地クロンドは混乱の極みへと陥っていた。

 

「……アーキバス伯の密通が明白となった時点で、なぜ即刻奴を断罪し処分しなかったのだッ!?」

 

大広間に雷鳴のごとき怒声が轟く。

声を上げたのは、バヨネッタ伯であった。

彼は自らが死守していた東の主要街道から敵主力が西へ急速転進したと知るや、即座にすべての情勢を悟ったのだ。最低限の防衛兵力のみをノルド山脈に残し、全軍を引いてここクロンドへと合流を果たしていた。

クロンドが陥落してしまえば、持ち場を単独で守ったところで何の意味もなさない。その決断は極めて迅速かつ的確なものであった。

優れた大局観と豪胆な行動力──バヨネッタ伯こそ、ラングレー公陣営において唯一「名将」と呼ぶにふさわしい人物であった。

 

「過ぎたことを、バヨネッタ伯」

 

ラングレー公ロイドが、さも道理であるかのように言葉を返す。

 

「いまさら過去の過ちを論じたところで何になろう。いかにして敵の侵攻を打ち砕くか、いま最優先すべきはそれだけに過ぎまい」

 

言葉そのものは至極正論であった。

しかし、この破滅的な危機を招いた元凶こそ、他ならぬ彼自身の甘さにあったのだ。

バヨネッタ伯を介してアーキバス伯の裏切りの徴候を聞かされた際、ロイドは曖昧な態度で事実をうやむやにした。カリムらの介入によって裏切りが決定的な真実として白日のもとに晒された後においてすら、明確な処罰を下そうとしなかったのだ。アーキバス伯の「改心」に期待するという、この状況下においてはあまりに致命的な楽観を抱き続けていた。

理由は単純至極であった。

アーキバス伯はその巧みな世辞とおもねりによって、若きロイド・ラングレーのお気に入りであったのだ。一方で、遠慮なく直言を繰り返すバヨネッタ伯は、ロイドにとって煙たい存在に過ぎなかった。

 

それだけではない。

ロイドには、アーキバス伯を強く糾弾できないもう一つの決定的な弱みがあった。

そもそもロイドが実の父親を権力の座から引きずり下ろしたこと自体、アーキバス伯の甘言に乗った結果であったのだ。グランツに対して柔軟な融和姿勢を示そうとしていた父を排斥したという過去がある以上、今さらアーキバス伯の非を断罪することは、自らの権力奪取の正当性を全否定することと同義であった。

それこそが、ロイド・ラングレーという男の器量の限界であった。

見栄えは美しく弁舌にも長けているが、その内実は空杯そのもの。場当たり的で情緒的、常に目先の利害と保身に揺れ動く。元よりリデルは言わずもがな、キリルやラムズの足元にすら及ばぬ矮小な人物であったのだ。

そして質の悪いことに、こうした人物に限って自らの小心と無能を隠し立てし、同質の低劣な人間を惹きつける術にだけは長けているのであった。

 

「……その通りでございます! 今こそ我らは一丸となり、グランツの暴挙に抗うべき時!」

 

別の家臣が調子を合わせて口を挟む。

 

「然り! 戦術的には劣勢に立たされているとはいえ、戦略的に追い詰められているのはグランツ陣営の方なのだッ!」

 

老臣の一人が威勢よく声を張り上げると、他の家臣たちも雪崩を打ったように同調した。

議場はあっという間に、現実から乖離した空虚な勇ましさで満たされていく。

ロイドはその場の空気を敏感に察知すると、ここぞとばかりに席を蹴って立ち上がった。

 

「籠城だッ! ここに至っては、来春を迎えるまでこの堅牢なるクロンドに立て籠もり、敵の焦燥を誘うのだッ!!」

 

「「「おおおっ!!」」」

 

割れんばかりの喝采が巻き起こった。

ただ一人、バヨネッタ伯だけが愕然と絶望に唇を激しく震わせていた。

 

「何を狂ったことをッ……!!」

 

怒号が飛び交う。

 

「籠城とは、外部からの救援を前提として初めて成立する作戦なのですぞッ! 南にはグランツの本隊、北には北方軍閥が控え、包囲された我らのもとに一体誰が助けに来るというのだッ!? それに兵糧はどうするおつもりか! この都市の備蓄は、どれほど長く見積もっても三ヶ月が限界だッ!!」

 

「厳格に統制するまでのこと」

 

ロイドは何でもないことのように言い放った。

 

「優先されるべきは我ら指導部、次いで前線の兵士たち……という順序にな」

 

バヨネッタ伯は言葉を失った。

ロイドの頭のどこにも、クロンドに生きる民草の命に対する考慮など微塵も存在しなかったのだ。

 

「栄えある我ら本領貴族は、絶対に降伏などせんッ! 邪智暴虐なるグランツに……そしてその手先たる背天者リデルに、我らの矜持を見せてやるのだッ!!!」

 

家臣たちが一斉にそれに続き、示し合わせたように同じお題目を叫び立てる。

バヨネッタ伯はただただ唖然としていた。

そしてこの瞬間、彼は初めて悟ったのだ。

なぜロイドたちが、ここまであからさまに現実を無視した暴論に走るのかを。

──彼らは、すでに正気を失っていたのだ。

猛々しい言葉を吐き散らしてはいるが、その瞳の奥には例外なく底知れぬ恐怖と不安が渦巻いていた。

目前まで迫った自らの破滅から目を背けるための、あまりに惨めな現実逃避であった。

 

考えてみれば当然のことである。前年にグランツ陣営によって破られた本領貴族たちは、位が高ければ高いほど領地を追われ、少なくない数が処刑の憂き目に遭っていた。

自分たちが敗北した先に何が待っているのか──それを想像するだけで、恐怖に狂いそうになるのだ。

だからこそ、彼らは現実を見ないことを選んだ。

もはや集団ヒステリーの惨状と化した議場を、バヨネッタ伯は失意のうちに力なく後にした。

一歩廊下へ出ると、静寂が広がっていた。

正気を保っているからこそ、すべてを失ったかのような底なしの喪失感が全身を押し潰す。

長きにわたる軍歴の中で、彼は初めて「自害」という過酷な二文字を頭に浮かべていた。

その時──背後から静かな声がかけられた。

 

「……早まってはいけませんよ、バヨネッタ伯」

 

振り返ると、そこに立っていたのはジェネルであった。

 

「……ふん」

 

バヨネッタ伯は精一杯の強がりを顔に貼り付ける。

 

「……命の捨てどころを思案していただけだ」

 

「それはちょうど良かった」

 

ジェネルの口元が、不敵な笑みに歪む。

 

「私もバヨネッタ伯に、乾坤一擲の秘策をご提案しようと思っていたところですので」

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