105話
「進めぇッ! 敵の背後を突くのだッ!」
アーキバス伯は馬上から声を張り上げた。
威勢だけは良かった。
しかし彼率いる五千の兵は、南へ下山してバートン軍本隊の背後を突くような危険な真似はしていなかった。
向かっていたのは東──東西を結ぶ「連絡線」であった。
目的は二つ。
東の主要街道を迂回しようとする敵別働隊の撃滅。
そして、それを率いるリデル・バートンの捕縛。
先ほどもたらされた報告は、アーキバス伯にとってまさに天からの恵みであった。
『千名ほどの敵別働隊が、密かに連絡線へと侵入しようとしております。なお、これを率いているのはリデル・バートンと思われます!』
その名を聞いた瞬間、アーキバス伯の目の色が変わっていた。
グランツの懐刀にして、グランツ陣営のナンバー2。それが目と鼻の先にわずかな小勢で潜んでいるというのだ。
捕らえれば、これ以上ない大戦果だ。
仮に東の主要街道が突破されたとしても、十分に面目が立つ。それどころか、裏切り未遂という自らの失態を帳消しにして余りある大武功であった。
あまりに出来すぎた話ではあった。
しかし、リデル・バートンが優れた策略家であると同時に、自らの危険を顧みない大胆不敵な指揮官であることは、本領貴族たちの間でも周知の事実であった。
何ら疑う余地などなかったのだ。
ゆえに小心者の彼であっても、即座に行動を起こすことができたのだった。
五千の軍勢は、一心不乱に東へ向かって突き進んでいた。
密かに行動していると信じ込んでいる別働隊の背後を突くために──。
アーキバス伯の脳内は、この先の戦術的成功と、約束された栄光のビジョンで満たされていた。
まさに、その時であった。
腹に響くような激しい轟音が響き渡った。
先鋒が進む前方からであった。
「な、何事だッ!?」
アーキバス伯は馬上から転げ落ちそうになるほど狼狽した。
なお、彼は先頭から遥か後方に位置していた。
「伏撃ですッ!」
副官が馬を寄せながら、悲鳴のような声を上げる。
「敵の銃兵隊が街道の脇の茂みに潜伏し、我が先鋒に猛射を浴びせておりますッ!」
アーキバス伯の顔が、一転して青ざめた。
状況が自らの想定とは全く違う方向へと狂い始めていることに、彼ほどの愚物でも気づいた。
しかし、今更引き返すことなど叶わない。
意を決した。
「す、進めぇッ!!」
叫んだ。
「敵は所詮小勢だ! 数で押しつぶし、何としても背天者リデル・バートンを捕らえるのだッ!!」
どのような犠牲を払おうとも目の前の敵を撃滅すると、半狂乱で決意を固めた。
──だがその背後では、思いもよらぬ事態が進行しつつあった。
目の前の「疑似餌」に血眼になっていたアーキバス伯には、それを知る由もなかった。
───
時間を少し遡る──。
バートン軍の主力は、ガルヴェを先頭に東の主要街道の入口へと差し掛かろうとしていた。
しかし突然、ガルヴェが静かに手を掲げた。
全軍の行進がピタリと止まる。
「どうされましたか?」
作戦の全貌を知らされていない副官が尋ねた。
「全軍に伝達!」
ガルヴェは不退転の声で言い放った。
「我らはこれより反転! 直ちに『西の主要街道』へと急行するッ!」
周囲の将校たちがざわめいた。
東に向かっていたはずが、なぜ今さら西へ引き返すのか──困惑が全員の顔に浮かんでいた。
「急げッ!」
ガルヴェは将校たちの動揺を切り捨てた。
「すでにリデル様の策は発動されたのだ! 今こそ我がバートン兵の精強ぶりを発揮し、可及的速やかに西の主要街道を踏破するぞッ!!」
同時刻──。
西の主要街道を死守する敵拠点では、緊迫した迎撃態勢が敷かれようとしていた。
