104話
「──全軍、出撃だッ!!」
アーキバス伯の甲高い怒声が、静かな廊下に響き渡った。
「今すぐ各拠点から動かせる兵をかき集めろ! 奴らの背後を突き、一網打尽にしてくれるッ!!」
鼻息荒く廊下を突き進んでいた、まさにその時であった。
曲がり角を曲がったところで、正面から歩いてきた男と危うく衝突しそうになる。
そこに立っていたのは、カリムであった。
「おや……どうしたんだい、アーキバスの旦那」
カリムは相変わらずのんびりとした口調で問いかける。
「そんなに気負い立って……一体何事だ?」
「て、敵の主力が東の街道に対し、本格的な攻勢を開始したのだッ!」
アーキバス伯は一瞬ギョッとして気圧されたが、すぐさま何事もなかったかのように平静を装った。
「我らは盟友バヨネッタ伯を救援すべく、直ちに出撃するところだ!」
「ふうん……」
カリムは顎の無精髭を軽く撫でながら、試すような視線を投げかけた。
「確か旦那の手持ちの兵は、かき集めても五千やそこらだろう? 対する相手は少なくとも数万規模の大軍だ。いくら背後を突く奇襲とはいえ、随分と剛毅なこったねぇ」
鋭く射ぬくような目つき。
アーキバス伯は思わずビクッと身体を震わせた。
「わ、我らの確固たる忠誠と勇敢さを示し、ラングレー公に潔白を証明するためだッ!」
まるで自らの恐怖を振り払うかのような、見苦しい言い訳であった。
「ああ、もちろんカリム殿たちの手を煩わせるには及びませんぞ! ここでゆるりと待機し、我らの素晴らしい戦果を待っていてくだされば良い!!」
「まあ……」
カリムは呆れたように肩をすくめた。
「俺たちはこれから『手土産』を持って、クロンドの本営へ戻ろうとしていたところだ。あんたの好きに戦りな」
「おお! そうかそうか! ならば、ラングレー公によろしくと伝えてくれッ!!」
アーキバス伯は引きつった笑みを顔に貼り付けたまま、逃げるように足早に去っていった。
カリムはその情けない後ろ姿を、目を細めながら見送った。
「……おい、お前たち」
隣に控えていた部下たちに静かに命じる。
「お前らは先にクロンドへ戻っていろ」
「……隊長。一戦仕掛けるのであれば、我らも同行し数がいた方が良いのでは?」
部下が不思議そうに聞き返した。
「馬鹿を言え」
カリムは短く切り捨てた。
「俺たちの『ゲヴェル』が集団戦で真価を発揮するのは、十分に視界が拓けた平地だ。入り組んだ山岳戦では、個人技による狙撃の方が有効だろ」
一拍置き、不敵な笑みを口元に浮かべる。
「……あの野郎、どうやら山の中で『大きな獲物』を見つけたらしい」
舌で唇を軽く舐める。
「もちろん、この俺カリム様が横取りしてやるがな」
───
時間を、リデルが司令官代理として全軍の指揮権を引き受けた直後まで遡る──。
幕舎に集う諸将に対し、改めての挨拶も自己紹介も必要もないため、すぐに本題に入った。
「諸君」
リデルは静かに壁の軍術地図の前に立った。
「敵の抵抗はさておき……私はあくまで『西の主要街道』を通って進撃すべきだと考えている」
居並ぶ諸将は、息を殺してその言葉に耳を傾けていた。
「理由は二つある。第一に、東西の主要街道から敵本拠地クロンドを目指した場合、東ルートは二日強を要するのに対し、西ルートは一日半ほどの距離で到達できるという点。そして第二に、そもそも当初の作戦計画が西の街道を通る前提で立案されていたという点だ。今から全軍の進軍計画を東へ変更すれば行軍に大きな混乱が生じ、更なる時間の空費を招きかねん」
誰も反論しなかった。
分かりきった道理であったからだ。
そして同時に、誰も落胆などしていなかった。
リデルという男であれば、この八方塞がりの局面を覆す劇的な一手を持っていると、その場にいる全員が信じて疑わなかったからである。
「……そこで、一計を案じる」
リデルは指揮棒を手に取った。
「当初の計画は、アーキバス伯の寝返りを前提に組み上げられていた。……ならば、結果的にそれと似た状況を我々の手で作り出せば良い」
幕舎にどっとざわめきが広がった。
「い、一体どのようなお考えで……!?」
ガルヴェが身を乗り出して問う。
「……敵を、『疑心暗鬼の渦』へと叩き落とすのだ」
リデルは地図の東西に伸びる二本の主要街道の間を、指揮棒で緩やかになぞりながら言葉を重ねる。
「私が単身敵地に潜入し間者働きをしたのは、何もキリルの安否を確かめるためだけではない。地元民しか知らぬ抜け道、あるいは敵が密かに整備を進めている『隠しルート』が存在しないかを探るためでもあった」
「そのような道があったのですか!?」
「あった」
リデルは地図上の一点を確かな足取りで指し示した。
「東西の主要街道を横断するように結ぶ山道が、敵の手によって密かに整備されていたのだ。東西の陣営間で兵や物資を迅速に行き来させるための連絡線だな。そして……この連絡線へと繋がる形で、我らがレイオン側から南北に伸びる『山道』も見つけ出した」
「おおッ……!」
諸将から歓声が上がる。
「つまり! その隠された山道を通って敵の背後に回り込み、奇襲を仕掛けるというわけですなッ!?」
ガルヴェが興奮気味に身を乗り出した。
だが──リデルはどこか意味深な笑みを浮かべただけだった。
「ああ、私も当初はそれを考えた」
一拍のタメを置く。
「しかし、実際に私自身がその獣道を確認してみたところ、とても数万の大軍を通せるような道幅ではなかった。足腰の強い精鋭兵を選抜して急行させたとしても、行軍の遅れなしに進めるのはせいぜい『千名』が限界だろう」
幕舎の熱気が、すっと冷めて沈み込んだ。千名程度では、奇襲効果を加味してもとてと全ての防衛拠点を突破するのは不可能と思えたからだ。
「……しかしだ」
リデルは鋭い眼光を走らせる。
「今回の作戦において、この獣道を通した千名の別働隊で『敵の連絡線』を強襲させる。そしてその裏で──主力軍は全力をもって『東の主要街道』へ向かうだ」
今度上がったのは、困惑と混乱の声であった。
西の街道を進むと言いながら、主力は東へ向かえという指示。
明らかに矛盾していた。
誰もリデルの正気を疑いはしなかったが、あまりに奇抜な采配に思考が追いつかなかったのだ。
その喧騒の中で、ラムズだけが一人無言で思考を巡らせていた。
やがて──ラムズの口元が静かに開いた。
「……なるほど。敵の……アーキバス伯とその手勢の心理を強烈に揺さぶるわけですか」
リデルは不敵な微笑を浮かべ、力強く言い切った。
「その通りだ。我々はキリルの行った調略、当初の進軍計画、そして追いつめられた敵の心理状態……その全てを盤上の駒として利用し、この山岳地帯を『無傷』で突破する」




