107話
──少しばかり、時を遡る。
カリムはずっと、鬱蒼とした物陰に潜んでいた。
アーキバス伯率いる軍勢が圧倒的な暴力によって蹂躙されていく一部始終を、息を潜めて冷たく静観していたのだ。
全身に小枝や葉を纏い、自らの存在を完璧に森そのものへと溶け込ませている。
イスタッド陸軍の最新戦闘教義が規定する「潜伏・迷彩術」を、まさに模範と言うべき精度で実践していた。
彼の目的はただ一つ──標的であるラムズ・ドーヴィルの抹殺であった。
絶好の機会は、思いのほか早く訪れた。
別働隊の指揮官でありながら、アーキバス伯の軍勢に対し先陣を切って突入していく、只ならぬ気配を纏った一人の青年。カリムはその青年の後を密かに追跡した。
すると狙い通り、ラムズの人相書きと合致する中年男性が姿を現したのだ。
カリムは単眼鏡を覗き込み、読唇術を用いて遠く離れた二人の口の動きを拾い上げる。
そして──カリムの思考がピタリと止まった。
「……リデル、だと……?」
低い呟きが漏れる。
「あの若造が……リデル・バートンだというのか」
これまで追撃していたあの青年こそが、リデル・バートンその人であったと、ここで初めて知ったのだ。
その名は、異邦人であるカリムの耳にも届いていた。混迷極める帝国情勢を探れば必ず行き当たる名──「グランツの懐刀」「グランツ陣営の頭脳」「背天の悪魔」と恐れられる存在。
そして同時に、アーキバス伯が破滅を冒してまで狙っていた本当の目的が何であったのかも、カリムは理解した。
射撃の準備を進めながら、カリムの頭脳は高速で回転を始める。
ゲオルクスから直々に下された命令は「ラムズの抹殺」だ。
しかし目の前には怪我の功名か、グランツ陣営の心臓部そのものと言える男が無防備に立っている。
だが──自分は単身だ。
いかに射撃の天才と謳われるカリムであろうと、この状況下で二射目を放つのはあまりに危険すぎる。
この大陸の人間たちは、「スキル」などという異様な力によって常軌を逸した身体能力を発揮する。ここまで来る間にも、そうした化け物じみた連中を嫌というほど目にしてきたのだ。
何より──あの青年の傍らに控える女が極めて厄介であった。先ほどの戦闘でも、蝶のように舞い蜂のように刺す立ち回りで、大の男たちを赤子の手を捻るように一蹴していた。
一度距離を詰められ肉薄されれば、一人では到底太刀打ちできない。
(……チッ、クソが)
心の中で毒づく。
(格好をつけて単独行動などせず、部下の一人でも連れてくるべきだったな)
そう思考しながらも、長年培われたカリムの指先は滑らかに動いていた。
火薬を仕込み、弾を押し固め、確実に火門へと雷管をセットする。
腹を決めた。
「……よし」
誰にも聞こえぬ極小の声で呟く。
「……リデル・バートンを先に始末する。ラムズの首は……次の機会だ」
重厚な銃身を構え、照準を合わせる。
意識を極限まで研ぎ澄ませていく。
集中が高まるにつれ、周囲のあらゆる雑音がスッと消え去っていった。
風の鳴る音も、葉の擦れ合う音も遠のいていく。
残されたのは、自身の規則正しい鼓動と──百数十メートル先に立つ「標的」の鼓動を告げる微かな感覚だけであった。
カリムはこの瞬間が、たまらなく好きだった。
硝煙と血に塗れた戦場で生きてきた長い歳月の中で、これほどまでに生の実感が湧き上がる時間は他になかったからだ。
引き金に指をかける。
息を止め、自らの鼓動を数える。
リデルの僅かな動きだけを、眼球の動きのみで追う。
探していた「瞬間」が訪れた。
自身の鼓動と、リデルの鼓動の周期が完璧に重なったその瞬間、カリムは迷いなく引き金を絞り込んだ。
───
世界の時間が、恐ろしいほどに遅くなった。
リデルはこの感覚に深い見覚えがあった。