敵主力は東へ向かったと報せを受けていた。しかし、突如として百騎ほどの騎兵隊が山道を猛スピードで駆け上がり、この拠点へと一直線に向かってきていたのだ。
「総員、合図があるまで撃つなよ! もっと敵を引きつけろッ!」
櫓の上で指揮を執る守備隊長が、弓兵や銃兵たちに命じる。
眼下に迫る騎兵集団を凝視した。
その時──強烈な違和感が守備隊長を襲った。
向かってくる騎兵の一頭が、大きな「白旗」を高く掲げていたのだ。さらに複数人の声が山間に響き渡っていた。距離が縮まるにつれ、その叫び声ははっきりと聞き取れた。
「撃つなッ! 撃つな! 我らは味方だッ!!」
防壁の兵士たちが大きく動揺した。
明らかに敵ながら、自らを味方だと叫んで近づいてくる。
守備隊長も動揺し、攻撃の指示を出すタイミングを完全に逸してしまった。
やがて集団の中から一人の男が馬を降り、櫓の真下へと歩み寄ってきた。
「私はバートン家直臣、ラムズ・ドーヴィルであるッ!」
腹の底から響く、堂々たる大音声。
「諸君らの主君・アーキバス伯と寝返りの密約を結び、こうして参上した! 急ぎ開門し、我らを通されたい!!」
守備隊の中に、激しい動揺とざわめきが広がった。
「で、出まかせを言うなッ! 我らはそのような話など聞いておらんッ!!」
守備隊長が、常識的な反論を返す。
「何だと!?」
ラムズは間髪入れずに畳みかけた。
「貴公に連絡が届いておらぬというのか!? だが、アーキバス伯が我がバートン家と通じていたことくらいは知っておろう! 今回の進軍も伯爵との裏の段取りに基づくものだ! アーキバス伯が急遽『連絡線』へと出陣したのも、東のバヨネッタ伯の動きを牽制し、抑え込むためのものなのだぞッ!!」
ラムズの言葉は完全なる「嘘」である。
しかし、そこには巧みに「真実」が織り交ぜられていた。
アーキバス伯がバートン家に寝返ろうとしていたことは、末端の兵卒にとっても周知の事実であった。一度はその企みが阻止されたかに見えたが、実は水面下で繋がり続けていたと言われても何ら不思議ではない。また、連絡線への出撃理由についても、「裏切りを察知した宿敵バヨネッタ伯の反撃を抑えるため」という説明も、一応筋が通っていた。
守備隊長は、激しい迷いに囚われた。
ラムズは、その表情から葛藤を鋭く読み取った。
「急げッ! 我らには時間がないのだ!!」
一気に追い打ちをかける。
「もちろん、アーキバス伯の部下らである諸君らの命と地位は、我が主家バートン家の名の下保証している!!」
守備隊長は、その一言でついに決断を下した。ラムズの言を全て信じたからではない。信じて騙されても、しょうがないという状況が揃ったからだ。
「わ、分かった……! 開門ッ! 門を開けろッ!!」
部下に向かって叫ぶ。
ギギギと重い音を立てて、難所の巨大な城門が開き始めた。
ラムズは、こみ上げる笑みを必死に噛み殺した。
「感謝するッ!」
さらに言葉を重ねる。
「それと貴公ら、何名か我らに同行してもらいたい! この先の拠点にも寝返りの連絡が届いていない恐れがある、その時は一緒に説得を頼むぞッ!」
「分かった! すぐに手配しようッ!」
迷いのない返答であり、ラムズは内心感心した。
(ふん、あの守備隊長。こちらの思惑を察知できる程度には頭が働くようだな。生き残っていたら、我がドーヴィル家で召し抱えてやるか)
──こうして、難攻不落と謳われた山岳の防衛線が、呆気なく解放される。
虚実を巧妙に混ぜ合わせたリデルの奇想天外な一手により、敵の頑強な牙城が内側から自壊しようとしていた。