死の深淵に臨んだ者だけが知る、あの「走馬灯」の感覚だ。
引き伸ばされたスローモーションの視界の中で、リデルの目に飛び込んできたのは──血相を変えたラムズの顔であった。
死を賭した、鬼気迫る表情。
次の瞬間、空気を引き裂く凄まじい爆音が響き渡る。
衝撃とともに、ラムズの右腕が肩の根元から丸ごと吹き飛んだ。
鮮血の飛沫が、色鮮やかに空間へと舞い散る。
ラムズは顔を歪め、激痛に苦悶の表情を浮かべながらも……なおも必死に前へと身体を押し出していた。
自らの身を「盾」と成して、リデルを庇い続けようとしていたのだ。
死の危機が遠のくにつれ、引き伸ばされていた時間の感覚が加速し、元の奔流へと戻っていく。
現実の時間と脳内の思考スピードが重なった直後、リデルは喉が千切れるほどの咆哮を上げた。
「──『十時』の方向だッ! リーフィアッッ!!!」
「──ッ!!」
リーフィアは主の叫びに対し、人知を超えた神速の反射で応えた。
瞬時に標的の方向を捉え、草木に紛れる極小の殺気を看破する。
しなやかな肢体が弾かれたように跳躍した。
もはや人の領域を超えた、弾丸のごとき速度で一気に距離を詰める。
カリムの網膜に、その脅威的な影が映り込んだ。
「……なっ!? 人間が出せる速度じゃねえ……ッ!!」
再装填を行う猶予など、残されていなかった。彼は無用になった小銃を投げ捨てた。
「くっ……!」
叫びざま、右手で腰の短銃を引き抜き、即座に銃口を跳ね上げようとする。
しかし──すでにリーフィアの刃は、間合いの内側へと侵入していた。
コンマ数秒の刹那。
カリムが引き金を絞るよりも疾く、リーフィアの短剣が鋭く閃く。
冴えた刃先が、カリムの喉元を目がけて直線的に突っ込んできた。
カリムは極限の反応で反射的に身体を捩り、危機一髪で直撃を回避する。
だがその無理な体勢のせいで、手にしていた短銃の銃口が大きく跳ね上がった。
──タァンッ!
引き金が引かれ、放たれた弾丸は虚しく大木の幹を穿つのみに終わる。
カリムは眼前まで迫ったリーフィアを凝視した。
一見すれば息を呑むほど美しい容姿の少女。しかしカリムの目には、それが地獄から這い出てきた死神そのものに映っていた。
カリムの左手が、電光石火の動作で動く。
あらかじめ懐から引き抜いていた特殊な「閃光弾」──。
この至近距離で起爆させれば、非致死性ながら自らもただでは済まぬ危険な代物であった。
だが、カリムに躊躇の二文字は存在しなかった。
即座に起動させ、二人の間へと投げつける。
次の瞬間──目を射るような強烈な閃光が爆発した。
山々の空気を一変させる轟音が激しく響き渡る。
リーフィアは本能的な危機察知に従い、身を翻して後方へと大きく跳躍した。
鮮やかに着地を決める。
しかし……視界は真っ白な光の渦に塗り潰され、鼓膜は激しい耳鳴りで狂わされていた。周囲の音を一切拾うことができない。
「不覚を……ッ!!」
リーフィアは歯噛みしながら叫んだ。
視界が徐々に回復した時には、案の定──そこにカリムの姿はなかった。
かすかに揺れる草木の残像だけが、そこに狙撃手が潜んでいたことを示していた。
「……ラムズ! しっかりしろ、ラムズッ!!」
一方、リデルはラムズの体を抱きかかえ、即座に適切な止血処置を施していた。
右腕を失った傷口の上部を、引き裂いた布で狂わんばかりの力で強く縛り上げる。
「ラムズッ! 聞こえているかッ!!」
ラムズからの返答はない。
力なく地面にうなだれたままだ。
かすかな息遣いは残っているものの、その意識は遥か深淵へと遠のいていた。
リデルは一瞬たりとも手を止めることなく、必死に声をかけ続けた。
しかし、普段の彼の不敵な返事が、返ってくることはなかった。




